孤高のアーウェン 

第1章 ドルイドの歴史 

 

 ドルイドの道を歩み始めるだれにとっても、ドルイド教の歴史を理解することは何よりも重要なことだ。宗教や哲学をよりよく理解するために、人はまず歴史的、文化的文脈を知らなければならない。このことを心に留めて、私はドルイドの歴史を簡単にまとめて紹介したい。さらに詳しい情報は巻末のレファレンスを御覧になっていただきたい。

 

ケルト人とはだれか? 

 ドルイドの歴史を知るためには、ケルト人の歴史を、また彼らがだれなのか、彼らがどこから来たのかを知らなければならない。最近はケルト人が紀元前4000年前後のインド・ヨーロッパ語族にルーツを持ち、ヨーロッパを移動してフランス、ブリテン、アイルランドに定住したという理論が有力になりつつある。大規模なケルト人の移住理論によれば、彼らはブリテンに到着したあと、ブリテンの先住民と出会い、彼らと戦争をしたり、婚姻関係を結んだりした。

 しかしほかの理論もある。それは先住民がより大きく、複雑な社会構造を成し、それに大陸のケルト人が流入して定住し、そこからケルトの文化や宗教が生まれ、ヨーロッパ全体に広がっていったというものである。この理論によればドルイド教はブリテンの固有宗教ということになる。二つの理論とも興味深いが、100%証明されたとまではいっていない。しかしブリテンへの侵略をともなう大規模な民族移動という説が有力のようである。

 ドルイドの歴史を解釈するのは、他の歴史と同様、勝者によって、あるいはケルト人と敵対する人々によってさまざまな形式で書かれているため、容易ではない。古代ケルトの人々は口承によって文化を伝えてきた。もしくは彼ら自身の声を伝える記録された文書を持たなかった。

 古典的な情報源はケルト人のことを野蛮人として、あるいはもう少し寛容で優雅な野生の民族として描いてきた。彼らは戦争で得た部族の名声をもとに築いたヒエラルキーについて記した。とくにもっとも強い男は部族を統治し、ほかの多くの部族も支配下に置いた。彼らはまた女戦士を評価し、男の戦士に負けないほど彼らが激烈で勇敢であると認めている。

 ドルイドは一般的に、神々や人に奉仕するケルト人の祭司階級であったと信じられている。彼らは法を作り、国王を選出するなど、ケルト社会の基盤において強大な影響力を持っていた。

 ドルイドおよびケルト人は、言葉を与えることによって統治していた。ひとたび与えられると、それらが無効にされるのを人々は忌み嫌った。評判が重要だったのである。ケルト社会では人が何と言われるかが肝心だった。名声こそが彼らの社会的地位に直結していた。この社会では強く、寛容で、勇敢で、賢く、正義であることが理想とされた。

 アイルランドにはすでに、生活の決まりであるブレホン法の萌芽のようなものが確立されていた。この法によって社会の基礎が形成され、キリスト教伝来以前に地元の法体系(17世紀にクロムウェルによって廃止されたという)が発達することになった。

 ブレホン法では名誉こそが重要だった。あなたの挙措はそれによって決定された。この法から逸脱するということは、氏族や部族、ひいては自分自身にとって不名誉なことだった。それには人々が従う倫理的な力も含まれていた。ブレホン法はじつに長い間、しぶとく存在し続けた。紀元前からはじまり、エリザベス1世の統治の時代まで生き残ったのである。

 ブレホン法は、部族や共同体に関連した管理、責任を含む生活のあらゆる側面から成り立っていた。キリスト教がアイルランドに到達した頃には、すでに病院が運営され、必要な人々の福利厚生は確立されていた。医療従事者は立ち居振る舞いの厳しい戒律を守っていた。殺人に対する血の賠償など、法に違反した場合の名誉の代償は相当に高くついた。個人の責任や真理の維持、奉仕、単純な常識といったものに関する法が制定された。

 

古典の、あるいはその他の情報源 

 紀元前58年から51年、カエサルはローマ軍を率いてガリア戦争を戦い、ゴール(ガリア)地方のたくさんのケルト王国や小国を征服した。新しい支配者たちの目に脅威に映ったのはドルイド階級だった。それで彼らはドルイドを社会から排除しようと考えたのだった。

 チベリウス帝は占いを行なう者や(大プリニウスによると)ヒーラーと同様、ドルイド教を禁じた。後世の哲学者や学者が見たところでは、かつて受け入れられたローマ文化と異なる多神教の神々を禁じたのはクラウディウス帝だった。この皇帝によれば「ローマ市民であると同時にドルイドであることはありえない」のである。

 カエサルは自身の著作のなかで、ドルイドはケルト社会の高貴な2つの階級のうちのひとつだと主張している。もう一つは騎士階級だという。彼によればドルイドは国王を支える勢力であり、すべてに関し、裁判官のようにふるまった。

 カエサルはまた、ドルイドが輪廻転生を信じ、天文学、生物学、神学に熟達していると記している。そしてドルイドの儀礼における人間の生贄についても、野蛮な行為として特記している。彼自身の文化である剣闘士のアリーナのことを考えると皮肉としか言いようがないが。現代の歴史家は、カエサルの記述にはバイアスが入っており、誇張され、不正確であるとみなしている。それらはケルトを征服したとき、それを正当化するために書かれたのである。

 ブリテンやアイルランドがキリスト教化されたあと、ドルイドについての言及の大半はキリスト教の修道士によるものだった。彼らは異教徒のケルト人に対して敵対的だった。ケルト人の文化や社会に関する彼らの知識には疑問をいだかざるをえない。

 しかしキリスト教が到来したあともドルイド教が完全に死滅したわけではなかった。多くの地域で2つの宗教が共存することになった。聖なる時節と場所が採用され、異教の下層の上にキリスト教の偶像と神学が置かれた。アイルランドや具利点にあったドルイドの学校はバルド(吟遊詩人)の学校に変わった。それらは17世紀まで、あるいはもっと後世まで残っていたと言われる。バルドの学校の多くは、キリスト教の僧院になったという仮説さえあるという。

 これらのバルドの学校は詩や歴史、神話学、系図学と同様に魔術の実践などを保持し、保存していた。しかしながら17世紀初頭の「伯爵の逃走」(アイルランド九年戦争のあと敗走した第二代ティロン伯爵ヒュー・オニールのこと)の目には、バルドの学校の保護が弱まり、消滅しかかっているように映ったようだ。「囲いの学校」を作ったのは、音楽や詩の形で教えを広げた、放浪するミンストレル(吟遊詩人)、あるいはこのカーストを著わすバルドだという説がある。

 

復活したドルイド 

 18世紀になるとドルイドが復活してきた。ジョン・オーブリーやジョン・トーランド、ウィリアム・ステュークリーの書いたものが人気を博した。

 オーブリーのストーンヘンジやエーヴベリーに関する理論や調査は、古代のドルイドと(不正確だが)関連した遺跡へのロマンチックな渇望を呼び起こした。

 トーランドはオーブリーから刺激を受け、その理論を金科玉条のごとく守った。

 ステュークリーもまたエーヴベリーやストーンヘンジの考古学に興味をいだいた。しかしながら、彼が参画したタイミングはやや遅きに失した感がある。古代やドルイドに関する好みが変わりつつあったのである。彼はのちに牧師になり、ドルイド教の森とメガリス(巨石)を統合して個人の生活に活用した。それらを用いて牧師館の庭を造ったのである。

 18世紀の終盤が近づく1781年、ヘンリー・ハールによってドルイドの第二の復活がはじまった。彼はロンドンのタヴェルナに、古代ドルイド協会を設立した。彼らはフリー・メイソンの理念をドルイド教の解釈に持ち込んだ。その一部は慈善事業や共同体のサポートなど、よいものだった。しかし一部は、家父長的理念に基づく男性のみの会合を開くなど愚かなものだった。

 ヨロ・モルガヌグとして知られるエドワード・ウィリアムスは、古代ドルイド教をもとに(と主張した)たくさんの詩文を著わした。しかしそれらの大半は彼自身が創出したものだった。美しく、感動させるものではあったが、彼の「偽造」があばかれたのは、彼の死から150年のちのことだった。

 19世紀の後半、『ケルトの薄明』の詩文とともに現れたのは、時代を先取りしたイェイツだった。これによって、ケルト全般の研究に対する興味があらたになり、古い文献の翻訳やケルト神話の採録が進んだ。これらはグレゴリー夫人やアルフレッド・ナット、ジョン・ライズらの貢献が大きかった。

 20世紀のドルイド教はロス・ニコルスやルイス・スペンスによって確立された。そして1960年代はじめには米国にもケルトに対する興味が広がった。一部の人々にとってドルイド教は魅力的な神秘主義だった。しかしながら仏教などの東方の文化とは違ったふうにとらえられていた。

 1980年代以降、フィリップ・カー=ゴム、フィリップ・シャルクラス、エマ・レストール・オールらの努力によってドルイド教はよりアクセスしやすい存在になった。それは「アップ・トゥ・デイト」なものとなり、情報や本が潮流のように押し寄せてくるようになった。地球上にドルイドをテーマとした本はあふれかえるほどに多くなったのだ。


⇒ ケルトのスピリチュアリティ