(20)武装闘争集団はコンゴへ 

 のちにバジラのあとをつぐのはジャミル・ムクルである。彼はデイヴィッド・スティーブンとして、ウガンダのキリスト教徒の家庭に生まれたが、若いときにムスリムに転向している。彼はサウジアラビアで学び、サラフィー主義というイスラーム原理主義に感化されたとされる。サウジアラビアからアフリカに戻ってくると、UMSC(ウガンダ・ムスリム最高評議会)と彼が属するタブリク派の闘争に巻き込まれてしまった。

 1991年、彼はタブリク派の民兵とともにカンパラ旧市内のUMSC本部を襲った。そのために1995年まで刑務所で過ごすことになった。出所すると、彼はウガンダ政府と敵対する亡きバジラが組織したNALU(ウガンダ国民解放軍)に入った。NALUの司令本部はルウェンゾリ山地にあった。

 NALUはウガンダ人民防衛軍(UPDF)の攻勢を受けて、コンゴ領内に追いやられる。1995年、スーダンの工作によって、コンゴのキブ湖北方で、NALUの残党は、ウガンダ・ムスリム解放軍やブガンダ君主制民主主義連合と合流し、ADF(民主同盟軍)を結成した。ジャミル・ムクルは自身をその最高司令官に指名した。


 1996年から2001年までの間に彼らはコンゴ国内でテロ活動をつづけ、およそ1000人の民間人が死亡し、15万人が家を失ったとされる。また何百人もの子供を誘拐し、彼らをこども兵士に仕立て上げたことで、悪名が世界にとどろいた。

 ADFのメンバーはほとんどがウガンダ人で人口の16.5%を占めるブガンダ王国のバガンダ族とウガンダ東部のバソガ族から成っていた。なおADFの司令本部もルウェンゾリ山地内に置かれていた。

 2015年4月にジャミル・ムクルは捕まり、投獄された。1995年以来ムクルの副官を務めていたムサ・セカ・バルクが司令官代理となった。しかし2017年からISと関係を持つようになり、翌年にはISーCAP(イスラム国中央アフリカ州)として認められた。

 1962年にルウェンズルルが独立を宣言したときの国王(オムシンガ)はイサヤ・ムキラネだった。彼が3年後の1966年に亡くなったため、息子のチャールズ・ムンベレ(イレマ・ンゴマ)があとを継いだ。しかし国王の存在はしだいに有名無実化していく。1984年、彼は「教育のため」という目的で、ウガンダ政府によってアメリカへ送られ、ビジネススクールに通った。1987年、彼はアメリカに政治亡命を申請し、認められた。彼ははじめメリーランドで、のちにペンシルベニアで、看護助手として働いた。25年もの間、国王であることを隠して看護人の仕事をしていたのである。アフリカ系の看護人を見てだれが彼を国王と考えるだろうか。映画化されそうなエピソードだ。

 2009年7月、突然彼の周辺があわただしくなった。ウガンダ政府がルウェンズルル王国を認め、ムンベレを国王とみなしたのである。「国王の帰郷」が実現したのは2009年10月だった。

 しかし20161126日、カセセで、ムンベレの王室護衛隊とウガンダの警察が衝突した。ムンベレの護衛46人が殺され、ムンベレを含む180人が逮捕された。この衝突による死者は100人を超えたとされる。

20236月、反乱行為を自ら非難し、政府と和解することを条件に、ムンベレ国王と多くの護衛に対する告訴は、政府の恩赦の一環として取り下げられた。ある程度の自治は認められるとしても、分離独立につながる動きは許されないということが示された。ルウェンズルル王国の領土は、ルウェンゾリ山地を含む、コンゴ、ウガンダにまたがる広大な領域であり、その独立の動きは周囲にも大きな影響を与えた。




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