ボン教ミステリー   宮本神酒男 

はじめに
  ボン教とは何か 

 ボン教とは何だろうか。
 仏教到来以前から存在したチベット固有の宗教であるゆえ、日本人にとっての神道のように誰からも愛される原始宗教なのだろうか。しかし実際、仏教徒のチベット人の大半はボン教を評価せず、忌み嫌っている人も多い。一方で四川省(チベットの区分ではアムド)のアバ(Ngaba)州などボン教徒が多い地方では、他地域の仏教と同じように信仰されている。
 仏教徒がボン教を忌み嫌う原因の一つは、外観が仏教、とくにチベット仏教ニンマ派そっくりなのに、崇拝する対象がゴータマ・ブッダではなく、トンパ・シェンラブ・ミウォチェだからだ。トンパ・シェンラブもブッダであるとする論法もあるだろう。アミターバ(阿弥陀仏)がブッダであるように、トンパ・シェンラブもブッダであるとする考え方だ。ダライラマ14世もその考え方を根拠にボン教を「チベット仏教の第5の宗派」と呼んでいる。
 しかしそう認めてしまうと、ボン教は仏教の異端的一派ということになってしまう。ニンマ派の教えの中核にゾクチェンがあるが、ボン教にもゾクチェンがある。ニンマ派リンポチェのナンカイ・ノルブがボン教のゾクチェンを高く評価していたのはよく知られた話だ。
 8世紀頃、仏教が興隆する中、とくに吐蕃(トボ)のチソンデツェン王の時代、ボン教は生き残るために仏教の衣を被ったように思われる。仏教経典のようにボン教経典が書かれ(ボン教経典は青く塗られているので見分けがつく)、教義も体系化された。仏教徒が聖地や寺院の周囲を時計まわりで回るのに対し、ボン教徒は反時計回りに回った。マニ車も仏教徒とは逆に回した。
 仏教に押され、国教として認められなかったボン教徒は、チベット文化圏の周辺地域に活路を見いだそうとした。その典型的な例が、雲南省のナシ族の絵文字経典で有名なトンバ教だ。トンバ教が「どれだけ」ボン教といえるかははっきりしない。当時のボン教の姿が明確にはわからないからだ。しかし当時のボン教と民族固有の宗教が合体してトンバ教になったのは間違いないだろう。
 トンバ教の始祖はトンバシャラである。これがボン教の始祖トンパ・シェンラブと同一であるのは明白だ。トンバ教にはトンバシャラの伝記もある。この伝記の中でトンパ・シェンラブは釜の中でバラバラになり、ゆでられる。ここから再生されたときに、恐るべきパワーを持つ。これはシャーマンがシャーマンになるときのエピソードのようである。元々のボン教はシャーマニズムに近かったのだろう。
 ちなみにナシ族の祭司トンバ(東巴)はブンブ、ブブと頻繁に呼ばれる。まさにボンポ(ボン教徒)と呼ばれているのである。
 ボン教にとって重要なのは、吐蕃以上にシャンシュン国だ。シャンシュン国の領域は西のパキスタンのギルギットから東のナチュ(アバ州とする説もある)、北のホータンから南のロー(ムスタン)まで広がる広大な国だった。その中心にはカイラス山(グル・リンポチェ)があった。吐蕃が勢いを得ている頃、シャンシュンはすでに滅亡に向かっていた。
 このシャンシュン国で確立された国教的宗教がボン教と言われる。しかしトンパ・シェンラブがタジク(ペルシャ)から来たことを考えると、ボン教がゾロアスター教かマニ教の影響を受けて成立した宗教か、それそのもの(ただしかなり変化した)である可能性がある。ボン教の神話やトンバ教の経典の一つ「白と黑の戦争」は白と黒、光と闇の戦いがテーマで、きわめてペルシャ的といえる。
 チベットはインドの影響を強く受けてきた。しかし西方とのつながりが深いシャンシュンは、ペルシャの影響をより強く受けてきた。仏教の「インド」の向こうを張ってボン教は「ペルシャ」と言っているわけではなく、実際に西端のギルギットや北端のホータンはペルシャ文化圏の一部であったと考えられている。それについての中国人学者の論文も本稿で紹介したい。
 こうして考えると、ボン教は原始宗教ではなく、ペルシャの宗教とシャーマニズム、アニミズム、あるいは民族宗教とが入り混じった複雑な宗教の可能性がある。その宗教が仏教化したため、真の姿が見えにくくなってしまったのだ。
 扉ページの画像はボン教の聖地タロク湖(ツォ)と聖者タピリツァの像である。まさにここでゲルプン・ナンシェル・ルーポは師のポンチェン・タピリツァと出会った。そのとき伝授されたシャンシュン・ニェンギュというゾクチェンの教えは現在のボン教の真髄となっている。
 現代の日本人は「未来は現在よりよくなる」と考えがちだ。しかしチベット人は本当に素晴らしいものは普遍的とみなす。だから真なるものを師から弟子にそのものを口から耳に伝授すること(ニェンギュ)は、何よりも重要なのである。法統が重んじられるのはそのためである。