見捨てられた天国
アブドゥル・ガニー・シャイフ 宮本神酒男訳
父
最愛の女房に愛を告白した思い出の地にわしは着いた。といってもその場所だとどうしても確信が持てなかった。コンクリートの建物や政府関連のオフィスとかが見えるかぎりつづいているのだ。夢を見ているんじゃないかと思った。あれから40年だ。これが野生の動物が好き勝手にうろついていた荒地とおなじ場所なのか? 日が暮れたら幽霊や悪霊が出没していたあの土地というのか?
数分間は本気でこれは探していた場所じゃないと思ったよ。もし目の前の山上に築370年の古城が現れなかったら、疑惑は確信になっていただろう。
わしはコンクリートの道をはずれ、集落のあいまを通り、山の端に消えていくくねくねと曲がる道をたどった。車が2台わきを駆け抜け、舞いあがった砂塵がわしを包んだ。そこに標識があった。「砂漠開発省」と記されている。わしは血眼になって小さな岩を探し始めた。その前にチョルテンがあるはずだ。わしとアンモはそこで永遠にともにいることを誓ったのだ。その日はシェイ・スルブ・ラという収穫祭がおこなわれていた。シェイというのはインダス川河畔にある古代の都だったところだ。アンモは祭りをそっと抜け出して、わしに会いに来てくれたのだ。
「あなたのためなら」とアンモは言った。「すべての富と宝を捨てることだってできるわ」
わしはそれに答えて言った。
「じゃあぼくが幸福で満たしてあげるよ」
アンモが話をすると、わしは聞き手にまわった。わしが話をするとアンモが聞き手にまわった。夢中になるあまり、どれだけ時が過ぎているかわからなかった。
「見て、プンツォク」アンモは叫んだ。二羽の山鳥がわしらの頭上を飛んでいった。「なんて運がいいのかしら」
山の穴からウサギがひょっこり現れ、どうしたものかとこちらを眺めていた。それからぴょんと跳んで、転がるように岩の割れ目に消えた。わしらはアンモが祭り用に用意した食べ物を食べた。そのあとふたりはずっと黙ったままだった。上には空があり、下にはアンモとわしがいる、それが世界のすべてだった。ほかにはいかなる生き物もいなかったよ。
わしはチョルテンがあった場所を特定できたと思った。しかしあたりを見回しても家が何軒かあるだけで探し当てることができなかった。岩を発見できないのには、何か理由があるにちがいなかった。だれかが岩を壊して、その石を使って家を建てたにちがいなかった。だがチョルテンはどこへ行った? しょげ返ってわしは道を進んで、さらに先のほうまで探した。王宮と寺院を訪ねた観光客らが上から下りてきた。そのまま歩き続けると、群衆と車であふれかえった大きな市場に到達した。店には食べ物や商品がいっぱい並んでいた。 行商人や野菜売りは舗道の上に坐り、その前に売り物を置いて売っていた。こうした群衆を見るうちに、レーの群衆が集まった日のことが思い出された。
レーの町中に縁日が立った。アンモをはじめて見たのはこのときのことだった。わしは一目見ただけで恋に落ちたんだ。
「あの娘は誰なんでしょう?」と、夢からさまそうとするかのように、わしは隣りの男を小突いて聞いた。
「膝に子供を載せている彼女のことかい?」
「いや、ちがいます。あの娘です」
「青のベルベットの帽子をかぶったあの彼女のことか?」
「いえ」とわしは息をついた。どうしてこの男はわしがだれをさしているかわからないのだろうか。
「手の上にあごをのせて出し物を見ている彼女かね」
「ええ、そうです、あの娘です」
「あれはアンモだ。首長の娘だ。きれいな娘だろう?」
「しぐさがとても優雅です」とわしは気乗りせずにこたえた。
その出会いのあと、わしは痛いほど寒いなか、彼女の家の外で何時間も待っていた。彼女の美しさを一目見るために。そうしてわしのことを認識するようになり、チョルテンの前の岩のところで会ってくれるところまでこぎつけたのだ。
わしは細くて暗い谷間につづいていく階段に向って歩いた。この谷間の岩だらけのごつごつした腱(けん)は人も馬も疲れさせると言われていた。わしは山の階段を登り、巨大な寺院に達すると、眼下に広がる谷間を見渡した。どこもかしこも入植した家屋が建っていた。道には無数の車が走っていた。ここには富が氾濫した。それなのにわしとアンモには何もなかった。
アンモの家族は反対したが、わしらは結婚した。
「アンモ、ばかな考えは捨てなさい」とアンモの父は彼女を叱責した。「あの男は住む家も持っていないというではないか。ひとつかみの土しか持っていないのだぞ。愛だけで生きていけるほど人生は甘くないのだ」
しかし貧しさによってわしらの喜びのシャボン玉がはじけるわけではなかった。そのころのわしらの人生はそれほどにも輝いていた。
わしはしばらくのあいだまわりの息をのむような風景を眺めた。それから40年前にわしらが歩いた道を下りていった。できればこの疲れた頭を地面の上で休ませたかった。そして若い頃の思い出を刻みこませたかった。ここは静かだったけれども、さびしい場所だった。進歩というのはときには災難を生むものである。この谷間によく知られたことわざがあるのを思い出した。
魔女は走りまわり、飛び上がる。長い木の梁の上で。
若い男
「メメリ、なにを探してるんだい?」とぼくはたずねながら、彼から目をそらすことができなかった。彼の装いは奇妙だったし、ふるまいも奇矯だった。きのう、バスから降りてきた彼が夕刻の光を浴びているのを見かけた。彼は好奇心のかたまりで、バス・ステーションとバザールのあいだの通行人すべてを大きなクエスチョン・マークをつけて眺めていた。彼はだれなのか、何という名前なのか、どこから来て、どこへ行こうとしているのか、そういった疑問がつぎつぎと湧き起こってきた。子供たちが彼のあとをついてきて、「狂人だ! 狂人だ!」と叫んだ。ぼくは彼らをしかりつけたのだけど、子供たちがいなくなるのは一瞬のことで、またすぐに集まってきた。ぼくは勇気をふるって彼に近づこうとしたのだけど、そう思ったときには彼は消えていた。
いま、ここ、ぼくのうちの手前の路地に彼はいた。
「たしかこのあたりにチョルテンがあったはずなのだが……」
彼はとまどった様子でぶつぶつつぶやいていた。
「いつの時代の話をしてるんですか」とぼくはたずねた。
「40年前だ」
ぼくは吹き出してしまった。
「ぼくが生まれる前の話ですよ。メメリ、あなたはどこから来たのですか」
「わしはレーの住人だ、息子よ。40年ぶりにもどってきたらすべてが変わってたんだよ。まったくわからなくなってしまった」
「リップ・ヴァン・リンクルみたいですね」
「何だね、それは」
「人の名前です。7年生の教科書で習いました。彼は何十年もたってから故郷に戻るのです。彼はいまの町をよく知らないし、町の人も彼のことを知りません。で、メメリ、なぜチョルテンを探しているのですか」
彼は大きなため息を吐いてから言った。
「長い話だよ、ノノ。もしまた会うことがあり、時間があったら詳しく聞かせてあげるよ。おまえさんはレーから来たのかい?」
「ぼくはもともとチャンタンの出身です。名前はダワ・ツェリンです。5年前にレーに移り住んできました」
「チャンタンから来てここに住んでいるだって?」老人は驚きを隠さなかった。
「メメリ、チャンタンからだけじゃなく、ザンスカル、シャム、ヌブラ、カルギル、いろんなところからレーに来て住んでいるのですよ。カシミール人だって多いし、外国人だってけっこういますよ」
「王様がいた時代、異なる村の代表者が冬のあいだレーにやってきて、宮殿の門の内側にひと月かふた月滞在したというのは聞いたことがある。おまえさんがいま言ったのは、ラダック中の人がレーにやってきて住んでいるということだ」
彼は信じられないというふうに頭を振って、先に歩き始めた。
突然記憶がよみがえった。
「メメリ!」とぼくは老人を呼んだ。「思い出しました。以前道路や建物を建てるとき、いくつかのチョルテンをほかの場所に移したと聞いたことがあります」
老人はうなずいた。彼の目の中に希望の火が着いたのがわかった。
「メメリ、どうしてチョルテンを探しているのか教えてください」
彼はサックを下に置いた。
「ノノ、もし知りたいのなら、話をしてあげよう」
ぼくは空を見上げ、そしてそびえたつ宮殿のほうを眺めた。まるで魔法の世界にいるかのようだった。思いがけずに有意義な午後になりそうだった。
「むかし、サスポルの村に成功した豊かな交易商人がいた」と老人は話し始めた。その声はくぐもっていて、どこか遠くから聞こえてくるようだった。
「彼はひとり息子だった。ある日若い商人は木の上にとまっている親をなくしたひなを見つけた。それは全身産毛に覆われていた。敏感な年頃の若者はこの鳥の一生についてじっくり考えてみた。父親の死についてこの鳥はさほど苦痛を感じなかったろう。もし若者が出家して、僧侶になったとしても、家族にそれほどの影響を与えなかっただろう。このように、シャカムニ・ブッダのように家と家族を捨て、彼は西チベットのトリンへ行き、そこで僧侶になったのだ。彼はトリンからタシガンへ行き、偉大なるリンポチェのもとに参じた。それからマナサロワル湖へ行って瞑想修行をした。ザンパ(大麦)と水だけで彼は生きていた。
ある日彼は下の方から煙があがってくるのに気がついた。湖岸近くのキャンプから煙が立ち昇っているのだ。水を汲みに湖に近づいたとき、彼はラダックからやってきた人々を見かけた。巡礼だろう、もちろん。そのなかに妹のガルモがいた。兄が汚いボロボロの服をまとっているのを見て、彼女はわっと泣き出した。彼女は兄に戻ってくるよう頼んだが、聞き入れられなかった。そこで彼女は懇願して兄といっしょにトリンに行き、大リンポチェに会うと、兄にラダックに戻るよう説得してくださいと頼んだ。その願いはかなった。勤行すべき場所はラダックであるとリンポチェは弟子に伝えたのだ。男はラダックに戻り、ほかの僧侶たちと会い、のちには寺院を建立した……」
「リゾン寺ですね。彼がリゾン寺を建立したのですよね」
ほとんど喉元まで出かかっていたが、あとすこしのところでこの話の男の名前が思い出せなかった。夏の「パラダイス・ツアー」のツアー・ガイドをするために、ぼくはラダックの歴史や建築の本を読んでいた。前年の夏、ぼくは2つのトレッキング・グループをガイドした。ひとつは野生動物とチャンタン湖を、もうひとつはシャム地方の寺院を見るのが目的だった。すべてのツーリストがラダックの汚されていない、美しい自然に魅了された。でもよりよいガイドになるためにはもっと歴史を勉強しなければならないとぼくは感じた。この老人のことをもっと知りたいとぼくは思った。老人から学ぶことはたくさんあるだろう。
でも質問の答えはなされないままだった。
「もう日没だ、ノノ。やるべきことがたくさんあるので」
老人は去っていった。数珠をまさぐり、マントラを唱えながら。また別の日に老人を探そうとぼくは考えた。
友人
ぼさぼさの髪、汚らしい服にもかかわらず彼であると私は認識できた。その目つきや歩き方には自分の影とおなじようになじみのあるものがあったからだ。メインストリートをふらふら歩く彼は、40年も会っていないが、親しかった友人だ。おおまたで彼に近づき、目の前で立ち止った。
「プンツォク・タシかい?」と彼がだれであるか確信していたにもかかわらずたずねた。
「あなたさまはわしの知り合いですかね?」おそらくしわくちゃで、歯が抜けた私の顔を見て当惑したのだろう。
「私だよ、ダワ、ダワ・ノルブだよ」
彼はほとんどとびかからんばかりに私を強く抱きしめた。ふたりとも目は泪であふれそうになった。何年も会うことがなかったのだ。彼は訪れた数々の場所について、そしてどんな重荷を背負ってきたかについて、またどのようにして僧侶となったかについて、西チベットへどのように行ったかについて話し始めた。彼はマナサロワル湖へ行った。それからトリンへ行って何年も暗い洞窟のなかで瞑想修行をした。その頃共産主義者がチベットに侵攻したが、ダライラマはまだそこにいた。交易や巡礼目的ならラダック人がこの地域に入ってもお咎めがなかった。彼は西チベットから中央チベットへ旅をした。チベットの状況が悪化したとき、彼はほかのチベット人たちとともにネパールへのがれた。ネパールでも何年間か寺院で瞑想修行にはげんだ。
彼の話を聞いて私は心がしびれそうになった。目の前に彼が立っていることが信じられなかった。 アンモが出産のとき死んで以来、彼の心が慰めされることはなかった。何か思い切ったことをしてしまうのではないかと私は彼の身を案じたものである。息子のソナムの世話をすることはできなかった。もし妹のドルマが助けてくれなかったら、すべては終わっていたかもしれない。子どもの頃、われらはリゾン寺院の建立者であるクショー・ツルティム・ニマの伝記を読んでいたものである。クショーは精神的平安を得るために世俗の生活を捨てた高僧だった。プンツォクはツルティム・ニマのように瞑想修行をおこなうという考えにとらわれていた。出家願望を口にしながら、彼はドルマに向ってこの町にはげんなりすると言った。ドルマは兄の怒りに圧倒され、生まれたばかりの子どもの世話をすることにした。
「子供たちはどうした? 孫たちは?」と彼はたずねた。肝心な質問をするのを先延ばしにしながら。
「息子がふたりいるよ。ルンドゥプとアンチュクだ。アンチュクは商店の主人だ。自立してうまくやってるよ。ルンドゥプはラユルという名の大きなホテルとトラベル・エージェンシーを経営している。ダンプ・トラック2台も持っているんだ」
「あんたはラッキーだね。神のご加護があるようだな」彼は黙りこくった。
「それでソナムは?」と彼の唇にとどまっていた名前がついに発せられた。
「ソナムもうまくやってるよ。いまやt大きなホテルの経営者だし、トラベル・エージェンシーも持っている」
プンツォクの目が輝いた。
「もうわれわれの世界じゃないんだよ、プンツォク。新しい世代は全然違うんだ。われわれは貧しかっただろう」と古城路を彼の家の方向に歩きながら私は言った。
「メメリ! 漫画を連れてきてくれたの?」そうこちらに近づきながら言ってきたのはソナムの息子タシだった。
「そんなふうに言うもんじゃないぞ、タシ」と父のソナムが近づいてくるのが見えた。
「メメリ……」
私は何も言えなかった。ソナムは玄関先で凍ったように動かなくなった。彼にとって、彼の父はずっと昔に死んでいたのだ。過去の代償は大きかった。叔母のドルマが死んだあと、まるで成功だけを求める車に自分を変え、ひたすら疾駆してきたかのようだった。
ソナムはしかしすぐに気を取り直し、子供たちを呼んで彼らのおじいちゃんに挨拶するよう命じた。私はプンツォクと家族が水いらずですごせるように気を使い、翌日またやってくると約束してそこを去った。じつは私とソナムとの関係はいくらかぎくしゃくしていた。疑念やライバル心、やっかみもあって、家族間には緊張感が漂っていた。
翌朝、暗闇が割れて光が射しこむ頃、彼はぶらりとやってきた。彼はアンモの写真をたくさん見せてもらい、洪水のごとく思い出がよみがえってきたようだ。われわれは何時間も話をした。
ある日、プンツォクにせかされて、私はプンツォクにわれわれのホテルからメインストリートへ通じる道を作るために、わずかばかりの土地が必要だという話をした。ソナムに話しをしてみようとプンツォクはこたえたが、それが何の役にも立たないことを私は知っていた。
別の夕方、われわれがテラスに坐り、夕陽を浴びながら、アプリコットを食べ、子供時代の思い出を語っているとき、小さいが何かを言い争っている声が聞こえた。
叫んだのはルンドゥプだった。
「ソナム、どうしておまえはわれらのホテルを中傷するのだ?」
「看守に向って叫んでいる泥棒みたいだな! たいしたもんだ。おまえがツーリストをわれらのホテルに連れてくるといって、おまえのホテルに連れていってるんじゃないか」
「いや、あんたこそ泥棒だろ。あんた、ツーリストに何て言ってた? 南京虫がいるって? 水が汚いって? ちょろまかすって?」
「おまえこそ先月、ツーリストに何て言ってた? すぐに忘れてしまうのか? 汚水を水のタンクにいれてるって言ってたな。まるで自分たちは泉から水を取ってきてるみたいに」
「おれに向ってわめくなよ」
「もはや敵だからわめくしかないだろ」
「あんたはおれたちのホテルが繁盛しているのが我慢ならないのだろう」
「おまえはホテル10個作ることもできるだろ。なぜおまえに嫉妬する?」
「気をつけろよ、ソナム。もしおまえがおれのホテルの悪い噂を流したら、ただではすまないからな」
ソナムは何か言いかえしたのだが、われわれには聞き取れなかった。彼らの声は次第に小さくなり、そのうち静けさが広がった。プンツォクの目に涙が浮かんでいるのを私は見逃さなかった。
「プンツォク、いまどきの子どもたちは私たちとだいぶ違うようだな」と空中にひそむ緊張感をやわらげようと私は言った。
「玉ネギ一個、砂糖スプーン一杯、パン一切れからわれわれは分けあったものだがなあ。プンツォク、覚えているかな。私の山羊が死んだとき、家に帰ってきたあんたとアンモは私をなぐさめてくれた。いまどきの子どもたちは互いに挨拶する時間さえ惜しんでいるが」
夜中に私は目が覚めた。プンツォクの義理の娘、クンゼスの叫び声に起こされたのだ。私の家の人たちが庭に水を放出したのだが、それによって壁が倒壊してしまったのである。きしむ音を聞いてルンドゥプと妻はソナムの家に向って走っていった。私も杖を持って彼らのあとを追い、暗闇のなかに立った。
「いったい何が起きたんだ?」ルンドゥプは心配そうな顔でたずねた。
「どうしておまえは何が起きなかったのか、聞かないんだ?」ソナムはとげとげしく答えた。
「ソナムよ、われわれは意図的に水を放出したわけではないんだ」ルンドゥプはなんとか穏便にすまそうと試みた。「昨晩、運河があふれだしたんだ。それでわが家の菜園も水浸しになったのさ。泣かないでくれ。われわれが新しい壁を作るから」
「新しい壁を作るうんぬんの話ではない」ソナムは憤怒のかたまりとなり、鬼の形相だった。「今日おまえは水を放出し、それで菜園の壁を壊したのだ。あすは家を壊すことになるんだろう。あさってはホテルだ」
「仏法僧の三宝に誓っていいます、意図的にやったわけじゃありません、ソナム」とルンドゥプの妻が懇願した。
ちょうどそのときソナムのホテルの従業員らとともに警官がやってきた。状況はさらに悪化した。
「ソナム、おまえ警察呼んだのか?」ルンドゥプの声は平静を失っていた。「これまで警察がこのエリアに来たことはないぞ。警察に何ができるんだ? お、おれを脅かそうとしてるんだな」
「注意を払って水を放出するのを見ましたか」と巡査部長はきいた。
「真っ暗なのにどうやって見ろというんですか」とソナムは反駁した。ルンドゥプは意図的でないと主張した。
「これは隣人同士で解決すべき問題ですな」と巡査部長は宣言した。「よく考えてください。報告書はまだ出しません。もしこの件が裁判沙汰になったら、解決まで相当の時間を要することになりますからな」
私はこれ以上黙っているわけにはいかなかった。放っておくことはできない。私はなかに入り、警官に出ていくよう促した。それからソナムのほうを向いて言った。
「こちらの水があんたの菜園に流れて壁を壊してしまったことは申し訳なかった。深くお詫びを言いたい。どれだけの損害が出たのだろうか。私が弁償したい」
「びた一文払うことはないよ、アバ! 警察を呼んだんだぞ。これはふたりの問題なんだ」
「いや、われわれが払うべきだ、ルンドゥプ」と私は主張した。
そのときプンツォクがその場から一歩出て、声をあげた。
「ダワ・ノルブ、何か言ったか? おれたちは何もいらないよ。隣人としてどうあるべきかを考えているんだ」
「アバ、なかに入ってもらえないか」とソナムは言った。「これはアバの理解できることじゃないから」
「おまえは策略家だ」とルンドゥプはなじった。
「いや、おまえが策略家だろう」
ルンドゥプとソナムはにらみあって、一触即発の状態だったので、われわれはふたりを引き離さなければならなかった。なんともやりきれない夜だった。心はどんよりと重くなった。
プンツォクはこの事件をとても悪くとらえてしまった。彼はそれ以来、彼がアンモと過ごしたチョルテンが建っていた市の郊外で、もっぱら私と過ごすようになった。
「わしが持っていた掘立小屋がまだあったらなあ」と彼は嘆いた。「そこに身を隠し、アンモと過ごした愛と幸福の思い出に浸りながらすごせるのに。アンモは炉の火の世話をしている。わしはその近くに坐る。わしは台所の棚に触る。そこはアンモの手が触ったものだ。わしが窓から顔を突き出してみる。それはわしが外から呼んだとき、アンモが顔をのぞかせた窓だ」
私の人生は大体において満足できるものだった。もちろん後悔していることもいくつかある。彼が言っていることを聞くと、彼も時間と和解する余地があるのではないかと思うのだ。
息子
「アバ」とぼくは言った。この男とぼくは、骨がつながっているらしい。「ぼくはずっとあなたが戻ってきて息子がうまく暮らしているのを見ることができればと願ってきました」
ぼくはアバに妻のクンゼスと子供たち、仕事を手伝ってくれているタシ、ムスリーの学生だが夏休みを利用してもどってきているジグメとドルカルを紹介した。
「メメリはどうしてそんなに長いあいだ離れて住んでいたの?」とタシがたずねた。何と答えるのだろうかとぼくはいぶかしく思った。
「おまえのおばあさんが死んだとき、この土地にいるのが耐えられなくなったんだよ、ノノ」
「ぼくらのこと考えたことあったの?」
「いつだってね。ネパールにいるとき、会ったお坊さんからおまえたちがみな無事に過ごしていることを聞いたことがあった。わしの心臓は誇りで大きくなったよ」
「じゃあ十年前にアニ・ドルマが死んだことも聞いていたの?」そうぼくは聞かずにはいられなかった。
「そうだ。将来、彼女からの借りをかえそうと思う。わしが不在のあいだに彼女は家族を立派に育てたのだから」
「アバ」とぼくは言った。もうかなり遅い時間だった。「すこし休んだほうがいいよ。あすぼくたちのホテルを見にきてほしい。こぎれいな服装を用意するから。その上着だと行者のように見えるからね。床屋も家に連れてくるよ」
ぼくが用意した一揃いの衣類を彼は喜んでまとったけれど、髭をそることに関しては頑なに拒んだ。ぼくたちはホテルまで歩いた。それはセメントと石を素材にした堂々とした建物で、ぼくはシャングリラ・パレスと命名していた。全面に庭があるホテルの白い壁面は、太陽のもと黄ばんでいた。
「あそこにいるグループはフランス人で、人里離れた、岩だらけのヒマラヤの風景のなかをトレッキングする予定です」
前日に雇ったばかりの若いツアー・ガイド、ダワ・ツェリンといくつかの点を確認した。奇妙なことにアバは彼のことを知っているように見えたが、そのことについて深く考える時間はなかった。ぼくはアバといっしにメイン・バザールへ行き、所有する3つの店を見せた。それぞれの店がぼくに4万ルピーの賃貸料を払っていた。来年には年5万ルピーに賃貸料を上げるつもりだ。
「4万ルピーでも大金じゃないか、ソナム」とアバは値上げに反対した。
「それぞれの店に4万5千ルピー払おうというカシミール商人がいるんだ。この値段はぼくがつけたわけではない。いいビジネスマンなら時代を読まないといけない」
彼は黙った。物思いに耽っているようだった。
「アバ」と歩きながらぼくは語りかけた。「ぼくたちの先祖の畑、いくらで売ったの?」
「300ルピーだよ、ノノ」
ぼくは深くため息をついた。
「いまだったらこのエリアで土地を買うのに、何百万ルピーでも足りないくらいだ」
「昔、土地は安かったんだよ。こんな土地はとくにね。そんな価値があるようには見えない」
「アバ、ほんとうに土地は売るべきじゃなかった。とくに水路はね。いまやその価値は天にも届かんばかりだ」
「だが実際時代がちがったのだ、息子よ。当時、われわれを覆うものが何もなかった。だからと血の一部を売って家を建てたのだ」
「アバが建てたのは掘立小屋だよ」
「その掘立小屋をおまえはどうしたのだ?」と彼は急に不安そうな顔をした。
掘立小屋をどうしたかだって? ぶっ壊したんだよ。その場所にホテルの部屋やバスルームをあるんだ。
このことを話すと、彼の目にパニックの色が浮かんだ。
通りは人でごった返していた。われわれはいくつかのツーリスト・グループが集まるレストランの前に立ち止まった。
「アバ」とぼくはレストランを指差した。「アバが売った土地の一角にまさにこのレストランが建てられたんだ。オーナーはこの土地を貸してトラブルがあったことはないよ。貸した当人がそのお金を投資して固定させている。つまりこの土地が人に渡らないように契約を結んでいるんだ。賃貸料として年に8千ルピーを支払っている。レストランを経営するのにいくらかかるか知っている? 1万ルピーだよ、一日で。この3、4年のあいだに彼は何十万ルピーも利益を得ているんだ」
ひとりの顧客が笑みを浮かべながらぼくのほうに近づいてきた。心温かい握手をしながら、ぼくは彼を父親に紹介した。
「こちらはドイツからやってきたお客さんだ。山の孤独を経験するためにやってきて、ぼくのホテルに先月から滞在している。ここがぼくたちのホテルであるかぎり、この人のようなゲストに部屋を提供しつづけることになる」
「ノノ、わしが言ったように家を建てるために土地を売らねばならなかった。こんな土地にいつかすごく価値が出るなどとだれが思っただろうか」
アバにはぼくのビジネス・センスがよくわかっていないようだ。先祖の土地について質問する権利をぼくがまるで持っていないかのようだった。ぼくが生涯を通じて嘲りと憐みの視線を受けてきたことなどアバには思いも及ばないようだった。彼は現代というものを、つまり子供の必要性、社会における進歩というものをまるでわかっていなかった。
とりわけうんざりさせられるのが、ぼくのライバルへの彼の同情だった。アバにいわせると、ダワ・ノルブは古い友人であり、隣人だった。いかにぼくたちのビジネスが彼の家族によって邪魔されているかについて説明した。彼のふたりの息子がいかにわれわれの生活に毒を盛っているか、いかにわれわれのすることをマネしているかについて述べた。われわれが車を買うと、彼らも車を買った。トラベル・エージェンシーをはじめると彼らもおなじことをはじめ、モロにわれわれの売り上げに影響した。ホテルを建てると、彼らもホテルを建てた。商店を経営すると、彼らも商店を持った。ガス調理器の会社と契約したら、翌日には彼らもおなじような契約を結んでいるだろう。われわれが薪を切る工場を建てる。すると翌日彼らはおなじものを作る。そういうことがずっとつづいているのだ。
しかしアバはダワ・ノルブと子供たちを擁護しようとするのだった。
「彼らのどこがまちがっている? 彼らがそうしたいなら、そうさせておけばいいじゃないか。おまえの仕事はうまくいってるんだろ? 将来もずっとうまくいくようわしは祈っているよ。ソナム、神は十分にたくさんのものをお与えくださったんだ。ほかにどんな望みがあるというのか。ダワ・ノルブはすばらしい隣人だと思うぞ」
どの家にも世俗的な男がひとり、必要とされるものだ。わが家にもし世俗に長けた男がいたなら、現代との闘いに直面することはなかっただろう。人生の大半において社会から遮断された人間が、どうやって社会の要求や義務を知ることができるだろうか。
ある日、狡猾なルンドゥプは、ぼくをそそのかしてホテルに通じる道のための土地を売らせようとした。彼はルンドゥプが仕掛けた罠にとらえられ、ぼくを批判しだす始末だ。
「彼らのホテルには通ずる道がないんだ。ルンドゥプはおまえに何度も要求したけど、答えてくれなかったと言っている。好きなだけお金を払うことができるとも言っている。もし土地がほしいのなら、三倍の土地と交換するとまで言っているのだぞ」
ぼくは一歩もひかなかった。
「もしあいつが金塊をくれても、土地は絶対に譲らない。自分の足に斧を落とすようなまねはしない。ルンドゥプはホテルを建て、ショッピング・モールを経営しているんだ。これ以上好きにさせておくことはできない」
老人は困惑した表情を浮かべたが、なおも理解を越えた件に関してぼくに説教をつづけようとした。
「ソナム、遠くの親戚より近くの敵のほうがよいってことわざがあるだろう。いつの日か彼らの援助を求めることもあるだろう」
ぼくはアバに裏切られたような気がして詮方なかった。
アバが心を開いたのはわが娘、ドルカルだけだった。アバは彼女を賞賛した。おそらく彼女のなかにアマ(母)の面影を見たのだろう。ドルカルはアマの生き写しだと言う人も多かった。彼女はまた過去の話を聞くのが好きだった。彼女にとってそれは風変わりで興味が尽きなかったのだ。アバは彼女に子供時代のことを語った。その頃レーには電気がなく、家には電話もテレビもラジオもなかった。彼の口ぶりでは、まるでそのことが長所であるかのようだった。
「いつもはだしで歩いたもんだ」と熱いバター茶をすすりながら話し始めた。「着ていた服もボロボロでつぎはぎだらけだった。朝早く起きると、かごを持って牛の糞を集めにでかけたもんだ。ときには学校へ行ったよ。でなければ親たちはわしらを草原に送り出して羊やヤギの世話をさせようとしたからね」
「メメリ、何年生まで学校に行ったの?」
「3年生までだ」
ドルカルはクスクス笑った。
「あたし、いま4年生よ」
「ねえ、あたし、メメリよりひとつ上なのよ」と彼女は母親に言った。
「それで、メメリは大きくなって何になったの?」
「わしはいつも乞食労働者として旅をしていたんだ。これは植民地政府がラダック人に課した強制労働システムだった。偉い人たちがレーにやってくると、その人たちの妻や子供を駕籠(かご)に乗せてこっちらからあちらへと運ばねばならなかった。彼らが旅行するときは、わしらは馬を用意した。生計を立てるために、請負人の部屋の外で坐って待たなけりゃならなかった。しかもそいつはわしらからピンハネしていたんだ」
「政府はなかったの?」とぼくは聞いた。
「当時は政府と聞いただけで震え上がったもんだよ。地主や高利貸から借金で穀物を手に入れたとき、期限内に金を返さないと法外な利息をとられたんだ。ある農民が高利貸から借金して電気を買ったことがあった」
「どうやって電気を買うの、メメリ」とドルカルは楽しそうにたずねた。
「まさにおまえの横にその電気があるよ」
「メメリ、これ懐中電灯よ」
「わしらはそれをビジリ、つまり電気と呼んでいた。その農民はこれを買うのに借金していたのだ。期限内に返せないものだから、貸し手はそんな高利を課していた。その結果、農民は農業をやめざるをえなくなったわけだ。その畑はいまも存在し、ビジリ(電気)の畑と呼ばれている」
アバの頭脳はまるで名前の由来の物語を貯めた倉庫のようだった。ぼくはときどきアバが没頭している様子を見て心配になることがあった。まわりの世界がすっかり変わっていることにまったく気づいていないようにも見えた。
夏休みが終わり子供たちはそれぞれの学校へ戻っていった。ドルカルがいなくなり、アバは前にも増して寂しそうだった。彼は引きこもって憂鬱そうだった。問いかけてもぼそぼそと短い答えが返ってくるだけだった。食べるのもむつかしそうだった。体調も崩した。彼は家の外で多くの時間を過ごすようになった。われわれとの距離も、家から離れていた日々以上に遠く離れてしまったかのようだった。見知らぬ者同士のようになってしまった。帰還したことによって、ぼくは父親を失ってしまったかのようだった。
ある日、起きると、アバは古い衣類をまとめ、サックにつめこんでいた。
「こんなに早くから何をしているんだい?」とぼくはたずねた。
「行くんだよ」
「行くってどこに?」とぼくは驚いてたずねた。
「それはわからない。わからないけど出ていくんだよ」
ぼくと妻は懸命に引き留めようとしたが、アバは聞く耳を持たず、荷物をサックにつめると、家を出て行った。このあとまた会えるのだろうかと思いながら、アバが視界から消えていくのをただ眺めていた。ぼくらのあいだにできていた冷たい壁を越えてアバに追いつくことはできそうになかった。