37のナッ神 ビルマの精霊崇拝  

リチャード・カーナック・テンプル 訳:宮本神酒男 

 

第9章 歴史上のナッ神伝説 

 さて我々は、37のナッ神がビルマの王族かその関係者の死者であることを確認できるに到った。それゆえ話を進める前に、関連する37のナッ神の物語を挿入しながら、ビルマの複雑な歴史を簡潔にまとめていきたい。しかしながら読者にはまず、ビルマ帝国という大きな版図にはシャン州、テナセリム、アラカン、マニプールなども含まれるが、これらの地域ではこのナッ神の物語が関心を持たれることはないことを知らせたい。*それらの地域にはまた別のナッ神の物語が存在する。

 歴史について語るに際し、ほとんどのヨーロッパ人の耳になじみがなく、心地のよくない人名や地名を言わねばならないのは遺憾である。しかし準備した地図を示し、それによって物語が明快になり、興味が持たれることを私は願う。

 王朝を形成するのは3つの民族、すなわちビルマ人、シャン人、タライン人である。それぞれの民族が支配する地域はつぎのようになっている。

ビルマ人の地域は、イラワディ川渓谷とプロムから上のシッタン、トングー。タライン人の地域は2つの大河のデルタ地帯とサルウィン川流域。シャン人が支配するのはビルマ東方の丘陵地帯。

 タライン人はアンナム(安南)に分布する諸民族と関連した極東の人々である。これらの3大民族はいくつもの王朝を通して混交し、ビルマ全体、あるいは部分を一時的に支配してきた。その時々において優勢になった民族が多民族を圧迫するという状態がつづいてきたのである。また、大君主がときたま現れると、従属する諸王も生まれ、大なり小なり独立勢力が同時に成り立つことになる。さまざまな主な町や都でこれらの王たちが、人々の記憶に残ることになるのだ。しかしこうしたことはビルマの政治的な歴史を理解しようとするとき、つねに混乱させられることになる。

 すべての東洋の歴史がそうであるように、ビルマの王朝はタガウンの二つの長い伝説的な王たちの王統にはじまる。タガウンは最初の一般に認められた都であり、それに長いプロム朝がつづき、そのあとバガン朝につながる。バガン朝は早期の伝説的な王朝でもあり、それは直接的にタガウンの最後の王朝ともつながっている。

 ビルマ人の王朝は仏教の時代、すなわち紀元前483年頃に始まるとされ、ピンヤとミンザインを都とするシャン王朝に権力を譲った紀元1298年までつづいた。しかしながらビルマのシャン王たちは、彼らが駆逐したバガンの王統の子孫で近親関係にあると主張していた。

 その少し前、バガン朝の偉大なる征服者アノーヤターゾー王は1050年頃、タラインの支配者からペグーとタトンをもぎとり、ビルマ全土がその滅亡まで、バガン朝の支配下に収められたのである。

 ピンヤのシャン王朝は、バガン王朝のペグアン地区を支配したことはなかった。そして彼らがサガインのシャン王朝と仲違いしたこともなかった。ふたつのシャン王朝は1352年と1364年の間にアヴァのビルマ人王朝に国王の座を譲った。この王朝の人々は前任者たち、すなわちタガウンやバガンのビルマ人、ピンヤやサガインのシャン人の子孫であると称していた。

 彼らもまた1551年、ペグーのビルマ人王バイン・ナウンに王座を譲った。彼らはペグーとアヴァの両方を治め、ビルマ全体の君主となった。この王朝は1751年までつづき、短い期間、シャン出身のタライン王朝に取って代わられた。彼らは1740年にペグーからビルマ人を追い出していた。

 その彼らもまた、タガウンの王統の子孫である終末論的な王族であると主張するアロンムプラ朝(アラウンパヤー朝)として知られる人々に、1757年、全ビルマから駆逐された。アロムプラ朝の最後の王はティボー王である。この王は1885年、英国によって廃位された。この王朝は、シュエボー、サガイン、アヴァ、アマラプラ、マンダレーをよく治めた。

 ビルマ人征服者ペグーのバイン・ナウンはこのように王族の末裔であると主張した。1298年にバガンのビルマ人王朝が崩壊したとき、不満を持ったビルマ人の王族がタウングーに勢力を結集して拠点とし、プロムにも小さな基点が作られた。これがトングー(タウングー)のビルマ人王朝の基礎となる。この勃興は1313年頃にはじまり、1540年にタビン・シュエディがシャン王朝からペグーを奪い、1599年までつづくビルマ人のペグー王朝を建てた頃に最盛期を迎える。このなかで偉大な君主といえるのは、征服者バイン・ナウンである。タビン・シュエディとバイン・ナウンは親類関係にあり、両者ともバガンのビルマ人王朝の末裔と称している。

 デルタ地帯のタトンとペグーのタライン人王朝の伝説は曖昧な靄に包まれているが、彼らの王朝は573年から1050年までつづき、バガンのアノーヤターゾー王に征服されたといわれている。バガン王朝が倒れた1287年、マルタバンとペグーにシャン王朝が建てられた。そしてその王朝は1526年、ビルマ人のタビン・シュエディによって滅ぼされた。

興味深く、特筆すべきは、ビルマの初期のヨーロッパ人旅行者や居住者によく知られていたのがこのペグーのタビン・シュエディの王朝であったこと、また彼らにブラフマーあるいはビルマの王として知られていたのがトングー(タウングー)の民族であったことである。

 さてアヴァやペグーの大君主は、諸王に貢納させて隷属させるというシステムを確立した。こうしてタビン・シュエディはアヴァ、プロム、トングー(タウングー)、マルタバンに属王を擁立したのである。ペグーを拠点としたバイン・ナウンはおなじことをおこない、アヴァを都としたビルマ人王朝の諸王もそれにならった。それゆえプロムやトングー(タウングー)の王の伝説や物語を聞いたとき、人はそれが国王のことを言っているのか、属王のひとりにすぎないのか、判別しかねるのである。

 ナッ神の物語を正しく理解するためには、おおまかにいってこういったことを頭に入れておく必要がある。タガウンには伝説的なビルマ人王朝があり、プロムにその王朝の流れを汲むビルマ人王朝がひきつぎ、バガンにはその間、前483年から1298年まで王朝があり、ピンヤとサガインのシャン人王朝は1364年までつづいた。

 この2つのシャン人王朝と並行してトングー(タウングー)には1313年から1540年までビルマ人王朝があった。それはペグーのビルマ人王朝に吸収されることになる。ピンヤとサガインのシャン人王朝はアヴァのビルマ人王朝を併合するが、1551年にペグーのビルマ人王朝に倒されてしまう。

 これは1581年から1751年までつづいたペグーとアヴァの王朝となり、そのあとペグーのシャン人王朝をはさんで、アロムプラ(アラウンパヤー)の最後のビルマ人王朝へとつづく。この王朝は1757年から1885年まで存続した。

 573年から1050年まで、タトンとペグーにはタライン人王朝があった。ずっとバガンのビルマ人王朝に属王として貢納していたが、1287年、シャン人王朝がペグーに建てられたときその関係は終わった。そして1540年、トングー(タウングー)のビルマ人の勢力に滅ぼされた。ペグーはそのときアヴァのビルマ人王朝に吸収され、その状態は1740年までつづいた。第二のシャン人王朝が確立されたが、1757年、最終的にアロムプラ(アラウンパヤー)の王朝に屈した。

 こういった歴史に出てくるビルマは、じつはそれほど大きな地域ではない。諸王が支配する都も互いにそれほど離れているわけではない。タガウンとシュエボーは北方にあり、そのあとアヴァ、サガイン、ミンザイン、ピンヤ、アマラプラ、マンダレーが現れるが、これらは互いに至近距離にあるのである。南のバガン、トングー(タウングー)、プロムもそれほど遠くない。残りのマルタバン、タトン、ペグー、そしてラングーン(長い間仏教徒にとってのメッカのような存在だが、もともとの都というわけではない)もずっと南だが、はなはだしく離れているわけではない。

 これらの間を行き来した王朝によって刻まれた何百もの碑銘を含む無数の痕跡や建造物が、これらの場所に少なからず役に立つ状態で保存されている。廃墟も遺跡もいつか探検家によって発見されるのを待っている。それには厖大なタマイン、すなわち寺院の年代記が役に立つことだろう。それは意外なほど正確で、侮ることはできないのだ。

 私はこのようにビルマの歴史をかいつまんで述べてきたが、それは多大な知識なしに37のナッ神の物語と無数の関連した話を理解することは不可能だからである。それらに含まれる地域の歴史は正確なこともあれば、不正確なこともあるのだ。

物語を理解するために、私はそれらを5つのグループに分けようと思う。それらは多かれ少なかれ、互いに関係している。2つのナッ神だけがそれらのグループからは離れ、直接的にせよ、間接的にせよ、歴史上の王族の人物と関連している。

 このふたりの例外とは、すでに説明したように、純粋に神話的な存在であるタジャ・ナッ(1番)とピンヤの近くで虎に殺された商人マウン・ポ・トゥ・ナッ(21番)である。マウン・ポ・トゥ・ナッが殺されたのは、ピンヤに都が置かれていた1298年と1364年の間ではないかと推測される。

 私はつづいて話を聞いたままに、グループごとにナッ神の物語を述べ、歴史的な意味合いについて説明を加えていきたい。そのあとナッ神の図説についても解説を加えていくつもりである。

 私がドゥッタバウン系列と呼ぶナッ神のグループ1は、タガウンとプロムの古代の伝説的な王朝と関係がある。そして物語の中心をなすのはビルマの旧世界の英雄であるプロムのドゥッタバウン王である。それは表向き、仏教の基礎が築かれた紀元前6世紀にまで我々をいざなうものである。

 アノーヤターゾー系列ことグループ2は、11世紀の征服者バガンのアノーヤターゾー王と直接関係を持っている。しかし実際は、その前任者や後継者の話と混同されていることが多いのだ。

 アヴァ・ミンガウンとバガン・アラウンシトゥ混合系列ことグループ3は、基本的に15世紀のアヴァのビルマ人王朝(13641551)と関係が深い。しかし混同されてビルマ史における偉大な存在であるバガンのアラウンシトゥおよび12、13世紀の彼の後継者と関連づけて述べられることも多い。ときにはもっとはるかに古い8世紀のバガンの王たちや15世紀のピンヤのシャン人とも混同されることがあった。

 タビン・シュエディ系列ことグループ4は、トングー(タウングー)とペグーの偉大なるタビン・シュエディ王と16世紀の同時代の従属的な王朝に関係している。

 バイン・ナウン系列ことグループ5は、ペグーやアヴァのバイン・ナウン王と16世紀から17世紀にかけてのアヴァ・ペグー朝(15811751)の後継者たちと関係している。

 私はこれらのナッ神の物語の現代的な性質について注意を喚起したい。前8世紀であろうと、11世紀でも、精霊の伝説という意味では理にかなっている。しかし膨張するこれらの物語の多くは12世紀と17世紀の間に生まれたものである。遅い場合には1558年に成立した例があり、1620年に作られたと確認されることもある。1530年から1550年にかけて統治者であった征服者タビン・シュエディ自身も、実際に敵と戦った輝かしいナッ神だった。この時代はわが国(英国)においては、ヘンリー8世の時代であり、タビン・シュエディはペグーのヨーロッパ人居留者にもよく知られていたのだ。