泣く魂 『暗闇に輝く女』より 

エレナ・アビラ 宮本神酒男訳 

 

 クランデリスモ(中米の伝統民間医療)について社会学者や人類学者が書いた本や記事を読むと、ススト(魂の喪失)が特定の民族の間でのみ見られる「土着の病」として言及されることが多い。あたかもこれらの人々には魂がないかのような言いぶりだ! しかし私自身の経験から言えば、心や精神が健全であるかどうかは、肉体だけでなく、魂が病んでいるかによって決まるのだ。

私が病院のような確固とした組織で働くのをやめた主な理由は、看護師として実践することが無意味に思えたからではなく、西洋医学が魂や心の診断、治療に十分な効き目がないからだった。魂に処方箋が施されないかぎり、身体、心、感情になされることには限界があるのだ。

 UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)で子供の性的虐待に取り組んでいたとき、病院側は私がクランデリスモの講義を持つことに好意を示してくれたが、患者の治療のために儀礼やスピリチュアルな方法を持ちこもうとすると、途端ににべもなくやめさせようとした。

隣人から性的虐待を受けていたメキシコ系の8歳の少女を治療したことがあった。少女は部屋の隅に押し黙ったまま坐っていた。彼女には統御不能な怒りに支配された状態と、緊張して硬直した状態とが交互に訪れていた。両親と話し合ったところ、彼らは私に「魂の取戻し」をおこなってくれるよう懇願してきた。彼らは娘がススト(魂の喪失)にみまわれたと判断したのである。それは実際に起こっていることだった。しかし病院側の診断は「外傷後ストレス症候群」ということだった。治療の一環として魂の取戻しをおこないたいと病院にそれとなく提案したが、「未知の治療法は患者の症状を悪化させる」として受け入れてくれなかった。彼らは魂の取戻しによって、患者を精神病に追い込むのではないかと恐れたのである。このように病院という枠組みのなかで、スピリチュアルな、あるいは魂の治療法を取りいれようとするたびに、意見の不一致が見られるという体験をたびたびすることになった。

 看護師として、またクランデラ(民間治療師)としてのわがキャリアで、わずか3度のみだが、医師からスピリチュアルな治療法を頼まれたことがあった。医師が私に依頼したのは、私がクランデリスモ(民間治療)と西洋医学の両方に熟達していることを知っていたからだった。

 一度呼ばれたときは、サンタフェ刑務所に収監されている暴力的で制御できない男の症状を見るよう頼まれた。男は刑務所付きの精神科医に、自分はエムブルハド(呪いをかけられた)と主張しているという。そしてこの精神科医は文化的信仰を尊重したいと考えていた。精神科医の看護師でもあるクランデラとして、私はこの患者を診るにはうってつけの人間だった。診た結果わかったのは、彼は呪いをかけられたのではなく、偏執狂的分裂症を患っているということだった。私は彼が語る問題点に耳を傾け、リンピア(一種の浄化の力)を与えた。

 私はつねづね西洋医学の医師とクランデロ(民間治療医)が協調して治療をすれば、大いなる成果が得られると信じている。西洋医学の知識経験によって、私は身体器官の病気の兆候を見ることができる。もし疑わしい発疹や乳房のしこり、高血圧が見られたなら、私は患者に医師を訪ねるよう強くすすめる。医者のところへ行って精密検査を受けるか、薬を調合してもらうほうがいいと考えるのである。もし患者がすでに医師の治療を受けていたなら、私は医師に電話をして話し合った。 

 しかし西洋医学の医師は、魂と霊的な心のことになると、手の出しようがない場合があった。西洋医学は科学として、20世紀におおいなる進化を遂げたが、人間性のケアという面にいては区分けされすぎてしまった。身体は医者のところへ行き、心は精神科医のところへ行った。魂と霊的な心は教会やシナゴーグへ行った。私の信念によれば、このように自分を分割することなどできないのである。もし真実と永続する善性を求めるなら、魂を置いて病院や医師の診察室から抜け出すことなどできないのだ。私は魂と精神を持って、行きたいところへどこへでも行くことができる。自分が肉体だけの存在でないことを知っているからである。

 たとえば、だれかが足の骨を折ったとする。それはたんなる骨折ではなく、ススト、すなわち魂の喪失と呼ぶべきものなのである。そのような状況下では、たくさんの個人的な弱みや気になることが湧き起こってくる。骨折によって体の自由に制限が加えられるとき、魂はそれまで享受していた自由を取り戻したいと思うものである。歩いたり、風呂に入ったり、服を着るといった単純で簡単なことが好きにできなくなる。パートナー(夫、妻など)や家族、友人の手助けが必要になったとき、無力感を覚えるかもしれない。また仕事を失うかもしれないとか、治療費用がどのくらいかかるか、心配でたまらなくなるかもしれない。骨折の具合によっては、ギブスをはずしたときどのくらい元通りになっているかわからないし、歩くのだってままならないかもしれない。つまり調和が失われてしまっているのだ。足にギブスをはめて、「すぐによくなるでしょう!」などと気休めを言っても仕方ない。患者の魂の苦悩と感情的な痛みは学べるものではないのだ。

 

 

心の本質 

 多くの人はsoul(魂)とspirit(霊的な心。この項では心と表記)を混同している。基本的に霊は、魂を害から守る外皮なのである。もし心が健康であれば、魂も健康である。われわれはどうしたら心を健康に保てるだろうか。わがアステカの教師たちの伝統的な教えによると、心とは、それが善かろうと悪かろうと、積み重ねて栄養分となったものの総計である。それはバランスが取れていようといまいと、われわれの感情から発生したエネルギーである。このエネルギーはわれわれの思考が作り出したものだ。心はまた、われわれの教育や意図の総計である。そして「大いなる心」と結びつけるものえある。強い心はまた、果実の表皮が腐敗や害虫から身を守るように、外部からやってくるネガティブな影響を緩衝する。

 われわれの心の状態によって、愛や友情が深まることもあれば、遠のくこともありうる。エネルギーに満ちた心も重く、澱んで、不快になることがあるだろう。不健康な習慣に浸り、不愉快な過去のできごとにとらわれていると、心は黴臭くなり、干からびてしまうだろう。人々はこうしたエネルギーからは離れていただろう。もしあなたの心が軽く、健康で、バランスがよければ、そして普遍的な「心」と調和しているなら、他者もわれわれのエネルギーや光に惹きつけられるだろう。いかに自身の心を注意深く扱うか、また意識的にしろ、無意識的にしろ、いかに人生の決断を下すか、そういったことが自分自身や家族、共同体、そしてすべての生きるものとの関係が健全に保てているかどうかということにつながるのである。

 あるアステカの祈祷の末尾はつぎの句で締めくくっている。

 ……それゆえ我ら、光と平和、愛、意識、調和を持てり 

 これら5つの要素のバランスの総計が、アステカ人が言うところの「第5の方向」なのである。調和を達成することこそが、心の強さと全体性を保つにおいて重要な要因となるのだ。調和を見つけるための第一の成分は、自分自身、自分自身のすべてを愛することである。われわれは自分自身を学び、その陰の部分までをも受け入れることを学ぶとき、それを判定したり批判したりするわけだが、ひいては生きるものすべてを愛することになるのである。もしわれわれが自分自身との調和を保つことができたなら、体内のバクテリアとも調和を保つことができ、身体の健康を大いに促進することができるだろう。

 魂はダイナミックに進化するものだ。それゆえその潜在的なものを取り出すためには膨大なエネルギーを要する。心を癒し、強さを保ち、調和を得るためには、全身全霊を傾けなければならない。これはつまり思考や行動に責任を持つということであり、傷をいやすことに全力をそそぐということである。そのためにわれわれは自分自身のことを思い出し、全体のより大きな構図を見なくてはならない。こうしたことによって光の心が作りだされ、それは聖なる「心」を発見する。実際にそれは神の光を見ることができ、それに引き寄せられていくのである。

 

 

片足で立つ 

 われわれにふりかかったトラウマ的なできごとから魂が回復できるかどうかは、魂が健全であるかどうか、魂が心をきちんと守っているかどうかにかかっている。もし強い心を持っているなら、どんな難局でも切り抜け、うまく困難を克服し、立ち直ることができるだろう。

 そのことがはっきり言える例としてあげたいのは、私が治療を施した、立ちあがり、しっかりと歩くことができないために傷ついていたふたりの場合である。ルベンという名の男性および妻のロサと会ったのは、私がクランデラとして一本立ちする前の80年代前半のことだった。ふたりは高校生のときに出会い、アツアツのカップルになった。ルベンは外交的な性格のハンサムなチカーノ(メキシコ系)で、ロサはふたりの子供を熱愛する褐色のチカーナだった。高校を卒業してすぐ、ルベンはベトナム戦争に徴集された。ベトナムに向けて出発する前に彼らは結婚式した。

 この夫婦に会ったとき、私は医大附属病院の精神病学の科長だった。精神科のナース・ステーションは胸ほどの高さの壁によって仕切られていた。そこへ「立っている高さ」で現れて、痛みの治療を求めて驚かせて喜んでいたのがルベンだった。いつもこうして私を驚かせたのは(オフィスはステーションの後ろにあった)彼がそこに立つことができないことを知っていたからである。彼は両足とも膝から下を失っていた。ベトナム戦争で仲間の兵士を救出中に失ったのだった。彼の上半身は人一倍強く、飛び跳ねるように体を揚げたので、私がいたところからは彼が両足で立っているかのように見えたのだ。

 ルベンは車いすが嫌いだった。しかしもっと嫌っていたのは彼自身の傷ついた体だった。その体に名誉勲章が授与されたわけだが、負傷する前、彼は身長180センチ以上のスポーツマンだった。彼はアメフトとバスケットボールの選手で、彼とロサが育ったカリフォルニアのビーチをはだしで走るのがとりわけ好きだった。彼はガッツがある人気の高いハンサムな青年だった。しかし負傷によってそれらはすべて失われた。鎮痛剤、アルコール、大麻の中毒患者になり、二度も自殺を試みた。

 私はルベンのことが気の毒で仕方なかった。彼の中毒や自殺願望をなんとかやめさせたかった。そして彼とも、妻のロサとも強い絆を結んだ。ロサは本当に驚くべき女性で、以前とおなじように夫を愛し、彼が坐っているときも、立ち上がるときも、つねにそばで助けた。とはいえときには困難に直面した。そんなときには私は夫婦間のカウンセリングをおこなった。彼は妻と子供を愛しているが、魂はベトナムで亡くしてしまったとも言っていた。スポーツマンとしての足を失い、それまでの自分ではなくなったと感じていた。彼は地元の退役軍人用の病院や私が働いていた病院の精神科に何度も入院していたが、われわれの治療によって彼の症状が改善しているようには見えなかった。彼に必要だったのは、壊れた心を癒すことだったのだ。しかし現代医学においては、その種の治療をおこなう理解の土壌もなければ、場所もなかった。私はそのことをわかっていたので、病院の方針にはずれない範囲内で全力を尽くした。それでも努力が十分に尽くされていないのではないかと懸念した。

 ある晩、家でベッドに就く準備をしているとき、電話が鳴った。泣きじゃくっているので、それがロサだとわかるまでに少し時間を要した。その日の午後、ルベンが銃で自分の頭を撃ち、自殺を遂げたと言っていることがようやく理解できた。ロサは私にリンピア(浄化儀礼)を行ってくれないかと懇願した。彼女は私のクランデリスモに関するレクチャーを聞いたことがあった。藁にもすがるように、激しい悲痛を和らげる方法を探していたのだ。どうやって私の電話番号を知ったのかはわからない。彼女と個人的に会うことは、病院の規則に反していた。しかし私は悲しみのあまり窒息しそうな彼女を置き去りにするなど、とうていできなかった。私は彼女にわが家へやってくるよう言った。

 ロサがわが家に着いたとき、彼女が信じがたいほどひどい状態にあることを悟った。彼女からはマリファナの匂いがし、酒くさくて、彼女は千鳥足で歩くありさまだった。彼女は絶望の縁に追いやられていて、私もどうすればいいかわからなかった。ルベンの死に私もススト(責任)を感じていた。ナース・ステーションでのことを私は思い出していた。彼は肘で自分の体を支え、立っているかのように見せかけていた。このがっちりした体格の男がもういないなんて、信じられなかった。

 喪失感を覚えながら、聖句をつぶやきつつ、ロサに坐ってこちらを見るように促した。そして目を閉じ、深呼吸をするようにと言った。私はコーパル(天然樹脂)を焚いて、彼女のまわりにヒーリングの煙をめぐらせた。それから私は自分の目を閉じ、彼女の手を取って、話しかけた。

「ロサ、あなたはだれよりもルベンのことを知っていたし、愛していた。いま何が見えるか教えて。ルベンは何をしていますか」

 彼女の両頬に涙が伝わった。それから顔に笑みが広がった。

「ルベンは故郷にいます」とささやくように言った。「浜辺です。砂の上についた足跡が見えます。彼は砂の上を歩くときの感触が好きなんです。彼は解放されました。足をめいっぱい使って走っているのです」

 私は創造主にその存在と導きを感謝しながら、彼女を支えて悲しみを吐き出させた。ルベンがよりよい場所にいることを私たちはわかっていた。ルベンの心が足を失い、歩き、走り、堂々と立つ能力を失った歎きから魂を守れなかったことに思いをはせ、私は悲しくなった。しかし彼女はルベンを深く愛していたので、いずれ夫を解放してあげることを知っていた。

 

 マイクには異なる話があった。52歳のチカーノであるマイクはリンピアをやってほしくて、最近何度も私のもとへやってきていた。というのも彼は仕事をクビになり、新しい仕事を探すことができなかったからである。34歳の彼の妻、リンダも同様だった。この夫婦には強い絆と愛があり、お互いと子供たちのために身を尽くすことができた。彼は32年間銀行で働いてきたのだが、リストラによってあえなく切られてしまったのである。彼は55歳になるまで年金を受け取ることができなかった。

 新しい職を探しても採用されず、彼のなかに怒りと拒絶の感情が高まってきた。マイクは生後6か月のときに小児麻痺になり、5歳になるまで歩くことができなかった。彼は左足をひきずりながら歩き、家具にもたれて立っていたのを覚えていた。7歳のとき彼は2年間に及ぶ治療を受けた。一日に2度、不自由な足に電気ショックを与え、弱った筋肉を刺激するという治療法である。この方法は激しい痛みを伴ったので、彼はいやでたまらなかった。その間、弱って萎縮した足を支えるため、足輪をはめなければならなかった。クラスメイトの子供たちは面白がって彼が足をひきずるのをからかったので、いまも彼はコホ(びっこ)という言葉を聞くと怒りの感情が湧き上がるのを抑えきれないのだ。

「ケンカばかりしていました。からかわれると、殴りかかっていきました。止められなかったら、殺していたかもしれません」

 マイクは足が不自由だった子供時代の大半を州立病院で過ごし、手術も何度か受けた。彼が受けた手術の多くは実験的なものだった。そしてそれぞれの入院の平均的な期間は3か月だった。その間彼は家族から引き離されることになった。というのも病院は彼の家があるニューメキシコ州トゥクムカリから数百マイルも離れていたからだ。

「はじめて入院したときのことをよく覚えています」と彼は語った。「ママと2週間会えなくて、泣いてばかりいました。さみしかったし、痛みもあったのです。看護婦は言いました、赤ん坊ひとりだけが泣いているって。もし泣き止まなかったら、暗い部屋に閉じ込めるって脅すんです」

 マイクは足首の高い黒靴をはき、重い足輪をはめなければならなかった。これを取り除いたのは、21歳のときである。

 マイクにとって「ぴったし」は決定的だった。彼は松葉杖で学校までの2マイル(3キロ余り)を歩くことができたので、言い換えれば友人といっしょに登下校できたということだ。野球の監督が彼にプレーをさせなければ、バットボーイになった。マイクはサクソフォンを習い、学校の吹奏楽団に加入することができた。しかしついていけないという理由で楽団のリーダーからマーチ(行進)に加えてもらえなかったときは、辱めを受けたように感じた。彼はコンサートで演奏し、フットボールの試合でもスタジアムで演奏することができた。

 マイクは体育の時間がもっとも困難だと感じたという。服を脱げば、ロッカールームでクラスメイトの目から自分の不自由な足を隠すことができなかった。彼はこの弱点を補うために上半身を鍛えねばならなかった。しかしながらどれだけ努力しても、標準的な丈夫さを維持するのがせいぜいだった。あるとき体育の授業で、彼はどうしてもチャレンジしたいと言って、クラスメイトとともにロープを登ってみた。しかし数フィート上ったところで降りられなくなってしまったのだ。あるときは、彼は友人たちといっしょに貨物列車に飛び乗ったことがあった。しかし飛び下りるとき、不自由な足のほうで着地しなければならなかった。彼はその一連の動きの中で、足輪を壊してしまった。水泳をするときは、彼は自分がノーマルだと感じた。しかしプールから出て、足をひきずりながら壁にもたれたときは、恥ずかしく思った。

 女の子とデートをする機会もそれほど多くなかった。しかしデートをするとなると、とてもおしゃれであることを女の子に印象づけようとした。彼は自分の姿の反射が靴の上に見えるまで靴をよく磨いた。またシャツやジーパンさえも折り目がきっちりつくほど糊付けした。

 十代の頃、彼は何度も痛みを伴う手術を受けたが、ときにはいいほうの足に手術も施すことがあった。いいほうの足とおなじ速度で悪いほうの足が成長することはできないので、医者はいいほうの足の成長を止めようとしたのだ。このことから彼は本来あるべき背より低かったのである。この頃から彼は痛みから逃れるため、酒を飲むようになり、痛み止めの錠剤を多用するようになった。

 マイクは20歳になったとき、一つ年下のリンダと出会った。

「彼女はぼくが出会ったなかでも、ベスト中のベストです」と彼は言った。「彼女がいとおしくてならなかったし、いまでもそうです」

 彼らは3人の女の子に恵まれ、神に祝福され、この上なく幸せだと感じた。彼が職を失うまでは。

 マイクが経験した「拒絶」は彼の心の料金メーターを上げていった。訪ねてきたとき彼はこう言った。「ぼくは60の仕事に申請したのですが、ことごとく断られてしまいました。拒絶される理由はただひとつ、ぼくが身体障害者だからです。いつもずっとこういう思いをしてきたのです」

 リンダと子供たちは彼を支えてくれたが、最終的には妻に頼ることになってしまわないかと彼は心配した。彼の失業保険と彼女の常勤の仕事の収入、マイクが毎週末、楽団で演奏することから得るわずかな報酬でなんとか生活をしていた。マイクにっとっては十分というには程遠かった。終生こういう戦いを続けなければならないと思うと気が重くなり、不安は募る一方だった。

 マイクの内側にあるのは泣く魂だった。泣いているのは嘆くことが許されない魂だった。最後に会ったとき、度重なる入院や慢性的な痛み、仲間から受けた軽蔑、自分自身の陰の一面であるコホ(びっこ)に対する自己嫌悪の情などによってたびたび失われた彼の魂を取り戻す仕事に私は取りかかった。ルベンを思い起こしながら、私は創造主に、マイクが必要なヒーリングをおこなう手助けをお願いした。

 私はマイクに、52回目の誕生日とともにアステカ人が「最初の生命のサイクル」と呼ぶものを終えるよう指示した。この時点で選択の局面にあることを彼は知っていた。彼は妥協することも、あきらめることも、苦々しい挑戦として人生を見るのをやめることもできた。過去を癒し、埋めて、新しい人生を選ぶこともできるのだった。私はやんわりと、彼が仕事探しでトラブルにもまわれるのは、彼が過去に恐怖と憎悪の感情を抱いているからにほかならないことを示した。私はまた間違った場所で職を探していること、もう一度後戻りし、本当に何を欲しているか考え直すべきだということを伝えた。

 彼とリンダにルベンの話をしたとき、彼らは心を動かされたようだった。マイクはルベンを知っていたようで、こう私に言った。

「ぼくはいつも兵士になりたかった。戦士のなかに立ちたかった。戦えば、自分なりの方法で勝利を得られるのではないかと考えていた。ぼくの手術の経験はおなじような境遇の人々の手助けになると信じてきた。実際愛するお母さんはぼくのような境遇の人間の経験なしでは奇跡的に回復することはなかった。お母さんの手は関節炎で曲がったけど、いまでは指もまっすぐ伸び、とてもきれいなんだ。ぼくのような子供はいわば実験台で、子供の筋肉や靭帯、骨などについて医者は学ぶんだ」

 われわれはいっしょにプラティカ(心と心の話し合い)、リンピア(浄化)、魂の取戻しをおこなった。そうしてマイクの魂は強さと明晰さを得た。私のところへ喜んで来たマイクは、新しい「顔と心」を見る心の準備ができ、生きる決断をしたようだ。ルベンの霊は彼の足とともにベトナムに閉じ込められてしまった。ドラッグと酒が最終的に心に残っていた魂の破片を殺すまで、彼はびっこの心を持ってよろよろと歩いていた。

マイクは違う道を選んだ。そしてつぎの52年の人生にどう立ち向かうか心の準備ができている。彼は泣く魂のことを思い出し、心から恐怖と憎悪を解き放った。いま彼の両足は固い大地の上に立っている。

最近私はマイクから喜びのメッセージを受け取った。銀行のアシスタント・マネージャーの仕事を見つけたという。

 だれもがルベンやマイクのような人を極度に苦しめる経験をするわけではないが、病気になったりトラウマ体験をしたりするのが不可避であり、人間というものである。心を癒し、慈しみ、守ることができれば、私たちは逆境をはねのけて心の中に強さを発見することができるはずである。

(つづく)