アルタイ・ヒマラヤ旅日記 

1 インド 

 シナイはすべるように動く。ここはアブラハムの井戸。あそこは「十二使徒」、狂信的な小さな島々。そこはジェッダ、メッカへの入り口。汽船上のモスレムは東に向かって祈っている。ピンクの砂浜の向こうに彼らの聖地が隠れている。右にはヌビアの領域が古代建築物の軒蛇腹(コーニス)のようにそびえている。割れてサンゴ礁に乗り上げているのは難破した船の船体だ。アラビア砂漠の砂嵐のように紅海は無慈悲である。夜になるとストロンボリ火山は脅しをかけ、警告を発するが、それも無益ではない。しかしいまは冬であり、紅海は青く、暑くない。イルカは狂ったように陽気に跳びはねる。妖精のような地形のアラビア湾、そしてコリヤ・モリヤ、モリヤ(マハトマ)の地へ。

 日本人はピラミッドを訪ねる機会をのがさない。この国は時間の無駄使いをしない。すばやく、てきぱきと双眼鏡を動かしている。そして根気よく質問を発する。余計なものは何もない。これは疲労したヨーロッパの無駄なツアーではない。「さあ、私たちはようやく理解に達したようですね」と日本人はいかなる感傷も見せずにビジネスライクに言う。そしてこのビジネスライクな態度が協調の保証になるのかもしれない! 

 カイロのモスクに7歳か8歳の少年が坐っていて、歌うようにコーランを読んでいた。少年の涙ぐましいまでの努力に気づかずに通り過ぎることはできなかった。そして同じモスクの壁には厚顔にもナポレオンの砲弾が埋まっていた。同じ帝国の征服者は偉大なるスフィンクス像を破壊した。
 もしエジプトのスフィンクスが損傷を受けたとしても、アジアのスフィンクスは大いなる砂漠によって守られることだろう。アジアの心の宝物は保存され、その時代がついにやってきた。

 古代セイロン――ラーマーヤナのランカ。だが宮殿やパゴダはどこに? 奇妙なことだ。コロンボでわれわれはスイスの領事と会った。警官はアイルランド人だった。フランス人の行商人がひとり。ポストカード売りのギリシア人。お茶を売っているオランダ人。イタリア人おかかえ運転手。シンハリ人はどこにいる? みなヨーロッパに移住してしまったのか? 

 コロンボ郊外のケーラニヤ寺院に行くと、ブッダやマイトレーヤの最初期の姿を見ることができる。力強い像たちは寺院の薄暗がりのなかで守られている。ヒナヤーナ(上座部仏教)は、無数に分かれてマハーヤーナ(大乗仏教)となる前の哲学の洗練性と純粋性についてプライドを持っている。寺院近くの修復された偉大なストゥーパはここが仏教の基礎を形成した場所のひとつであることを思い起こさせてくれる。しかし結局はコロンボやセイロンがハヌマーン、ラーマ、ラヴァナ、その他の巨人たちを思い起こさせてくれるとうああしても、それらは断片にすぎない。

 仏教にとってセイロンは重要な場所である。たくさんの寺院や宮殿が教えの最良の時機の断片を守ってきた。よく知られている遺跡の外側のエネルギーあふれる密林の下に、数えきれないほどの、思いもよらない宝物が埋められている。土の上に残されたものを見れば、かつてここに輝かしき時代のパワフルな都市があったことに思いをはせるだろう。あなたはその場所を探す必要はない。それらは自ら自己主張するだろう。しかし大きなスケールで調査が行われたときのみ、それは結果をともなうことになる。人はそのような遺跡に近づくとき、万全の準備を整えなければならない。というのも、一つの宮殿あたり900もの部屋があるというのだから。セイロンはかくも重要な場所である。

 甘辛山ことラヴィニア(Lavinia)近くの大衆浴場は、古代巨人族の住む地域があったことを物語っていない。ほっそりした棕櫚椰子は恥ずかしそうに腰をかがめて潮のしぶきを浴びている。アヌラーダプラの遺構が骨組みばかりの姿で立っている。考えてみよ、アヌラーダプラが十分に調査されていないことを。アダムス・ピークにはそそられない。アヌラーダプラの遺跡によって人はジャワのボロブドゥールがいかに圧倒的かがわかろうというものだ。

 そしてまた仲間の旅行者たちの顔が滑走する。あの日本人とともにわれわれはカイロのピラミッドの名残を見て涙する。それらはさまざまな歴史を経て、慳貪なガイドがいる骨董品博物館の展示物となったのだ。

 本当にインド? かすかな岸辺のラインが見える。やせた小さな木々。かさかさの土壌の裂け目。インドは南側に関してその顔を隠している。黒いドラヴィダ人たちはヴェーダもマハーバーラタもわれわれに思い起こさせない。

 マドゥラ(マドラス)はドラヴィダ人の遺跡で町中がさまざまな色に染まっている。その生命体の中核となる神経叢は寺院周辺である。寺院の通路にはバザール、中庭、講釈師、ラーマーヤナの吟遊詩人、ゴシップを話す人、自由に動き回れる象があった。そしてラクダの宗教的な行列がつづいた。創意工夫に富んだ寺院の石の彫物は、現代的な趣味の悪い色に染められようとしていた。芸術家のサルマはそれを知って嘆いた。しかし町の役人たちは彼の言葉に耳を傾けようとせず、プラン通りに寺院を彩色した。サルマは理解が得られなかったこと、そして冷淡に扱われたことをひどく悲しく思った。

 彼はわれわれにヨーロッパの服装のまま遠出をしないようにと警告した。なぜなら住民の一部は外国人に対して敵愾心を持っているからだという。サルマはヨーロッパやアメリカで芸術家がどういう状況に置かれているかを知りたがった。欧米の芸術家が作品をつくることによって生活が成り立っているということを聞いて彼は純粋に驚いていた。芸術が生活の糧となっているということは彼にとって理解しがたいことだった。芸術家という職種はもっとも利益を生じにくいものと思われたのだ。芸術品収集家という概念も彼の中にはないようだった。背の高い彼は、白い衣に身を包み、静かに、悲しそうに話をした。彼はよりよい何かを待っているようだった。そして現在背負っている重みを知っているようだった。

 もともとタゴールと会う可能性はなかった。しかし人生では奇妙なことが起こるものだ。ロンドンで詩人(タゴール)のほうからわれわれを見つけてくれた。そしてアメリカはニューヨークで、彼と会うことができた。彼はボストンでジョージ(ニコライの息子)と会っている。しかしインド本国では会う機会がなかった! われわれはボールプルに行く機会がなく、タゴールもカルカッタに来ることはなかった。彼は中国へ行く準備で忙しかったのだ。

 たくさんの奇妙なできごとがあった。カルカッタでわれわれはタゴールを探していた。地元の都市なので彼の名は隅々まで知れ渡っているだろうとわれわれは考えていた。われわれは車を雇って、詩人のタゴールの家に行くよう告げた。3時間ものあいだ車に乗って市内を探し回ったが、行きつくことができなかった。最初われわれはマハラジャ・タゴールのところに連れていかれた。それから100人の警官と物売りと通りがかりのバーブ(旦那)によって、われわれはもっとも小道が込み入ったエリアに送り込まれることになってしまった。最終的に6人のボランティア・ガイドがわれわれの車にしがみついていた。そしてこうしてあわただしくしているとき、ふとタゴールの家があるドワルカ・ナート・タゴール・ストリートという名を思い出した。

 タゴールがノーベル賞を受賞したとき、カルカッタから代表団が彼のもとにやってきたという。しかし詩人は鋭く彼らに聞いた。
「あなたがたは以前、どこにいましたか? 私は以前とおなじ人間です。ノーベル賞が加わって私は変わるのですか?」タゴールに敬礼! 

 われわれは友人タゴールの親戚とも会った。ベンガル流派の首席である芸術家、アバニンドラナート・タゴール、すなわちラビンドラナートの兄弟。ゴゴーネンドラナート・タゴール、詩人の甥で芸術家であり、ベンガル芸術家協会の秘書である。彼はいまモダニストの模倣を試みている。輝かしき芸術家クマル・ハルダルは、ラクノウの学校の理事である。ヒンドゥーの芸術家の生活は厳しかった。この茨の道をあきらめないでやっていくためには、不屈の精神が必要だった。インドの芸術家に敬礼! 世界中の国々の科学者や芸術家の生活はどうしてこうも不安定なのだろうか? 



(つづく)