尊者の神通力

 尊者はドメ地区に来たあと、仏法に関しても衆生に関しても、ほかの聖人以上の神通力を発揮した。何を、誰を、助けるにせよ、さまざまな方法を用いて調伏し、聖行を積み重ねていった。岩の上に手の跡を残したり、大河を渡ったり、隠身の術を使ったり、尊者の神通力には枚挙に暇がない。

 その後尊者は年二、三度、毎回一ヶ月、ダクゴン山(Brag dgon ri)の庵に篭って修行した。ある日普賢菩薩(クントゥサンポ)の岩の上で尊者は突然、クリムパ・ゴカルやジャモ・カジュら随行に、「今日は袈裟を羽織り、空を飛ぶから見ていてごらん、ちょっとした見ものでしょう」と言った。

 若い衆は面白がったが、老僧のクリムパとジャモ・カジュはいさめて言った。

「いまそんなことをなさる必要はありますまい。もし尊者がお飛びにならなかったとしても、飛翔能力をお持ちであることはみなよく存じています。尊者がカラスに変身し、モンゴルからジャクルン寺へ飛んできて私を救ったことは周知のことです」。

 と言い終わると、尊者は破顔一笑し、「たしかにそうじゃ」と答えた。

 しばらくのち、クリムパとジャモ・カジュは若い僧らをしかって言った。

「もし尊者が空を飛んで別の世界へ行かれたら、どうするのだ?」。

 このようなできことはしばしば起こったので、省略する。

 施主の寄付に関しては、ほかの聖僧の場合とそれほど変わらない。ただし尊者はこのようなことを仰せられた。

「近頃の高僧の伝記をみるに、まるで寄付の目録みたいだ。その半分は寄付目録に割かれているといってもいいほどだ。もしそうなったら、みっともないことこのうえない」。

 尊者の仰せられることはもっともなので、寄付目録は省いた。

 最近の書物のなかで、母舎利(もととなる仏舎利)はチベットにあるようだと述べられているのは心外だろう。ウサギの角のような暴論である。『金鬘疏』(legs bshad gser phreng)も言うように、「たとえすぐれた人であろうとも、見ずに言ったことは、あてにならない」のだ。以前、猪の年に尊者が漢地へ行かれたとき、いつも首にかけたガウ(ga’u 魔除けの箱)の金銀銅鉄四層のなかに舎利が納められていた。その後、(ガウを携帯したまま)インド、ネパール、ツァリ、ウー(中央チベット)、ツァン、カムなどを巡り歩き、ドメに至った。

 火の猿の年の秋、メル寺(rMe ru)の十五名の僧と黄河に着いたとき、タブケ(Thabs mkhas)という名の僧が溺れた。水の性質をよく知る尊者は即座に衣服を脱ぎ捨てると、河に飛び込み、泳いで僧に追いつき、救出した。ただそのとき尊者はガウをかけたままだったが、ひもの部分が弱くなっていたので、水の中に落ちてしまった。ガウを失くした尊者は悲しみのあまり刀で自分の胸を突こうとしたほどであった。まさに刃先が突き刺さろうというとき、助けられた僧が止めに入り、尊者の手をつかんだ。べつの僧が地面の身体を投げ出し、五体投地し、思いとどまるよう懇願した。後日尊者はこう語った。

「あの舎利は卵ほどの大きさでしたが、親指ほどの大きさの舎利を生み出すことができました。いまある仏像、仏塔のなかにはそうして生み出された舎利が入っているのです。雪の国チベット、とりわけ北の地では福徳が浅いのか、私の手からこぼれ落ちてしまいましたが、(黄河を流れて)竜の国に行って竜に捧げられたことでしょう。私は以前から清の皇帝にお会いして贈り物をしようと考えていましたから!」。そう語りながらも、舎利を失った悲しみは残っているようだった。

 似たようなことはたくさんあるが、ここには書ききれない。高僧大徳の伝記というものは、都合の悪いことは記されないが、(尊者の伝記の場合)秘密にされているのではなく、尊者は一切の有情にたいして菩提心を発し、その行為は純粋に衆生の幸福のためなのである。

 まさに(パンチェン・ラマ一世に追認された)ケドゥプ・タムジェ・ケンパ(mKhas grub thams cad mkhyen pa)が「救世主の口のなかの息は衆生を救う苦薬である。徳と智慧については述べるべきではない。ただ三尊(天、地、中の救済者)に祈るべき」と言ったとおりである。同様に私がかつて五百種の清浄相、五百の不浄相を示したことがあるが、なかには(不浄であることを)隠そうとする者、隠さない者もある。生まれ変わって盗賊、殺人者、畜生になる者などは隠そうとするが、高僧大徳の神通力を宣揚しすぎるのはまちがいだということである。

 以上がドメに来臨して衆生の幸福のために示された教えである。

 また十二種の縁起についてつぎのように述べられた。

 ある人は言う、「病気と老い、死、聖者はこれらから離れる」。

 また言う、「仏陀に苦慮なし、教えは永遠に衰えない」。

 これによれば、もし修行して金剛身を得たなら、滅びないということだ。また経典中にも言う、「ただ衆生有情を救うことによって涅槃にいたる」。

 障害となる対象を調伏することによって神通力をもった者は厭離心を生じ、仏法を信じ、生死さえもが自由に操れるようになった大聖者のみがこういったことを示すことができる。

 蓮華手(Phyag na padma 観音化身)の尊者は厄払いを欠かさなかった。年をおって懺悔の法事は増えていった。とくに犬の年、セルコ寺において大護法神(chos skyong chen mo)が災害を駆逐する儀式が必要になる旨を予言した。これにより各寺院は「延寿呪」という呪文をとなえ、カンギュルを百回読誦した。



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