カーラチャクラ 

 カーラチャクラ(dus kyi ’khor lo)は「時の輪」という意味である。これはたんなる天文学の論考ではなく、タントラのなかでも至高の、不二なる無上ヨーガ・タントラに属するタントラの教えと実践の完璧な体系なのである。

 カーラチャクラの教えには3つのステージがある。「外のカーラチャクラ」では、世界と外的現象について論じられている。それはダイナミックな関係、すなわち宇宙の現象と時間の中の変移の相互作用における宇宙の元素の研究にとくに注意を向けている。

 タントラは宇宙論、年代学、そしてすべての占星術的計算について論じ、宇宙の配列と構造、惑星、星座、太陽系を描写する。インド占星術の科学全体が、その原理や応用とともに述べられている。

 「内のカーラチャクラ」では内的現象、とくにヨーギの身体の微細な作りについて論じられている。微細な脈管(ナーディ)の本質と機能、輪あるいはエネルギーの中枢(チャクラ)、それらのなかを巡回する内なる風(プラーナ)、エネルギーの精滴(ビンドゥ)について詳細に述べられている。脈管の中を巡回する風や、内なるエネルギーの中枢は、星や惑星の宇宙エネルギーと関連づけられる。

 身体はこれら微細な構造の基礎である。それゆえ完全なる宇宙、つまりマンダラとみなされる。すなわち四肢、器官、中枢(チャクラ)は聖なる場所であり、神々の棲み処なのである。この神々はわれわれの内なる元素、情熱、感覚的な気づきなどにほかならない。言い換えるなら、原初の純粋な状態における精神と肉体の構成要素のコンビネーションである。このコンビネーションこそ、ダイヤモンドの身体(ヴァジュラカーヤ)として知られるものである。

 カーラチャクラの最初の2つのステージは外の宇宙、すなわちマクロコスム、また内の宇宙、すなわちミクロコスモとされ、占星術と対応すると考えられる。覚醒に達するために、つまり悟り(Buddhahood)を得るために、ヨーギは外であろうと内であろうと、知覚全体を浄化させなければならない。

 「代わりのカーラチャクラ」は汚れた知覚を浄化する方法を描く。これらの方法を実践する前に、ヨーギは十分に能力のある師匠から「力の転移」あるいは「イニシエーション」を受け取らなければならない。このようにして彼は、カーラチャクラ神のなかに具現化する「覚醒のエネルギー」と接する位置に置かれる。そうして彼は2つの補完的なシステムにしたがい、実践に身を捧げる。

 

 創造の段階(生起次第 kyerim)において、実践者は観想し、それを視覚化する。そのなかにマンダラ、すなわちカーラチャクラの純粋な領域が出現する。彼自身がカーラチャクラの聖なる衣をまとい、装飾を身につけ、マンダラの中心を占める神カーラチャクラとなる。彼はこのようにして知覚を浄化し、徐々に聖なる知覚を発展させていく。そのなかですべての生きるもの、すべての現象、そして世界は「空」の輝ける現れである。実践の中心で、ヨーギは神のマントラを唱え、神の言葉の力を活性化させる。

 完成の段階(究境次第)において自身を神として観想しながら、彼は脈管、風、精滴のヨーガを実践する。この実践によって彼は内なる元素を変容させ、至福と空が合一する境地、すなわちマハームドラー、「大いなる印」を理解するようになる。

 

 カーラチャクラの歴史とそのチベットへの到来はけっして単純ではない。伝承によると、カーラチャクラの根本タントラは、シャンバラ国王のスチャンドラの要望にこたえて、ブッダ・シャキャムニ本人によって説かれたという。その場所は南インドのダーニャカタカのストゥーパで、第三月の満月の夜のことだった。そのとき8歳のブッダがこのタントラを教えた。

 覚醒した力のボーディサットヴァ、ヴァジュラパーニの化身であるスチャンドラ王は彼自身の王国に戻り、最初の論考(カーラチャクラ・タントラ)を書いた。のちに最初のシャンバラのクリカ王マンジュシュリーキールティは凝縮した論考(ラグ・カーラチャクラ Laghu Kalacakra)を書き、彼の息子クリカ・プンダリーカは敷衍した論考「清浄な光」(Vimalaprabha)を書いた。このように、カーラチャクラの教えはシャンバラの住人のあいだに広がっていった。

 多くの旅人や神秘主義者を放浪させることになった神秘の国シャンバラとは何なのか? これと関連してふたりの輝かしいカーラチャクラの大師を引用しよう。現在のダライラマ法王テンズィン・ギャツォはこう述べられる。

「シャンバラはこの地球のどこかにあるのだが、心とカルマがきよらかな人のみがそれを見ることができる」

 言いかえるなら、人は北アジアのどこかにシャンバラを特定することができるかもしれないが、それは一種の浄土であり、到達できるかどうかはヨーギの感性の純粋性次第ということなのである。このように、パンチェンラマ3世の「シャンバレ・ラムイク(シャンバラ道案内)」は肉体と精神両者が同時に行ける道を描いている。この書にはつぎのように書かれている。

 

 肉体でもってこの地(シャンバラ)へ行きたい者は、徳の強さとタントラの知識を持った者でなければならない。そうでなければ、ヤクシャ(夜叉)やナーガ、その他おぞましい魔物たちに道中襲われることになるかもしれない。

 

 これらの道中の魔物たちは、感情の汚れや過度な情熱など、われわれの現在の進歩の妨げになっている障害物の象徴である。

 シャンバラ王国がどう描かれているかについては、ケンポ・カル・リンポチェの文章を読もう。

 

 この神(カーラチャクラ)の国は世界の北に位置している。偉大なる都市、都がそこにある。それにつづく町の数は960万にものぼる。これらの全体がシャンバラと呼ばれる。周囲は雪を冠った山々にかこまれている。この地域に神聖なる者が、途絶えることのない国王という人間の姿をとって存在する。この国王たちが多くのダルマ、とりわけカーラチャクラの教えの法輪をまわす。このおかげで、数えきれないほどの弟子たちが解脱への道を確固として進む。

 

 スチャンドラ王を含む7人の偉大なる王のあと、クリカ王の王統が確立された。目下のところ、1927年に玉座に就いた21代目クリカ王マガクパがシャンバラを治めている。彼のあとを周期17年目の「火・羊」の年(2027)に継ぐと目されているのは、ミイ・センゲ(Mi yi Senge)である。

 法輪を持つ者ルードラである第25代目クリカ王ダクポ・コルロ・チャン(drag po khor lo ’chang)の治世のもと、2425年、地球上のネガティブな勢力とシャンバラとの間で大いなる戦争が勃発すると予言されている。クリカ王の勝利は地上に新しい繁栄をもたらし、ブッダの教えはそのあと1800年、また花開くことになるだろう。この期間の終わりに、つまりブッダの涅槃(パリニルヴァーナ)から5014年目、教えは衰亡するだろう。これがシャンバラ王国とわれわれの世界との関わりの物語である。

 10世紀、インド人大師チルパはシャンバラ王国をめざして出発した。旅の途上、彼はマンジュシュリー(文殊)の化身と出会った。マンジュシュリーの化身は彼に、カーラチャクラの教えとその論考の書を与えた。旅から戻ると、966年までに、カーラチャクラの教えはナーダパーダを含む彼の弟子たちによって、インド、ネパール、カシミールへと広がった。1024年にタントラをチベットにもたらしたのは、カシミールのソーマナータやアティーシャをはじめとするこれらインド人大師たちだった。

 現在チベットには3つのカーラチャクラ大師の法統が存在する。一つ目の法統はド(Dro)の法統で、タントラをチベット語に翻訳したド・ロツァワ(翻訳官)にはじまるものだ。この法統は最初、チョナン派に受け継がれ、のちにカギュ派によって守られ、今日に至っている。二つ目はツァミの法統と呼ばれ、3世カルマパとカギュ派によって伝えられてきた。三つめはラ・ロツァワにはじまるラの法統である。ラ翻訳官はネパールでサマンタシュリーバドラから教えを受けた。この教えはプトゥン・リンチェン・ドゥプ(12901364)に引き継がれ、サキャ派、ゲルク派、カギュ派のなかで花開くことになった。

 いまのわれわれの時代になり、ダライラマ法王とカル・リンポチェによって、世界平和を促すために、世界中で何度もカーラチャクラ・イニシエーションの儀礼がおこなわれていることを付け加えたい。しかしながら長いこもりの期間を要するレベルの高い、内、外のカーラチャクラの修行を実践できる者はそれほど多くはない。

 チベット占星術に与えたカーラチャクラの影響はきわめて大きい。インド占星術の要素だけでなく、中国占星術の原理も組み込まれていることは特筆すべきである。このように、1027年にチベット人が採用した60年周期は、インドのカーラチャクラの60年周期と中国占星術が溶けあったものなのである。