今だから話そう    

1993年の壊れた日々     宮本神酒男 

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さまよう私 

 夕方、自転車に乗って川向うのコンビニに買い物に行った。店の入り口の前の駐輪スペースに自転車を停めようとすると、そこに50歳くらいのやさしい顔立ちの、でも薄汚いかっこうをした女性が険しい顔をして、ブツブツとつぶやいていた。コンビニに入ろうとする何人かの客は、このひとりごとをつぶやく女性を横目で見ながら、眉をひそめ、近づかないように迂回し店のマットレスを踏んだ。

私も彼女に近づこうとはしないけれど、心の中で、親近感に近い感情をいだくところが他の人とは違った。眉をひそめるどころか「ぼくもあなたの側にいたことがあるのですよ」と言いたくなるのだ。そう、私はかつて、彼女とおなじように、ひとりごとをブツブツつぶやきながら、さまよったことがある。あちら側にいて、そしてこちら側の世界に戻ってきたのだ。

こちら側の世界に戻ってきたものの、ときおり、意識だけあちら側の世界へ飛んでいくことがあった。私はブツブツつぶやきながら、ひたすら路地を歩いている。ここは中国雲南省の大理である。ハッと我に返る。こめかみからは汗が流れている。高鳴った鼓動を抑え、荒くなった呼吸を整える。パニックに陥ったのである。もう十年以上、こういった症状はないが、当時のことを思うと胸がしめつけられるような気がする。

最近になって、年を取ったせいか、あるいは時間が経ったせいか、そのときのことを落ち着いて想起することが可能になった。そのときやその後、私の身に起こったUFO拉致体験や幻視体験、予知夢、シャーマニズムや魂の存在への興味といった、普通の人々からすれば「あやしげな話」に分類される体験も、ブツブツつぶやきながらさまよっていたことと無関係ではないだろう。

 

記憶喪失の記憶 

 真っ暗闇のなかで目が覚めた。いや、意識がよみがえってきたというべきだろう。目があいているかどうかもわからなかったのだから。側頭部の下には柔らかい枕ではなく、冷たくて硬いコンクリートがあった。私の頬っぺたは、コンクリートにめりこむように密着していた。口の中は鉄錆の味がした。半開きの口には、コールタールがたまっていた。コールタール? いやそれは自分の唾液だ。唾液がもれつづけて、固まったものが、私にはなぜかコールタールのように思えたのだ。私は寝ているというより、倒れていた。意識があることだけが、私が死体でないことの証しだった。

 起きねば。私の脳は体にそう命じたが、体は言うことを聞かなかった。頭をあげることもできなかった。指先を動かすことくらいしかできなかった。いったいここはどこなのか。私は何をしていたのか。

 正直なところ、私はそのときに思い出した「記憶」についてあまり語りたくない。少なくとも十年以上、ひとつの明確な「記憶」が残っていた。私は上空に浮かんでいる飛行船のような物体(それをUFOと呼んでもいいだろう)に連れて行かれ、ステージのような台の上に寝かされ、オペ(手術)まで受けたのである。そのとき見えない線状のものが私の局部に伸びて、精液を採取した。そのとき局部にチクリと痛みが走った。台のまわりには無機質な男たちが立っていた。

こうしたことはたしかな「記憶」だったが、次第に薄れて、実体験であったという感覚が消える頃(すべての記憶はそういうものだが)「あれは一種の脳障害が産みだしたものだろう」という至極常識的な考えに傾くようになった。とはいえ当分の間は、拉致されたというたしかな「記憶」を持っていた。

 夜が明けるまで、永遠と思われるほどの長い時が流れた。ときおりどこか遠くから鶏の鬨(とき)を告げる鳴き声が聞こえてきたが、まだ漆黒の闇に光は現れなかった。私は現実的な記憶を取り戻しつつあった。

 

祖先は日本からやってきた 

ここは中国広西チワン族自治区北西部の道路沿いの村の旅社(簡易ホテル)に違いなかった。広西チワン自治区の西部にケ小平の百色蜂起で知られる百色という比較的大きな都市がある。そこからバスで2時間のところに田林という町があり、そこでまたローカル線に乗り換えて、数時間のところにある村である。グーグルマップでその道路を確認しようとしてもできないので、いまもマイナーな路線のようである。

 おんぼろバスの窓から樹氷が見えたのをいまでも覚えている。時は1993年1月下旬。雲貴高原の周縁に位置し、海抜も高いので、冬は凍てつくように寒いのだ。じつは前年の10月頃にも来たことがあった。どうしても気になることがあり、そのことについて調べずにはいられなかったのである。

 当時の私は長年携わってきた雑誌編集、記者の仕事をやめ、香港に住まいを移し、中国西南地方をまわりながらその経験談を邦人向けの雑誌に書いていた。だからつねにネタを探し、興味深いことや気になることがあればそこへ行き、取材をするという生活を送っていた。

 気になることというのは、この道路沿いの村から歩いて半時間ほどの山中にあるヤオ族の村に伝わるという伝説だった。彼らはじつはヤオ族ではなく(すくなくとも他のヤオ族とは種類が違って)祖先は日本から来たというのである。

 祖先が日本からやってきた民族? 

日本人がどこから来たかについては、さまざまな仮説が出され、論じられてきた。バイカル湖周辺から来たという説がもっとも大衆受けがいいように思えるけれど、土着説(縄文人説)やミクロネシア説、中国西南説、騎馬民族説、(ヒマラヤの)レプチャ説など、説得力のある仮説からトンデモ説までさまざまな仮説が提唱された。

しかしその逆の、「日本人はどこへ行ったか」という仮説を唱えた人はいなかった。日本列島は吹き溜まりのような場所ではあるが、かといって溜まる一方であったとはかぎらないのではないか。国家レベルで日本人が大挙してどこかへ行くということはないにしても、部族レベル、村落レベルなら移住もありえるのではないか。しかし移住先が雲貴高原というのは、あまりに遠すぎて、常識的にはありえない。

 当時の私は「行けばどうにかなる」という精神のもと、ときには自転車(マウンテンバイク)に乗って山奥に入っていった。たとえば貴州、雲南との省境に近い広西チワン族自治区の隆林という町にバスで行き、そこからマウンテンバイクに乗って山間部に入っていったことがある。(現在は高速が通っている)

このときの目的のひとつはライ族(ニンベンに来という字を当てる)について調べることだった。彼らの言葉はベトナム語に近く、興味深い点がたくさんあるのだが、独立した少数民族として認知されないため、ほとんど亡霊のような存在になりつつあった。民家を訪ねて回ったのだが、聞こえてきたのは、コーラオ族という隣の民族の支系扱いされるようになった嘆き節だった。

 1992年10月、そのような調子で私は「祖先が日本人の民族」の村を訪ね、村長からいろいろと話を聞いた。この民族の大きな村は二つしかなかったので、合計しても人口千数百人という超少数民族である。簡単な語彙調査を行ったところ、彼らがミェン系のヤオ族に分類されうることがわかった。ミャオ語と同系統だが、ヤオ族のなかの多数派である。これのどこが日本起源なのか。

「それは大きな勘違いなのですよ」と本職が農民である40代の村長は苦々しそうな表情を浮かべて言った。「日本から来たのではありません。東京(とうけい)、つまり開封(カイフォン)から来たというのをだれかが誤解したのです」

「え……」

 私は全身から力が抜けて行くのを感じた。たしかに『東京夢華録』という有名な本があったな、と私は思い出した。この東京とは北宋の都、東京開封府のことであり、現在の河南省開封市である。雲南あたりの少数民族地帯を回っていると、イ族や白族、タイ族などの少数民族が「祖先は南京から来た」などと自慢げに語る場面によく出くわすのである。これもその系統の少数民族の先祖自慢の一種なのである。

 ある村人によれば、日中戦争の頃、あるいはその前に、国民党の歴史学者がやってきて、そのことについて調べていたという。歴史学者というのは本当だろうか? 本当だとしても、それは工作活動だったのではなかろうか。しかし工作活動だとして、それは何のために? もし東京(開封)を日本の東京と勘違いさせるのが工作活動だとしたら、あまりにもお粗末ではないか。私はこのレベルの低い話にがっかりしたが、多少未練はあったものの、これ以上深追いしないことにした。

 私の興味はこの村に伝わる銅鼓儀礼のほうに移っていた。毎年春節(旧暦の正月)になると彼らは地中から聖なる銅鼓を掘り出し、一か月にわたって儀礼をおこなった。そして一か月後、巫師(シャーマン)が占って場所を決め、そこを掘って銅鼓を埋めるというのである。この儀礼は長い間、おそらく2千年以上にわたっておこなわれてきたのではなかろうか。この習慣はおそらく多くの民族が持っていたに違いない。広西チワン族自治区の省都南寧の博物館やベトナムのハノイの博物館の展示物を見ればわかるように、銅鼓文化の中心地はベトナム北部から広西チワン族自治区西部にかけての地域である。

 一年のうち11か月は地中に埋めておく、ということは、その民族が滅びたとき、銅鼓は地中に埋まったままになるということである。私は日本に銅鼓文化はないが、銅鐸文化があったことを念頭に置いていた。銅鐸はしばしば地中からまとめて発見される。あまりにもたくさんある場合は、そこが製造工場であった可能性が高いが、それほど多くない場合、儀礼のために埋めたのではないかと私は考えた。

 そういったことは確かめようがないだろうが、「生きた化石」のような銅鼓文化をこの目で見たいと思い、翌年の春節の前に再訪しようと考えたのだった。

 ただ、92年に来たときは未開放地区通行許可証を持っていたが(これは町だけの許可であり、村落に行くことはできないのだろうが、言い訳をする役には立った)93年は許可証がもらえず、公安にばれないように移動しなければならなかった、という違いがあった。私は旅社に一泊し、翌朝早くに村へ移動するつもりだった。

 

UFOに拉致された、と打ち明けたら怪訝な顔をされた 

 意識がよみがえったり、遠のいたりするうち、あたりは明るくなってきた。体を動かそうとしたが、まったく力が入らなかった。しばらくすると、数人の人が入ってきた。そう、ここは宿の部屋だった。男が言った。

「おお、目が覚めたか」

 男は私服を着ていたが、公安(警察)のようだった。簡易な点滴装置と医師の姿が見えた。彼らは私の体をベッドの上に戻した。私はベッドから転がり落ちていたのである。日本では考えられないが、床はコンクリートだった。戻されるときにベッドを見ると、枕元に置いていた本(ミルチャ・エリアーデの『ザルモクシス』(英文)というダキア人の神について書いた難解な本。よくまあこんな本を旅先に持ってきていたものだ)はそのままだった。

 どういうやりとりがあったか覚えていないが(私は意識朦朧としていて、ほとんどしゃべることができなかった)彼らは私を町の病院に搬送することに決めた。担架に乗せられた私は外に待っていたワゴン車を改造した救急車風の車に移された。ここから数時間の地獄の責め苦がはじまった。

 なぜ動けないのか。わかりきった話だが、怪我を負っていたのである。しかも腰のあたりを打っていた。あとで考えれば、下半身不随や全身不随になってもおかしくない大怪我だった。しかしこのときはその瞬間、瞬間の痛みをこらえるのに必死だった。

 道路はほとんど未舗装だった。道はゆっくりとカーブを描いたり、上がったり下がったりしたが、全体的には下っていた。ときおりタイヤが石に当って車体がバウンドすると、私は叫び声をあげた。自分がこれまで生きてきて、こんなに痛いと感じたことはなかった。4時間か5時間だったと思うが、それで痛みがすこしでも緩和できるかのように、叫び声をあげた。

 車がなめらかに走るようになったかと思うと、自分の体はどこかの殺風景な建物のなかに運び込まれた。町の総合病院である。レントゲン検査を受けたあと、だれかにのぞきこまれた。白衣を着た医師だった。

「何が起きたのですか」と彼は中国語でたずねた。

「わかりません」と答えたつもりだが、もしかすると言葉にならなかったかもしれない。

 医師は私の腰や臀部を調べて、打撲を負っていることに気づいただろう。しかし頭部も損傷を受けている点は見逃していた。重大な過失である。頭部をスキャンする設備がなかったのかもしれない。

 医師は当然私に何があったか知っているだろうと思っていたので、医師のほうから質問されたことに私はショックを受けた。いったい自分の身に何があったのか。そもそも今日は何月何日なのだ? 何日間私は意識を失っていたのだ? 私のなかの「記憶」はあの上空に浮かんでいる物体に連れ去られた「記憶」だけなのである。地上に返されたとき、少々手荒だったため、私は腰を打ってしまった……。

 私は大きな個室に移された。正確にいえば、ベッドが20以上もあるような大部屋だが、患者は私ひとりなので、個室状態だったのである。車で移送される時の激痛から解放されたので、私はあらためてUFO拉致事件のことを思い出していた。それは考えれば考えるほどまれな体験だと感じるようになっていた。

 うとうとしていると、病床にひとりの青年がやってきた。近くの中学校の英語教師だという。私が自分の身に何が起こったかを話せないのは言葉の問題だと病院側は考え、通訳がわりに英語の先生を呼んだのだろう。英語教師はニコニコしながら「何があったのですか」と英語でたずねた。

 いま考えると愚かなことなのだが、私はいくぶん興奮気味にこの地方に来たいきさつについて語り、言わなくてもいいUFO拉致のことを話してしまった。その瞬間の英語教師の顔の変化をいまも覚えている。

「ああそうですか」

 そう無愛想な言い方をしながら教師はしきりに何かを書き留めていたペンをとめ、そそくさと大学ノートを閉じ、「じゃあまたあとで来ます」と言って席を立った。このときの彼の目は、あきらかに「この日本人とは関わらないほうがいいな」と語っていた。私は必死に「いや、そうじゃないんだ。おれは頭がおかしいやつじゃないんだ」と言おうとしたが、教師の姿はもうなかった。私はUFO拉致のことは実際に起こったことだが、人には絶対にしゃべってはいけない、と肝に銘じた。


お尻全体にプチプチができる  

 このときの私の状態はといえば、両手を動かすことはできたが、それ以外は寝返りを打つぐらいだった。下半身不随になってもおかしくなかったが、そのときはそのようになるとは夢にも思わなかった。腕には点滴の針を刺していた。うとうとしているとき、寝返りを打つと、管がはずれ、逆流して血液がどくどくと流れ始めた。パニックに陥った私はあわててベルを鳴らした。緊急の際に医師か看護婦を呼ぶベルがあったのだ。

 すぐに医師が飛んできて、針を私の腕から抜いた。それだけのことだった。このまま体中の血液が出てしまうのではないかとあせったが、落ち着いて考えれば、針を抜けばいいだけの話だった。浸透圧の問題である。

 翌々日には、上半身を起こすことができるようになった。そして個室の大部屋(?)の隅には便所が併設されていて、そこまでほとんど這いつくばりながら、30分くらいかけてなんとかたどりついた。日々機能を取り戻しつつあった。そのときは意識していなかったが、下半身不随の心配がなくなった瞬間でもあった。

 ほとんど動けなかったせいもあるが、病院内でほかの患者と出会うことはなかった。頻繁に60歳くらいの看護婦が見回りに来るのと、たまに担当の医師が来るだけで、人口が多い中国にしては人口過疎の状態にあった。

 しかし午後、制服を着た中年の公安の男がやってきた。それにあわせて病院中の医師や看護婦らが集まってきた。私はたまたま中国で発売されたヤオ族の写真本を持っていたのだが、この病院に勤務している人の大半がヤオ族だったようで、みな各地のヤオ族の衣装や髪形を比べながら、楽しそうに論じ合っているようだった。その本のなかに「美国ヤオ」(米国のヤオ)という章があり、米国にヤオ族がたくさんいることを知らなかった彼らには不思議で驚きだったようだ。

 ベッドの上で動けない被疑者(?)の私は、公安の男のお説教をずっと我慢して聞いていなければならなかった。これは一種の通過儀礼のようなもので、公安としても見逃すわけにはいかなかったのだろう。もし広西チワン族自治区でなく、(のちに自分自身が拘束されることになる)チベット自治区や新疆ウイグル自治区なら、たいへんな事態になっていたに違いない。このあたりが未開放地区である理由は、外国人を受け入れるホテルが充実していないこと、貧しい面を外国人に見せたくないことであり、厳罰が課せられることはなさそうだった。

 なんとか立ち上がることができた私は、病院の中庭ですこしずつ歩く練習をはじめた。我流リハビリである。歩くといっても、1時間かけてやっと10メートル進むといったありさまで、日常生活が送れるようになるにはまだ相当の時間が必要だった。

 入院してから数日後、後頭部を触ると、ガムのようなものが付着していることがわかった。担当の医師を呼ぶと、軽く驚いたような表情を浮かべた。

「怪我をしているな」

 医師とは思えない呑気な反応である。ガムが付着しているような髪の間の箇所は、打撲のあとだった。医師は「失礼」と言って姿を消し、数分後に病室に戻ってきたときにはタイガーバームを持っていた。あたかも外国人用に秘蔵していたかのようである。たしかにタイガーバームは外用消炎鎮痛剤だが、外科医が特効薬とみなす類のものではない。香港のワトソンズのようなドラッグストアでは、欧米のしゃれたパッケージの薬に混じって置かれたタイガーバームがどこか怪しげな光を放っていたことを思い出した。

入院して10日くらいたった頃、なんとか100メートル歩けたところで、病院長にもう退院したいと申し出た。歩行は難しかったが、痛み自体はかなりなくなっていたので、長距離バスに乗れるのではないかと考えたのである。それに入院していてもやることがなく死ぬほど退屈だった。早く昆明に戻り、そこから雲南省騰沖県へ行って、旧暦2月8日のリス族の祭り(刀竿節)を見に行きたかった。

 現在の地図を見るとよくわからなくなるのだが、たしか入院していた町(田林県)でバスに乗り、隆林県に至り(隆林のバス乗り場で前年に知り合った漢族の青年とたまたま再会した。彼の案内でライ族の家を訪問したのである。こんな調子でまたいつでも会えると思ったが、このときを最後に会っていない)そこでバスを乗り換えて貴州省の興仁県に出た。ここで夜行バスに乗り、翌日昆明に到着した。

 一日半もの間、ずっとバスの座席に座るのは相当きつかった。臀部が燃えているかのように熱かった。じつは打撲を負ったわがお尻全体が水疱に覆われていたのである。包装に使うプチプチのエアクッション(空気緩衝材)を思い浮かべてほしい。お尻全体がプチプチのようになっていたのである。バスが揺れるたび、お尻のプチプチがつぶれて、痛みが走った。昆明に着いて、ホテルの部屋で、手鏡でそれを見たとき、あまりの気持ち悪さに卒倒しそうになった。

 

白馬族の村で男たちにリンチされる 

 ここまでが前半だとすると、後半がはじまる前に幕間(インターバル)があった。この時点では、一部の記憶がなくなるなど(あるいはUFO拉致の記憶が残るなど)謎が解明されないままだったものの、大きな怪我から回復しつつあり、物語は一応終息を見たものと思っていた。しかしわが頭部がいかに深刻なダメージを受けていたか、私は理解していなかった。医師が見逃していた後頭部の傷は、見かけほど浅くなかったのだ。

 当時は昆明を活動拠点としていた。バックパッカーに人気があった昆明の茶花賓館にはドミトリー(多人数部屋)があっただけでなく、自転車(マウンテンバイク)を長期間預けても文句を言わないストックルームがあった。

その2年前、香港から自転車を入れようとしたが、深センの税関で拒否され、仕方なく貴州省の貴陽で買い物自転車を買って、貴州省東部の凱里までサイクリングしようとしたことがあった。しかし途中、急勾配の下り坂でブレーキがきかなくなり、私は自転車ごと猛スピードで水田に突っ込んでしまった。当然自転車は大破し、放棄せざるをえなかった。その後香港から海南島行きの船に乗り、自転車を中国に入れることができた。海口の港で自転車にまたがったときの自由を得た囚人のような喜びは、いまでもありありとよみがえってくる。こうして苦労して入れた虎の子の自転車だけに、そう簡単には中国国外に出したくなかったのだ。

 頭は曇りつつあったが、私は自転車を持って(自転車は「托運」で運び、着いた先で乗る)列車とバスを乗り継いで、四川省と甘粛省境付近の白馬族の地域に行った。四川大地震のとき、大きな被害が出ることになる地域である。四川省平武県に着くと、私は自転車に乗って白馬族の村をめざした。われながら驚異的な回復力だと思う。当時は中国にマウンテンバイクなどなかったので(あったとしても見かけだけ)、よほど珍しかったのか、沿道の人々は私に向って声をかけたり、手を振ったり、家に招いたりした。

 白馬族は興味深い人々だ。正式には白馬チベット族であり、身分証上はチベット族である。チベット人のほうからは、白馬はペマであり、蓮華(ペマ、あるいはパドマ)という意味だから、チベット人で間違いない、と言う。しかし白馬族の一部は、チベット族どころかチベット族は敵であり、われらはテイ族(テイは低からニンベンを抜く)の後裔であると主張する。昔から「上からはチベットが、下からは中国が攻めてくる」と言ってきたのだ。

テイ族は、羌族と並び称される古代民族である。テイ族は五胡十六国時代の前秦など、いくつかの小国(前秦は中堅の国)を建てたが、劉備、諸葛孔明がやってくるまでの古蜀はテイ族の国だったかもしれない。ともかく、白馬族は古代のチベット・ビルマ語族やチベット人の古い習俗を残している可能性があり(古い型のボン教も残っている!)興味は尽きないのだ。

しかし私はここでも大変な目に遭う。その夜は祭りだった。人々がかがり火のまわりで輪になって踊り、私がその様子を撮影していると、興奮した子供たちがはしゃいで私の体を触ろうとした。悪意はないのだろうけど、怪我をしたお尻を触られるとさすがに痛かったので、手で払いのけると、男の子がワッと泣きだした。私があわてて男の子をあやそうとすると、いつのまにか私は若い男たちに取り囲まれていた。そして信じがたいことに、私はリンチを食らってしまうのである。捨てる神あれば拾う神ありで、何人かの男たちは私を救い出し、「こんなことしてすまない」とあやまった。もし彼らがいなければ、真冬の冷たい川に捨てられていたかもしれない。

このとき受けた傷(むしろ心の傷)はなかなか癒えなかったが、十数年後、正月の祭りの時期に、甘粛省側の白馬族の村を訪ね、数日滞在した。またそのあと四川省側に移動し、自転車で走った道路をタクシーで行って前回とは違う村に滞在した。前回の村のあたりは近くダムの底に沈むということだった。このあたりは「肉食の野生のパンダが発見された」と話題になった山深い地域である。

 今回はじめてポンポ(ボン教祭司)と会い、表紙に絵や文様が書かれた奇妙な経典を見せてもらった。この直後には四川の成都で白馬族研究者とも会っている。リンチ事件はひどい体験ではあったが、偶発的なものであり、やはり白馬族の起源や文化の根底に流れるものを調べるのは楽しいものである。

 

コーヒーカップに手を突っ込む 

 白馬族にボコボコにされたあと、私は昆明に戻り、それから一度香港に戻った。香港の長洲島に部屋を借りていたのである。このときにすでに異変は現れ始めていた。後頭部にうずくような痛みがあった。いまならネットで調べれば、「クモ膜下出血の恐れあり」という情報を得ることができるだろうが、当時は運動不足だと思い、ジョギングをはじめたのである。脳内に出血があったとすれば、大変危険な行為である。長洲は小さな島だったが、大漁旗を横目に見ながら港、そして海岸の岩場を走り、丘をのぼって道教の廟で一休みするのは気持ちよかった。汗をかけばビーチに出て、横になって冷えた缶ビールをぐいと飲んだ。偏頭痛もすこし遠のいた。

 夜、本を読みながら、クッキーを手に取り、口に入れ、つぎにおなじ手でコーヒーカップを取り、コーヒーを飲む、という作業を繰り返していた。一定のリズムがあった。しかしおなじようにやっているつもりなのに、手はクッキーをつかむかわりに、コーヒーの熱い液体のなかに突っ込んでいた。

「あちっ」

 私の目から涙があふれでた。やけどをしたからではない。頭が変調をきたしていることにはじめて気づいたからである。

 その頃、中二階(ベッドルームとして使っていた)で音楽を聴いていると、突然頭の上あたりから何かが落ちてきた。それは盆栽のミニチュアのように見えた。よく見ると、それは3センチ四方くらいの大きさで、血肉のかたまりが凝固し、乾燥したもののようだった。そこから十数本の毛髪が伸びていた。それは私の後頭部の頭皮の一部だったが、ごそっと抜け落ちたのである。広西チワン族自治区の病院で、医師が見つけた後頭部の外傷である。一瞬、頭皮に何かが埋め込まれたのではないかと思った。UFOでオペを受けたという「記憶」からそうした連想が生まれたのだろうか。

 

強盗に角材で殴られ、再度入院 

 本来なら、精密検査を受けるか、静養すべきだったのだが、私はすぐに雲南省昆明に戻った。リス族の祭りがまもなく始まろうとしていたからである。しかしこの頃から頭の中のゼンマイ仕掛けが本格的に狂い始めていた。

 自分の歴史のなかでは、暗黒の歴史に入るのであまりしゃべりたくないが、じつは若い頃、カルト宗教が発行する新聞の編集に1回だけ携わったことがある。そのイカサマ宗教の主なターゲットは末期がん患者と知的障害者だった。東京で開催されたセミナーに、全国から信者が集まってきたのだが、知的障害者の人々は、電車やバスのチケットをひとりで買えないことが多かった。買えずに、チケット売り場の前をいつまでもウロウロしているのである。(この宗教団体はのちに巨大化するが、設立者は詐欺容疑で逮捕され、実刑判決を受けた。彼は宗教者というより稀代の詐欺師である)

 このときの私はまさにその状態だった。昆明で、何とか保山(バオシャン)行きのバスに乗った。保山に着いたら、一泊して騰沖行きのバスに乗る。しかし保山のバスターミナルで入手したバスチケットの行く先は楚雄だった。なぜ楚雄行きのチケットを買ったのか、いまもわからないが、私の発音が悪く、売り場の人が聞き間違えたのかもしれない。問題は、私がそのまま楚雄行きのバスに乗ってしまったことだ。楚雄には91年に行ったことがあったが、今回はとくに行く理由がない。そして楚雄に着くと、おなじバスで保山に戻ってきたのである。片道10時間くらいは要しただろうから、無駄に時間ばかり消費していたことになる。このときの私はカルト宗教のセミナーに集まってきた知的障害者の信者とそっくりだったのではないかと思う。

 このときの脳内の変化は、『アルジャーノンに花束を』の後半のアルジャーノンのようだったといえるかもしれない。私はあきらかに正常ではなく、自分でもわかっていたのだが、どうすることもできなかった。

 こうして私は保山に戻ってきたものの、騰沖に行くことはできなかった。騰沖に行き、そこからミャンマーとの国境に近い村へ行って念願のリス族の祭りを見るのは、十数年後のことになる。

じつは騰沖から10キロほど郊外の和順という古い家並みがならぶ集落は、中国でももっとも美しい村だった。騰沖の北部にはカルデラ火山の火口があり、その近くで影絵作りの職人の家を訪ねた。火山があるので温泉が多く、熱海(ルーハイ)という名の温泉地もあった。ミャンマーとの国境に近いリス族の地域では、いたるところに温泉が湧き出ていて、ぬるま湯の泥沼(?)では、私は赤ミミズといっしょに泳いだ……。騰沖はこういう楽しい場所なのだが、ほとんど知的障害者となっていた私は騰沖に行くことなどどうでもよくなっていた。

頭が混戦していた私は、客待ちをしている人力車の男たちに「大理賓館に行ってくれ」と言ったことを覚えている。保山から大理まで、当時はバスで8時間近くかかっていたので、悪い冗談か、まさに知的障害者だと思ったことだろう。

 私はなぜか25キロのバックパックを背負って保山の町を歩き、郊外の丘の上の寺院にたどりついた。その頃には暗くなっていたので、ふたたび町に下り、今度は安いホテルにチェックインした。このとき何が私を突き動かしていたのかわからないが、体力は有り余っていた。

 夜になっても、荷物を部屋に置いた私は歩き回っていた。歩くと言うより、彷徨、いや徘徊といったほうがいいだろう。路地裏を歩いていると、空き地があり、そこに木材が積み上げられていた。そこに差しかかったとき、突然ふたりの若者が襲いかかってきた。置いてあった角材で殴りつけてきたのである。角材が頭に当ったのは間違いないが、それがどの程度の強さであったか、正直なところわからない。ともかく、騒ぎを聞きつけた近所の人が公安(警察)に通報し、駆けつけた公安によって私は病院に連れて行かれた。なんということか、私は二度目の病院生活を送ることになったのである。

 広西チワン族自治区の田舎町の病院と比べると、保山ははるかに大きくて発展した町だったので、病院も居心地は悪くなかった。毎日のように担当の40歳くらいの男性の公安と英語が得意な20代の髪が長い女性の公安がやってきた。襲いかかってきた二人組の顔はよく覚えていたが、私の供述から犯人が捕まるとは思えなかった。お金も盗られたのだが、高額ではなかった。

「夢遊病じゃないかしら」と気立ての優しい女性の公安はぽつりと言った。「医師もそう言っているわ」

 私は夢遊病であったことがないので、そう言われたことはショックだった。どうやら就寝したあと起き出して、歩き回っていたようだ。部屋の中を歩き回るのか、外に出てしまうのか、それすらわからなかった。眠っている間に何かをしているのに、それを思い出せないのは、妙な気分だった。しかし日中も歩き回っているのだから、夢遊病とはいえないのではないかと思った。

 半月もの間、私は保山の病院に入院した。あとで考えてみれば、私は機会があれば雲南の契丹人について調べたいと考えていたはずだ。雲南モンゴル族の村は何度か訪ねたことがあった。ナーダム祭のとき、ある写真家とともになぜかゲスト面して(日本人代表として)参加したことがあった。別の機会では、新婦が16歳の盛大な結婚式が行われていたことがある。雲南モンゴル族は比較的知られているが、雲南契丹人についてはほとんど知られていなかった。その手がかりが保山にあると聞いていたのだ。

 また、のちに神懸った夢を見るようになったとき、雲南イスラム国を建国しかけた杜文秀について書けという夢の命令を受ける。杜文秀はここ保山の出身なのである。この時点で杜文秀の名は知らなかっただろうが、病院でぼんやりし、あたりを徘徊する暇があったら、さまざまな興味深いものを調査することができたのに、と今は考える。

 担当した公安のふたりは、ずっと私の心配をしてくれ、気遣ってくれた。中国には反日の人が多く、社会に腐敗がはびこっているのはたしかだが、彼らのような正義感の強い人たちも多いのだ。

 91年の夏、雲南省弥勒県で高熱を発したときもそうだった。外国人が泊まれないホテルに宿泊していた私をチェックするためにその公安の男性はやってきたのだが、高熱を出しているとみるや、私を抱きかかえて病院まで運んでくれたのである。熱は40・3度もあった。いまから考えると、デング熱の可能性がある。

 このとき病院のベッドで寝ていると、枕元に女性があらわれ、日本語を話しはじめるのでひどく驚いた。熱にうなされていた私は、それが幻覚か亡霊だと思ったのだ。彼女は茨城県出身で、看護婦として満州に渡り、中国人と結婚して中国に残った残留婦人なのだった。その後ご主人の出身地である雲南の弥勒県に移り住み、日本人であることを隠しながらも5人の子を育てた。のちに彼女の生涯はドラマ化され、中国全土に名が知られる存在となる。さらにずっとあと、テレビ朝日のニュースステーションが彼女の特集を組み、日本でも多少は知られるようになった。入院した私を訪ねたのは、長い間日本人に会っていなかったので、なつかしくて駆けつけたのだという。ちなみに私が行こうとしていた裸体の奇妙なペインティングで有名な弥勒のイ族の火祭りは、十年あまり後に見ることができた。

さて、保山の病院に入院していた私はそろそろ去るときだと思い、「大理で友人が待っているから」と適当な理由を作って退院することにした。公安も私の存在を持て余していたかもしれない。公安のふたりはバスターミナルまで送りにきてくれた。ふと、ずっと入院していたかったと思った。

大理行きのバスに乗った私は、最近頭の調子がかんばしくないが、大理に行けばもとの状態に復帰できるのではないか、と漠然と期待していた。大理には知り合いが多いので、通常の社会的なつきあいをすれば、通常の社会的人間に戻れるだろう、と思ったのだ。まさか激しく悪化することになるとは夢にも思わずに。

 

短期記憶能力を失う 

 大理古城(オールドタウン)のホテルにチェックインするとき、チェックインするという作業すら困難になっていることがわかった。短期間の記憶能力を失っていたため、たとえばパスポートを出しても、つぎの瞬間にパスポートを出したかどうか忘れているのである。このときは、ほかの日本人旅行者の力を借りてなんとかチェックインできたが、記憶障害はあらたな深刻な問題だった。

 彷徨(徘徊)に記憶障害が加わったことで、最強の知的障害者になった、といってもいいだろう。大理古城(観光地としての大理は、普通こちらを指す)に着いた私は、社会的生活を取り戻すどころか、症状を悪化させてしまったのである。私はまた歩き始めた。冒頭でも述べたように、東京でもぶつぶつつぶやきながら歩く人をしょっちゅう見かける。あんなふうに、おそらくつぶやきながら歩いていたのだ。なぜかはわからないが、私は大理の新市街に向っていた。古城から新市街まで、たしか9キロ離れていたように思うが、ゆっくり歩いたので、丸一日かかっただろう。

 途中で何かの店に立ち寄ると、主人に追い出された。すでに相当やばい雰囲気を持っていたということだろう。私はまた、無銭飲食をしてしまった。食堂で何かを食べて、お金を払おうとしたが、主人は受け取りを拒んだ。あとで考えれば、主人と思った人は客にすぎなかったのだ。記憶保持力を失っていた私はそのまま代金を払わないで食堂を出た。しばらくすると初老の男が走ってやってきて、何かを叫んでいた。その男は当然食堂の主人に違いなかったが、そのときの私はそれがわからず、日本語、英語、中国語を交えたわけのわからない言葉で言い返していたように思う。私が普通の人間でないことに気づいたのか、男はあきらめた表情を見せて去っていった。

 不思議なことだが、記憶障害を負っていながら、こうしたできごとは細かく覚えていた。食堂の主人の表情もよく覚えていた。しかしこの時点では、自分の過去の大半を忘却していたように思う。「ように思う」のは、このとき、私は過去を思い出そうとしていなかったのだ。思い出そうとすれば、思い出せたのか、それすらわからない。思い出そうとしなければ、記憶喪失と呼べないのだ。

 大理の新市街に入る頃には、日もとっぷりと暮れていた。新市街の入り口に橋がかかっているが、その橋が昼間とは一変していた。欄干の上に等間隔に(数メートルごとに)トーチが置かれ、それぞれがオレンジ色の炎を噴出していたのだ。真っ暗な夜空に浮かび上がる炎の橋はまぶしく、美しかった。

 もちろんこれは幻覚だろう。しかしこのときの私はそれが幻覚とは思わず、その美しさに見とれ、感動していた。この炎の橋のことを人に伝えることができないのは残念だと思った。しかし実際は、私の頭の状態が危機的な段階にさしかかっていることを物語っていたのだ。

 

大理をひたすら歩き回り、不思議な体験をする 

 思い出すのも恐ろしいことだが、私は数日間、一睡もしないで大理の市街地および周辺を歩き回ることになる。夜、記念公園のようなところを歩いているとき私は意識を失い(あるいは歩きながら眠ってしまい)立てた将棋の駒が倒れるように、パタンと私は垂直に倒れた。私は額をコンクリートの地面に激しくぶつけた。一瞬意識が遠のいたが、そのまま何事もなかったかのように歩き続けた。

 昼間、路地を歩き回った。その頃の大理は路地が発達していたのである。路地を歩き、角を曲がり、合流地点からまた枝道を進む。行き交う人の会話が飛び込んでくる。だれかのあとをつけるかのようにしばらく歩く。美しい少女の横顔。昼寝をする犬。社会主義的スローガンが書かれた壁。駆けて行く小学生たち。物売りのおばさん。こうして私は永遠に迷路のなかを歩いているかのようだ。

 このあと十年ほどは、日本やどこかにいても、突然頭がぼんやりして、このときにタイムスリップし、路地を歩き回ることがあった。あの永遠に歩き回っているという感覚。私は胸が苦しくなり、喉の下あたりをかきむしる。もしあのとき死んでいたら、魂は永遠に路地裏を歩き続けたかもしれないと思った。いや、あの時点で本当は、私は死んでいて、いま生きていると信じている状態が幻影なのだ。

 歩くとかならず私は墓場に到達した。そう信じてきた。しかしいま考えると、記念公園のなかの石碑のようなものを除くと、墓場になど到達していない。たとえば坂道を上っていくと、行き止まりになっていて、そこに簡素なテントがあった。なかに暗い裸電球がともっていて、人はだれもいない。私はなぜかこのあたりに墓場があると感じた。実際に墓があったかどうかわからないが、おそらく死体が埋まっているという感覚にとらわれたのである。

 真夜中、郊外の草地を歩いていると、はるか遠くにいくつものビニールハウスのようなテントが見えた。それらは緑、黄色、ピンクなどの鮮やかな光を放っていた。私はテントのひとつひとつに遺体が横たわっていることを知っていた。それらのひとつは美しい王妃の遺体だった。これらは殯(もがり)のテントに違いなかった。とはいえ、本当に遺体があるかどうかとなると、いまひとつ自信がなかった。私は迷った挙句、実際にそこに行ってなかを覗こうと決めた。そしてその方角に向って歩き始めた途端、何かに足がひっかかって転びそうになった。

 足元を見ると、かわいらしい小さな黒い子犬が寝そべっていた。私はひとりでなかったと思い、うれしくなった。まわりを見ると、子犬がもう数匹寝そべっていた。私は子犬を抱きかかえようと思ったが、よく見るとそれらはピクリとも動かない。足で一匹の子犬をつついてみる。子犬はどれもみな息をしていなかった。

 私はこれを何かのしるし、あるいは一種の警告と受け取り、殯(もがり)のテントのほうへ行くのを断念し、違う方向へと進んでいった。工場のような建物があり、そのわきの道を歩くと、小さな川が流れ、草がぼうぼうと生えた石の橋がかかっていた。橋を渡り、岩の上に腰掛けると、遠くからがやがやという人の声と数人の若者の影がやってくるのが見えた。みな大学生ぐらいの年頃の若者である。彼らは私の存在など気にならないようで、私の目の前までやってくると、3人ほどは水の中に入って横たわろうとした。雪が降ることもある寒い冬の川に入るとは、どういう料簡だろうか。とくに白いワンピースを着た少女が水の中に横たわり、石を枕とするのは痛々しかった。ほかの大柄の青年は巨大な岩の上に坐り、そのままそこで寝ようとしていた。やせた神経質そうなメガネの青年は、土手に体をあずけて寝ようとしていた。

 白々と夜が明けると、若者たちの姿は消えていた。夢か幻だったのかと思い、痕跡はないだろうかと私は川を覗きこんだ。すると水中にいくつかの鬼のような顔が描かれた小石が落ちていた。これはいったい何だろうか。私が見た若者たちは、この小石に宿る霊だったのだろうか。

 真夜中、私は町のはずれを歩いていた。ふと隣をだれかが歩いていることに気がついた。その横顔からすぐに昔の友だちだとわかった。

「久しぶりだね、元気?」と私は声をかけた。

「見てのとおり元気にきまっているさ」と彼は特徴的なシニカルな笑みを浮かべた。

 前方に乳母車があった。こんな夜中になぜ乳母車が置いてあるのだろうか。近づいてなかを覗きこむと、赤ん坊がすやすやと寝ていた。

「なんてかわいらしいのだろう」

 同意を求めて友人の顔を見ると、彼の姿はなかった。あたりを見回す。だれもいない。ここは民家の裏の未舗装の道で、街灯、といっても裸電球がうらさびしく照らしているだけだ。私はもう一度赤ん坊を見た。しかしそれは赤ん坊ではなく、石だった。乳母車もよく見れば砂利を運ぶ手押し車だった。その瞬間、友人がとっくの昔に死んでいたことを私は思い出した。

 

突然彷徨が終了する 

 彷徨は思わぬかたちで終わった。ふらふらと歩いていると、公安に呼び止められたのである。その公安に私の姿がどういうふうに映ったかはわからない。じつはこの大理には、ドラッグのジャンキーが多かった。大理周辺は大麻が自生していて、勝手を知った西洋人たちは大麻を摘んで、乾燥させ、それを吸っていたのである。冗談半分に(大理古城の)警察署(公安局)の中庭の大麻が一番上質だと言われていた。大麻(マリファナ)だけでなく、さまざまな幻覚作用を持つドラッグが出回っていた。ある日本人はチョウセンアサガオ(ダチュラ)に手を出し、譫妄状態に陥った。現在の脱法ハーブ(危険ドラッグ)の先駆となるような話である。当時、西洋人向けにひそかにドラッグを売る外国人向けカフェがあり、カフェの主人が捕まって禁固刑を受けた例もあった。そんな土地柄(?)では、ふらふら歩く私は麻薬中毒患者に見えたかもしれない。

 公安は私をホテルにチェックインさせ、なかば強制的に日本人の青年と同部屋にさせた。しかしこれは劇的な効果を生み出した。この数日、ほとんど狂人と化していた私は、突如我に返ったのである。この青年が非常におおらかな性格の持ち主で、冗談を言って場を盛り上げるのを得意とするタイプだったのが幸いしたようである。

 とはいえ、一朝一夕によくなるというものでもなかった。この手の障害者(私自身のことではあるが)は、下(ウンコ)の処理が苦手なのである。ホテルのトイレ(共同便所)で失敗した私はサンダルを汚してしまった。しかしなぜかそれを洗わないで部屋で干していたため、ホテルの服務員(従業員)にとがめられてしまったのである。服務員でなくともとがめずにはいられないだろうが、このときの私はまったく気にしていなかった。

 こうした状態からいつ脱したかは、私自身、よくわからない。記憶にないが、何かが起こり、大きな怪我をしたのが1993年の1月末。二度の入院生活を経て、大理でさまよっていたのは3月。はじめて青海省に行き、チベット自治区のラサに入ったのは5月のことである。5月には、通常の生活を送れるようになっていたのだ。

 

ラサのデモと国外退去 

 ラサでは現実的なトラブルに巻き込まれた。どういうきっかけがあったか覚えていないが、いつのまにかノルブという名のふだんはスイス在住の難民チベット人と親しくなっていた。彼は寺院の屋上や食堂の奥の厨房のようなところに連れて行っては、秘密の話をしようとした。しかしそのように用心深く話しをしてくるのに、一度は彼の親戚の家に招待してくれたことがあった。彼によれば、5月23日にラサ市内でデモが起こるという。そのデモは当たり障りのない要求を掲げるが、そのうち独立を要求するデモに変わっていくだろうという。

 私にはどうして5月23日にデモが起こるのか理解できなかった。ノルブによれば1951年のこの日、チベットと共産中国との間で17条の合意がなされたという。これはいわばだまし討ちのようなもので、ダライラマと政府のメンバーがラサを留守にしているときに結ばれたものだ。このときチベット側で主導したのは映画「セブン・イヤーズ・イン・チベット」に裏切り者として描かれたガワン・ジグメだった。この17条の合意は、辛亥革命のあと実質的に独立を取り戻していたチベットが、ふたたび中国の占領下に置かれるきっかけとなったのだ。

 当日、デモの最後尾について歩いたが、私服警官がたくさんいるという情報を得て、デモ隊から離れ、バルコル(八角街)に逃げ込んだ。しかし執拗に追いかけた公安によって私は拘束されてしまう。このときの取り調べはきつかったが、まあどうにかなるさ、という楽観が私のなかにはあった。それから15年後、私は新疆ウイグル自治区でシャーマン儀礼をセットアップし、それを見たあと、公安に拘束されるが、このときの取り調べのほうがはるかに厳しいものだった。しかも私を手伝ってくれた現地のウイグル人全員が罰を食らうのである。最近の中国政府のチベット人にたいする弾圧を見れば、公安のやりかたがいかに理不尽であるか想像できるだろう。

 国外退去を命じられた私は、ふたたび中国に入国できるかどうか不安だったが、翌年には入国どころか、チベット自治区に入域できたのである。(いわゆる闇バスに乗って入ったのだが)ラサに到着し、外国人が泊まるホテルを見て回ると、正門近くのボード(掲示板)にWANTEDと朱書きされたポスターが貼ってあった。WANTEDの下には見慣れた顔の写真が印刷されていた。ノルブである。ただしノルブではなく、知らない名が記されていたが。彼が地下組織のメンバーであることに疑いの余地はなかった。私はノルブに会いたくて、招待してもらった彼の親戚の家を訪ねた。しかし家の人は私と目を合わそうともせず、私が来たことさえ「知らない」と言うのだった。

 

シャーマン的体験 

 この時期には、私はもはや知的障害者(あるいは統合失調症患者)ではなく、ごく健全な人間に戻っていたが、多少は障害の痕跡が残っていた。たとえば夢がリアルすぎて、ときには夢と現実の区別が難しかった。その状態は何年もつづいたが、しだいに夢は普通の人が見る夢と同様おぼろげなものとなっていった。また、先に述べたように夢が「杜文秀について書け」とか「アルタイへ行け」と私に命じることもあった。

 アルタイ行きを命じられたのは夢の中だった。私は鍋のなかで体がバラバラになり、ぐつぐつと煮られていた。そのときに父なる神のような威厳のある声が私に命じたのである。命令に従わなければ、バラバラになった体は元にもどらないだろう。私はシベリアのアルタイへ行くのは簡単ではないと考え、中国側のアルタイへ行った。中国アルタイのハナス湖はロシア(シベリア)、カザフスタン、モンゴルと国境を接していた。そこではモンゴル人シャーマンと会っただけだったが、私にとってアルタイはいつまでも聖地でありつづけることだろう。しかし残念ながら体が元にもどった夢は見ていない。

 おそらく夢なのだろうけど、夢だとすれば鮮烈な夢を見たことがある。たしか1994年の冬だったと思うが、ダライラマ法王の住まいおよびチベット亡命政府が所在するインド・ダラムサラの郊外の森のリトリート・センター「ツシタ」で瞑想を学んでいたときのこと、部屋(三人部屋)で就寝中、突然気配を感じ取った私は、上半身を起こした。

 漆黒の闇のなかにかすかな光点があらわれた。それは次第に大きくなり、小さな部屋全体に及ぶような、輝く大きな光となった。その中心に小さな青緑色の菩薩像の姿が見えた。それははじめ像かと思われたが、よく見ると生きているのだった。その笑顔はたいへん尊く、いつまでも拝んでいたいと思った。部屋で寝ているふたりを起こそうかどうか迷った。なぜ迷ったかといえば、起こした瞬間、菩薩が消えてしまうのではないかと恐れたからだ。私の感覚では半時間、そうやって輝きを放っていたが、ついに菩薩は小さくなり、消えてしまった。その直後に光も小さくなり、消えると、あたりはもとの漆黒の闇に戻った。

 翌朝、ふたりにその話をすると、まったく信じてもらえなかったが、私は魂が洗われたような敬虔な気持ちになっていたのである。ちなみに指導係のアメリカ人の尼さんにその話をすると、「それはグリーン・ターラよ!」と確信たっぷりに言った。「でもあと2、3回は姿を見なければ、本物とは言えないわね」

 シャーマニズムに興味を持つようになったのも、魂の存在を強く感じるようになったからである。たとえばネパール・ヒマラヤでは、西のフムラ(カイラース・トレッキングの出発点)から東のカンチェンジュンガ山麓まで、歩いてはシャーマンを探し出し、話を聞いた。これらのシャーマンはかならずシャーマンになる前に、いわゆるシャーマン病(巫病)と呼ばれる病気になった。このプロセスをうまく乗り越えないと、その人はたんなる狂人になってしまうだろう。うまく乗り越え、内なる「狂気」をコントロールするようになったとき、人は部族全体から尊敬されるシャーマンとなるのだ。私の場合、外傷によってたまたまシャーマン病にかかったかのようになったが、シャーマンになるプロセスときわめて近い経験をしたのではないかと思うようになった。

 チベットのケサル王物語の語り部であるツェラン・ワンドゥと会ったのは、1997年のことである。私がこの語り部に惹かれたのは、彼が子供の頃、シャーマン病のような状態に陥ったが、活仏の手ほどきによって正気を取り戻し、専門の語り部になったという彼の半生について聞いたからである。彼の生涯については別のところで詳しく述べているのでここでは繰り返さないが、彼の生い立ちがシャーマンのそれとそっくりであること、また厖大な物語を夢の中で神から授かっていることはたいへん興味深い。

 私が一時的に知的障害者のようになったことは、シャーマンになるプロセスと似ていることは似ているが、もちろんこれによってシャーマンになるわけではない。ツェラン・ワンドゥの活仏に当るような人、ネパールのタマン族のボンボ(シャーマン)になろうとする少年のグル・ボンボに当るような手ほどきをする人がいなければ、シャーマンになることはないのだ。ただ、そうした狂気体験ができたことは、私の財産だと思っている。