バガン壁画礼賛 バガンで途方に暮れる 
<ティーローミンロー寺院>(1) Htilominlo Paya  












⇒ ティーローミンロー寺院(2)へ 





 大半の資料を日本に置き忘れた私は、オールド・バガンから離れた場所で、参拝者でごった返す大きな寺院に出くわし、ひどく驚いた。あとで日本のガイドブックにも大きく紹介される有名寺院であることを知るのだが。寺院の基部は140フィート(46m)平方、高さが150フィート(49m)に達する巨大建築である。

 ティーローミンロー寺院は、ティーローミンロー王(在位12111234)によって建設された。その名の由来ともなった王位継承のエピソードが残っている。

彼は王子ではあったが、王位継承順位でいえばけっして上位ではなかった。しかし当時の国王(シトゥ2世?)は王子5人(彼と4人の兄)を集め、白傘が向いた者を継承者とすると発表した。白傘が彼のほうを向いたので、彼は新たな王に選ばれ、名をティー(傘)ロー(好まれ)ミン(王)ロー(好まれ)としたという。

 年代記は別のエピソードを記している。王は白い傘が彼のほうを向いた場所にこの寺院を建てたという。

 しかし碑文には、彼はナダウンミャ、すなわち「多くの耳の装飾をもつ者」として現れる。(Htilominlo aka Nadaunmya

学者によれば、ティーローミンローとは、パーリ語のティローカマンガラ(三界の祝福)のモン語訛りティロークマンゴーを誤読したものだという。モン人はバガン朝のビルマ人よりずっと早く、テーラワーダ(上座部)仏教を取り入れていた。

 上述の王位継承のエピソードは、常識的に考えてありえないだろう。バガン遺跡を見ればわかるように、バガン朝は強大な王国であり、当然王位継承をめぐってはドロドロした人間関係や争い、陰謀が渦巻いていたはずだ。

 「37のナッ神」で見たように、ティーローミンローの父である前国王ナラパティシトゥ(シトゥ2世)はそんな「生きるか死ぬか」の争いを勝ち抜いてきた王だった。ナラパティシトゥが軍の司令官の地位にあった頃、国王は兄のナラテインカ(ナラトゥ王、在位11701174)だった。

 ナラトゥ王は弟ナラパティシトゥの美人妻が好きになり、手に入れようと考えた。そこで弟に反乱軍の鎮圧を命じ、出征しているあいだに彼女を王妃としてしまったのである。怒ったナラパティシトゥはアウンスワ将軍を長とする精鋭軍をもってバガンを攻め、兄国王を殺してしまう。

 この血にまみれた王が継承者を選ぶときに、白傘が向いた方向にいた王子を指名するとは考えがたい。白傘は仏教においては吉祥のシンボルであり、おそらく正当性をあらわしているのだろう。権力争いに勝った新国王が自分の正当性(正統)を強調するために編んだエピソードと考えるべきかもしれない。