About me

宮本神酒男、自らを語る 改訂版 

 

 

私に何が起きたのか――事故やUFO拉致ではなく、殺人未遂だった? 

 

 オリジナル版に書いたように、わが半生の分岐点となったのは、1993年1月末に中国広西チワン族自治区北西部の僻村で負った全身不随になりかねなかった瀕死の重傷である。意識がよみがえってきたとき、動かせるのは指先だけだった。脳にダメージを受けていたのか、私はその後の2、か月の間、しだいに狂人のようになり、幻覚につつまれながら、雲南省(病院を出たあと雲南に移動していた)の町や山中をさまよい歩いた。これだけの重傷を負いながら、私は自分がなぜこんなふうになったのかわからなかった。当夜の記憶が失われていたのである。唯一の記憶は、自分が拉致され、上空に浮かぶ飛行物体の中らしきメタリックな空間に連れていかれたことだった。私は何者かによってオペを受け、ピアノ線のような、でも目に見えない管を通じて精液を抜き取られた。いわゆるアブダクション体験である。リアルな記憶だが(詳しくは後述)、それは一種のすり替わり記憶、ニセの記憶だったのではないかといまの私は考えている。

 この年の3月頃、私はブツブツつぶやきながら徘徊する頭のおかしい人だった。それに加えて記憶能力を失い、ニワトリなみに数分しか記憶保持ができなかった。しかし奇跡の回復力(?)によって、4月頃には、自己判定ではまっとうな人間に戻っていた。そして翌5月には大嵐に巻き込まれる。チベット自治区のラサで地下組織の接触を受け、デモに参加した嫌疑によって拘束され、国外退去の処分を受けたのだ。皮肉なことに、このことがきっかけとなって私はチベット文化に興味を持つようになっていく。ダライラマ法王が住まうインド・ダラムサラのチベット難民地区をはじめて訪ねたのもこのときだった。

 それからの数年間、私は通常の生活を送っていたが、まだどこかおかしかった。ほぼ以前とおなじ、と自分に言い聞かせるように自己査定し、私を知る人々も以前との違いに気づかなかった。入院中には「夢遊病ではないか」と公安の人に指摘されたが(つまり眠っている間に起きてふらついていたらしい)そのような症状は見られなくなっていた。そしてもちろんひとりごとをつぶやきながら歩き回ることもなくなった。記憶力もかなり回復した。記憶喪失があったかどうかはわからない。なぜなら、過去のことを思い出そうとしなかったからだ。一瞬の間、私は過去を持たない人間になった。幼い頃のことはすっかり忘れていたが、何かをきっかけに「大量に」記憶がよみがえってきた。そうするともはや記憶喪失があったかどうかわからないのである。

 シャーマン的気質は少し強まったかもしれない。インド・ラダックのチベット寺院(サキャ派のマトゥ寺院)でシャーマン僧が躍動する仮面劇を見ていたとき、全身に痛みを感じ、霊が自分に憑依しそうになって必死にこらえたことがあった。
 また夢がリアルすぎて、現実と区別がつかないときがあった。ある晩、夢の中で私の体はぶった切られてばらばらになり、鍋でグツグツ煮られた。そのとき神のような声が響き「おまえはアルタイへ行ってシャーマンと会え」と命じた。寓話のような夢だが、私にとってはとてもリアルだった。私は実際アルタイへ行くことになる。ロシア側からはむつかしいので、中国側(新彊ウイグル自治区)から私はアプローチした。真夜中の2時頃、カナス湖の手前で車が故障したため、近くのパオ(遊牧民のテント)に助けを求めたた。パオのなかにいたのがモンゴル人のシャーマンだった。この旅の間、私は新彊ウイグル自治区内のカザフ人やウイグル人のシャーマンとも会おうとしたが、かなわなかった。ウイグル人のシャーマンと会い、シャーマンの治療儀礼を見ることができたのは月日が流れて、2007年のことだった。しかし違法行為をおこなったとして、私は当局によって拘束されてしまった。7人の制服公安がホテルの私の部屋になだれこんできて、私を取り押さえたのである。

 

こういったエピソードはあとで詳しく述べたい。いま、重傷を負った1993年1月の村の話に戻したい。というのも、最近、四半世紀を経て、わが脳みその奥から突如新説が出てきたからである。私はUFOから乱暴に落とされてケガを負ったとなかば思いながら、ぼんやりと、やはり建物から落っこちてしまったのだろうと考えていた。トイレを探すうちに2階か3階から落下したのかもしれないと。なぜか、他者に襲われた可能性は排除してきた。米ドラマが大好きないまの私からすれば、事件性を疑って当然なのだが。

負傷してからかなりたった頃、突然ごそっと頭髪が抜けた。手に取って見ると、それは乾燥したサイコロステーキのような「頭皮+身」に数十本の頭髪がついたものだった。一瞬ぞっとしたが、たしかに入院してから数日後、後頭部のやや左あたりにさわると、血がついていたので、私はあわてて呼び出しボタンを押し、医師を呼んだ。医師もびっくりした様子で「おや、頭をケガしていますね」とのんきな言い方をしたのが印象に残っている。医師がタイガーバームの親戚みたいなあやしげな香港製の万能軟膏を持ってきたのにも驚かされた。ケガのほうはといえば、痛みはまったくなかった。私は真剣にUFO内のオペで頭皮の裏に何かが植えこまれたのだと考えた。しかしもちろんそんなことはあろうはずもなく、とがった石にでもぶつかったとするのが妥当な解釈だった。ただいくつか説明しがたいキズがあった。たとえば両足の甲の足首に近い部分のキズ。ひざの裏のキズ。これらはいまもケロイドになって残っている。肘や腕にもかすり傷があった。昏倒した私の足に縄を結びつけ、引きずったのだろうか。

いまあらためて考えると、後頭部のキズは、あきらかに後ろからだれかに鋭利ではないがとがった、傘の先かスキーのストックのようなもので殴られたか、突かれてできたものだ。私は襲われたのだ、おそらく殺意を持っただれかに。そして、2階か3階から落とされた。腰かお尻から落ちたので、尾骶(びてい)骨あたりを激しく打ち、脊椎を損傷した。しかし頭がおかしくなるほど脳がダメージを受けたのに、私は頭を打った気がしなかった。私はその前の年、中国広州でタクシーに乗っていたとき、そのタクシーが中央分離帯に激突し、運転席と後部座席の間にある鉄の網に頭部をはげしくぶつけたことがあった。正確には顔が金網にめりこんだ。私はうずくまったまま、約半時間、意識が飛ぶかどうかのところで必死に踏みとどまった。そのときのような頭の中心部までジーンとくる強烈な衝撃がなかったのである。あきらかに何かとがったものが私の後頭部に振り落とされたのであり、頭部全体を強打したのではなかった。

意識がよみがえってきたとき、目をゆっくりあけると人影があった。中年の男の厳しい目が私を見下ろしていた。公安(警察)にちがいなかった。彼は「何が起きたか覚えているか」といった。私は「いえ、なにも」と声を絞り出した。彼はそれ以上なにもいわなかった。体調を気遣うことばも、逆にとがめることばもなかった。いま考えるに、公安の男は私が何も覚えていないことを確認したのである。もし「覚えています」とこたえたら、何が起きていただろうか。その地域は外国人が入ってはいけない未開放地区だった。私が行方不明になっても、だれも痕跡を追うことはできないだろう。

私はその後救急車代わりの車にのせられ、平野部の町の病院に運ばれた。4、5時間、未舗装の道を走る車の中でガタッと揺れるたび、私はギャッと叫び声をあげた。病院に着き、緊急患者用のベッドに寝かされた私を見て、医師が最初に発したことばは「何があったんですか?」だった。私のほうが聞きたいぐらいだった。普通なら運び込んだ人が「落下してケガをした」くらいのことは言いそうである。医師が開口一番たずねるということは、やはり何か様子がおかしかったのだろう。もし事故ではなく、強盗殺人未遂であったなら、村の人たち、宿の人たち、公安関係者は、このことをもみ消ししたかっただろう。幸い被害者は記憶を失っていた。もちろん私の身を案じ、いろいろと世話をしてくれた人々がたくさんいたはずで、感謝の意を表せないのは残念である。しかし私を襲った犯罪者がひとりいた可能性は捨てきれない。(ちなみに一か月後、雲南省保山で、夜、さまよって裏通りを歩いていたとき、二人組の暴漢に角材で殴られ、ふたたび負傷し、地元の病院に入院している。苦難の連続だった!)

 

*なぜこの地域(広西チワン族自治区北西部)に私がいたのか、説明すべきだろう。中国全土に高速道路網ができたいまも、この地域は「高速化」の恩恵を受けていない過疎地区である。幹線道路といっても、当時はめったに車が通らない山道だった。この田舎幹線道路沿いに小さな村があり、道路の脇にホテルとは呼べそうにない宿があった。ここに宿をとったのは、森を歩いて抜けて30分のところにある山間部の村を訪ねるためだった。前年に私は一度やってきていた。そのときは入院した病院のある町の滞在許可証を得ていたが、今回は取得に失敗した。許可証がないので、一晩泊まって翌朝早くに出発する予定だった。

この村のヤオ族の祖先は昔日本からやってきたという奇妙な伝説を持っていた。そのことをたしかめるために来ていたのである。「われわれ日本人はどこから来たのか」というテーマについては論議を尽くしてきたが、「どこかの民族は遠い昔日本からやってきた」なんていう話は想像すらしていなかった。たしかに人々の流れは一方通行ではない。日本へ流れついた人々もいれば、出て行った人々もいるはずだ。

前年の秋、村長さんからいろいろと話を聞くとともに、簡単な語彙の聞き取り調査をおこなっていた。語彙調査から彼らの言語がミャオ族の言葉に近いことがわかった。といってもミエン語系はミャオ語といってもよく、ミャオ族とヤオ族はときには区別しがたかった。ヤオ語、ミャオ語は日本語と近いとは言えなかったが、文化風習(稲作文化)は日本ととても近いのではないかと思う。日本で電車に乗って見回すと、私の目と直感からすればヤオ族系、ミャオ族系の顔つき、体つきをかならず発見する。しかしそれは何千年もの間、揚子江エリアからヤオ族ミャオ族の祖先が日本へ渡ったからだろう。

 村長さんによると、昔、民国の学者がやってきて、日本からの渡来説について検証していたという。もしかすると民国(中華民国)の陰謀と関係があるのだろうか。村長さんは民国を強調していたが、要は、共産中国はこのことについては関知していないということだろう。

 村長さんは独自の見解を持っていた。この村のヤオ族は祖先が東京(とうけい)から来たという伝承を持っていた。東京とは、『東京夢華録』(宋代)で知られる開封のことである。この「東京からやってきた」が「日本の東京からやってきた」になったのではないかと村長さんは主張した。私はあまりのばかばかしさに滅入ってしまった。しかしそもそも民国の学者がそんな荒唐無稽な説を信じるだろうか。ということで、私は祖先が日本からやってきた説をまだまだあきらめていないのである。でもそれをたしかめることはできなかった。

 私がこの寒い時期(来るとき、バスの中から樹氷を見た)に来たのは、春節の頃の儀礼が見たかったからである。銅鼓文化のなかにあることを物語る興味深い儀礼が毎年行われた。銅鼓文化はベトナム北部から中国西南部に広がっていたので、ここはその地域内にあった。まず巫師(シャーマン)が占ってある地点を決め、そこを掘って銅鼓を埋めた。そして翌年それを掘り出し、さまざまな儀礼をおこなった。古代日本においても、銅鼓ではないが、銅鐸をよく土に埋めた。銅鼓にも銅鐸にも地神を鎮めるような役割があったのではなかろうか。

⇒ つづく