カムで頭のない男と会う

 峨眉山をあとにし、私はひとりでチベットへ向かった。ゆっくりと歩いて、リタン(Li thang理塘)寺に着いた。ここに長期間滞在したかったが、デプン僧院のゴマン学堂にいたトルコハル・ゴマン・ラスル(Thor kohar sgo mang bla zur)が寺主を務めていたため(正体がばれるので)、わずか三日の逗留で去った。

 さらに旅をつづけ、一軒の家に立ち寄った。この家には頭のない男がいた。彼の妻に事の顛末を聞くと、こう答えた。

「首にリンパ腺の病気ができ、ひどくなったので、頭を切り落としたのです。でもそれから三年もたつというのに、こうして生きています」。

 憐憫の情を抱き、男の様子を見に行った。彼は手で胸を、ばしばしと叩き始めた。

「いったいどうしたんですか」。
「おなかがへったということです」。

 彼の喉には穴がふたつ、ぽっかりとあいていて、そこに瓶を傾け、ツァンパ(麦焦がし)をこねたどろどろしたものを注ぎこんだ。すると管が閉じたり開いたりして、泡が出てきた。しばらくすると、ツァンパは胃袋に落ちたようだった。

 「有情なる者のカルマはなんと不可思議であろうか」と嘆息せずにはいられなかった。業の真理を私は悟った。経典にもあるように、捨身をして彼岸に達した者は、諸仏のごとく、涅槃の境地を得て、千回も自己の頭部を捧げるであろう。
 人の頭部は各器官のうちでもっとも尊いものである。首を切ったら、どうやって復活できるだろうか。しかしこうした説法は、もともとたとえ話にすぎない。とはいえ、有情のありさまは種々さまざまであり、ありえそうもないようなことが起こるのもカルマというものである。

[訳注:通常のナムタル(伝記)と異なり、この物語が奇譚文学に近いのは、この「無頭男」のほか、「雪男」「ゾンビ」といった荒唐無稽なエピソードが登場するからである。ただしヒマラヤの広範囲で、正体が類人猿にせよ、熊にせよ、イエティの伝説が存在し、ゾンビもまたロランという名で広く知られているのはたしかである。この頭のない男だけが、その伝説を確認することができない。
 しかし米国のスリーピー・ホロウの伝説やアイルランドの首無し男の伝説など、元になるような伝説は世界中に見られる。この無頭男のエピソードは、一種のたとえ話であるとともに、(確認できないが)首無し男伝説をからめたものではなかろうか] 



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