インドの占星術 

 チベットの占星術が中国の占星術以上に大きく負っているのが、インド占星術である。インドから枝分かれした占星術は、チベットではカルツィ(skar rtsi)、すなわち「白い占星術」として知られる。チベット語でインドはギャカル(rgya gar)、白い地(rgya dkar)と呼ばれているのである。*あくまで音が似ているのであって、綴りは微妙に異なり、意味も違う。たとえば同音だがdkarは白、skarは星。

 ヒンドゥー教の伝承によれば、占星術はヴェーダのひとつヴェーダーンガから分派したものという。これらはマハーリシたちの古代の教えである。マハーリシたちは霊的な力を駆使して創造神であるブラフマーと接触し、聖なる科学の手ほどきを受けた。リシたちは人類の利益ために教えを広めた。

 歴史を俯瞰すると、紀元前三千年期にはインダス谷のモヘンジョダロにきわめて進んだ文明が花開いていた。この非インド・ヨーロッパ語族文化は、メソポタミアのシュメール人との定期的な交易を享受していた。考古学的遺跡から発掘された多数の発掘物がその証拠である。この時代以降、この二つの文明の中心地のあいだで進んだ概念がぐるぐると回ったことだろう。

 インド占星術がメソポタミア占星術特有のゾディアック(黄道十二宮)を採用していることから、インドとの文化交流があったことがわかる。このようにインド占星術は十二黄道、十二宮を使っているが、このデカン(36の星座グループ)は、エジプト、メソポタミア、ギリシア、インドに共通している。インド占星術と西洋占星術はおなじ起源をもつが、西欧のシステムとは対照的に、インド占星術は初期の恒星をベースとした固定的なゾディアックに忠実である。

 インドもまた早くから中国と接触してきた。中国暦の28の「宿」とヴェーダで言及される27か28のナクシャトラスのあいだにはたしかに関係があった。中国の「宿」は紀元前二千年期の帝堯の時代には知られていた。この2つの体系は異なる天文学的概念によって分かれる前に、同一の起源をもっていた。28の月の星宿、すなわち28のメナズィルはのちにイスラム世界に広がった。インド占星術はまた、月の交点であるラーフとケートゥを重要視する点において中国占星術と共通していた。ラーフとケートゥは中国における竜の頭と尾だった。

 インドの占星術は、分化したゾディアックや、支配者や惑星の強さを計算するための、洗練された計算大系など、驚くほど正確なテクニックを発展させてきた。

 インド占星術は、さまざまな時代に、さまざまな形でチベットにやってきたのは疑う余地がない。シヴァ派のカシミールに近接し、交易のための隊商が行き来し、インド人大師も頻繁に巡礼の旅をしたはずである。すでに見たように、ボン教徒はインド占星術の原理に慣れ親しんでいた。チソンデツェンの時代に翻訳されたスートラやタントラのなかにも占星術の元素は含まれていた。

 インド占星術は仏教式ながら、チベットにおいてその体系が確立されている。カーラチャクラ・タントラの導入部にはそのことが記されている。