個々の自己はけっして死なない 

アディ・ダ・サムラージ 宮本神酒男編訳 

 

 医学的に数分間死んだのち蘇った人々の「体験」の最近の研究はひとつの新しい文学のジャンルを生み出すほどである。この文学には「死後体験」のレポートが山のようにたくさん含まれている。この現象は人が死ぬときに何が起こるのかというプロセスを示す指標としても使われるようになっている。

 とはいっても、それは個人的な自我が不滅であるしるしとして「死後体験」現象が評価されるにすぎない。「体験」について研究をしたり書いたりする人々は、死というものが「自我であること」(
egoity)を超越するプロセスであることを正しく理解していないようだ。このプロセスのなかで、分かれている「自己」と分かれがちの「自己」(あるいは自我のようなもの、egoic)は程度の差はあれ消えていくのだ。

 「死後体験」現象はそれゆえ「自我のようなもの」の存続のしるしではない。むしろそれはありきたりの「自己」の変容、すなわちパーソナリティのさまざまな面の消滅であり、あらかじめ知ることのできない状態への移行である。それは存続というより何かが脱落するしるしである。

 しかしながら死のプロセスを完了せず、意識を取り戻したとき、人々は彼らが出会った現象を確固としたものにしようとし、それが自我の存続を意味すると解釈するだろう。そのような人々はいまやっと気が楽になったと言うかもしれない。なぜなら彼らは死をまぬかれ、生きのびることができたのだから。彼らは死後の世界があると信じて疑わない。人間はこの世界を超越してほかの世界へと行くことができると。

 だがこの「体験」と彼らが報告するヴィジョンは、死のプロセスにおいて肉体からエネルギーと意識が失われていく間、脳の中枢が刺激を受けたことから起こる幻影の現象として正しく認識すべきである。これらの「体験」は、典型的な神秘主義者にとってそうであるように、どんなに慰めになろうと、どんなに崇高であろうと、自我意識のなかに形成されるものにすぎないのだ。

 しかしながら偉大なる霊的な智慧にとって、真の「自己」は非・自我であり、自ら存在するものであり、自ら輝く聖なる存在(あるいは究極のアイデンティティ)であること、つまり自己意識と自我アイデンティティの現象の場で自ら状況を整えるもの(そして状況の源となるもの)であることはあきらかである。生や死の現象的なできごとに訴えかけたところで、本性と存在は証明されない。

 聖なる存在は、昔からやってきたように、自我のようなものの「自己の証明と客体の差異化」を超越することによって、はじめて理解されるのである。

 しかし意識(それそのもの)の真の、第一の性質は、人々が「体験」を土台に置いて仮定してしまいがちなものとは異なっている。生まれたるものがしがちなことは「自己・アイデンティティ」の感覚を仮定することである。

 だがこの仮定は現象の上面をもとにしたものである。生まれ出たものであるあなたは「身体・心・自己」という関係性が存在すると考えるだろう。この「自己」は物質的な自己である。理解していない状態では(悟っていない状態では)意識そのものは――それはまさに感覚の場である――具体的にあらわされるそれそのものをとらえることになる。それはそれそのものを「私」と呼び、それそのものを身体的な「自己」と同一とみなすだろう。

 メンタル面の現象は同様に解釈されて、意識そのもの(実際において、超越的で、生得的で、霊的で、自らあきらかにする聖なるもの)は、自我の意識と思考の流れによって限定的になっている、あるいは等しいと考えられている。

 自我は実際のところ存在しない。意識そのものがあきらかになるメカニズムが存在するだけである。現象だけが存在するのだ。すべての起こるものの本性は、あきらかに個人的な、意識するものを含むが、超越的で、生得的に霊的で、自らあきらかにする聖なるものである。すべての現象的存在の自ら状態を保つ聖なるものであり(状況の源、あるいは母体であり)それは独立した、限定的な存在ではない。意識そのものは現象的なあらわれそのものでは定義することができないのだ。


(つづく) 

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