(2)激動のチベット、半ばモンゴルの支配下に 

 チベット史上もっともよく知られた詩人といえば、チベット仏教カギュ派宗祖である詩聖ミラレパ(1052―1135)だろう。洞窟で瞑想修業しながら生み出された詩は、天才肌の伝記作家ツァンニョン・へールカの筆になるさまざまなエピソードに彩られた伝記とともに、チベットの人々に語り継がれてきた。

 しかし民衆にもっとも愛された詩人といえば、ダライラマ六世ツァンヤン・ギャツォをおいてほかにいない。有徳の僧侶であるミラレパに対し、ツァンヤン・ギャツォはあまりにも人間的な存在であり、同時に悲劇の主人公でもあった。

彼はチベット仏教の最高位にいながら、夜な夜な「下界」に降りて、愛人と逢瀬(おうせ)を楽しみ、数々の愛の詩(うた)を編み出した。しかし結局、政治的思惑によって捕らわれの身となり、北京へ護送される途中、現在の青海省の青海湖(ココノール)近くのクンガ湖(ノール)で病に倒れて命を落としてしまう。

 ツァンヤン・ギャツォが他のダライラマと異なり、自由人としてふるまったのには理由があった。「偉大なるダライラマ」として知られるダライラマ五世ンガワン・ロサン・ギャツォ(1617―1682)は、吐蕃以来のチベット国の大版図を得た、いわば中興のチベット王という側面を持っていた。しかし実際のところは、モンゴルのホシュート部の部族長グシ・ハーン(1582―1655)の軍隊が勢いに乗って、支配地域を拡大していったのであり、このモンゴル・チベット帝国は元の再来といえるほど、巨大化しつつあった。

ダライラマ五世は1682年に崩御するが、宰相(デシ)サンギェ・ギャツォは、当初は12年のはずだったが、15年にわたって偉大なる法王の死を隠匿した。通常だと、ダライラマの死後、すぐに転生の子供探しは始まる。そして探し出された子供は、ポタラ宮で、ヨンズィンと呼ばれる教育担当ラマのもと、ダライラマになるための特殊教育を受けることになる。

 しかしツァンヤン・ギャツォの場合、五世の死を隠匿したため、ポタラ宮に迎え入れられることはなく、ダライラマよりはるかに位の低いラマの転生の子供として、地元モンユルで成長することになったのである。そのためいわば平民として育ち、市井で多感な時期を過ごすことになった。グレン・H・ムリンに言わせれば、彼はチベット版「ロミオかカサノヴァか」といった恋多き放蕩息子になってしまったのである。

 最高位の人物の死を十五年も隠すのは、尋常ではなかった。とりわけモンゴル人には、五世が死んだことを知られてはならなかった。影武者が修業に励むふりをし、病気を理由に知人の高僧にも会わなかった。当時、チベットとモンゴルの関係は微妙な均衡の上に成り立っていた。モンゴルは、元朝の時代のように、モンゴル皇帝とそのチベット人高僧の国師の関係、いわゆるチョヨン関係を築きたかった。こうしてチベットの領域と現在の青海省、甘粛省、内モンゴル、モンゴルを併せた強大な帝国を作ろうとしていた。

チベットからすれば、モンゴルの軍事力は大いに役に立ったが、そのまま放置すれば、モンゴルの支配下になってしまうだけだった。それでは吐蕃以来のチベット国再興とはならない。モンゴルに隙を見せないためにも、ダライラマ五世の死を隠し、権力の空白ができていることを気づかせてはならなかった。

しかしモンゴルの動向云々以前に、宰相はツァンヤン・ギャツォを抑えることができなくなっていた。放蕩生活を送るだけでなく、具足戒を受けようとせず、沙弥戒をもパンチェンラマに返上してしまったのである。ゲルク派のトップの僧侶であるはずのダライラマが、僧侶ですらない、一般民となってしまったのである。

サンギェ・ギャツォ自身が実は名うてのプレイボーイだった。五世の隠し子ではないかと噂された彼は大学者であり、権力を持つ政治家であり、アーチェリー、チェス、音楽を愛する文化人でもあった。五世の死後、彼はチベット最大の権力者だったが、それはつまりモンゴルにとって排除すべき最大のターゲットだったということである。

 1703年頃から、グシ汗(ハーン)の孫であるモンゴル・ホシュート部(青海省)のラザン汗(ハーン)は、チベットの護法王(チューギェルあるいはダルマラジャ)として、チベット支配に乗り出した。そして1705年、ラサから撤退すると見せかけて、増強した軍隊とともにナチュからラサに戻り、サンギェ・ギャツォを捕え、殺害した。

つぎは、宰相という後ろ盾がなくなった六世の番だった。ラザン汗が清朝に協力を求めると、清朝政府はそれに応じ、六世の北京召還を命じた。捕らえられた六世を護送するチャナ・ドルジェ率いる一団は、ラサから北京へと向かって出発したとき、デプン僧院の近くで、何万人もの民衆に取り囲まれ、六世を奪還されてしまう。しかし、民衆を巻き込むことをこころよく思わない六世自身が投降し、民衆弾圧の事態には至らなかった。

 なおラザン汗は、ツァンヤン・ギャツォはダライラマ六世ではなかったとして、「本物」のダライラマ六世イェシェ・ギャツォ(1686―1725)なる若者を探し出した。しかし自身の出身のホシュート部からの賛同すら得られず、そのうちダライラマ七世ケルサン・ギャツォ(1708―1757)が探し出されてしまったため、この六世の存在意義はなくなってしまった。


⇒ つぎ