(24)晩年のアイリーン

 1939年の時点でアイリーンはもっともすぐれた霊媒のひとりとみなされていたが、彼女と並び称されていたのが10歳年上のグラディス・オズボーン・レナードだった。彼女はオリバー・ロッジ卿およびロンドンの心霊研究協会と近しかった。アイリーンはレナード夫人を尊敬し、友として、同僚として暖かい気持ちで接していたが、夫人や協会にたいし一定の距離を保っていた。死後存続を証明したとか、死者との会話に成功したという主張があやしいと思っていたからだった。心霊現象の仮説が科学的な実験に耐えられたとはとうていみなされないとアイリーンは考えていた。彼女は心霊研究の興味を失うことはなかったが、しだいに観察者の側に立つようになり、霊媒としての実践から離れていった。

 このことは多くの友と離れることでもあった。彼女は霊媒としての能力を発見したヒューワット・マッケンジーと協力して研究をしていた頃をなつかしく思った。しかしマッケンジーは亡くなり、大学の研究所もバイタリティーを失っていた。当時の研究は心霊研究主導であり、厳密な科学というより信仰に近いものだった。マッケンジーや大学の研究者にとってウヴァーニやアブドゥル・ラティフは肉体をもたない存在であったが、それはアイリーンには受け入れがたい意見だった。彼女は自分自身を研究させ、心霊能力にめざめさせたという点でマッケンジーに感謝していたが、彼が能力の限界を見定めていたことに気づいていた。

「私は心霊学研究者の仮説こそが自由な研究をさまたげているという結論に達しました。ほとんどの研究者の観点からすれば十分な客観性があるということなのでしょうが、心には解明されていないエリアがたくさんあり、私はその分野で実験をしていけたらと思うわけです」

 アカデミズムには失望を感じていた。彼らは超常現象の研究に関し、既得権益を持っている。そこでアイリーンは自ら組織を興そうと考えた。

 アイリーンともっともよく論議したのは、デューク大学の有名な超心理学者J・B・ラインだった。

「ギャレット夫人(アイリーン)との実験は科学としての超心理学を確立するターニングポイントだった」「夫人が国立超心理学研究所(あるいは国際超心理学研究所だったか)と記した紙を私に示した1936年のワシントンの夜のことをはっきりと覚えている」

 超心理学財団が形を整えるのはアイリーンがラインに話してから何年もたってからのことだった。1951年、彼女はクリエーティブ・エイジ・プレスを出版社のファラル・ストロース・クダヒに売却し、そのあと疲れが出て病気になった。しかし「聴覚体験」が彼女を変える。

「睡眠に入るとき、体調がよくなれば人生をささげてきた目的のための大伽藍を建てよ、という声が聞こえてきたのです」

 有力なサポーターのひとりがフランシス・ペイン・ボルトン夫人だった。彼女自身アイリーンの助けで心霊体験を見出したのだった。ボルトン夫人は財団の副代表に選ばれた。

 1951年12月14日、財団はデルウェア州に認可された。超心理学、電気生物学、超感覚といった分野を知るのを目的とする団体として認められた。

 ロンドンでは大衆向けの心霊科学誌、季刊『トゥモロウ』が発行された。学術的な季刊誌としては『国際超心理学ジャーナル』が1959年から1968年まで発行された。また年に6回、財団から『超心理学レビュー』と題されたニュースレターが発行された。それにはアイリーンの論文やこの分野をリードする研究者の論文が掲載された。財団の出版部門は雑誌を発行するだけでなく本や論文集を発行した。この分野において研究者に活躍の場を与えたのである。

 あいかわらずアカデミズムは心霊学分野に関して消極的だった。ラインが言うように自身が研究者である「賢くて、寛容で、心を開いた」女性が主宰する組織は必要不可欠だった。研究を進めるべきは、超感覚、サイコキネシス(念力)、透視、透聴、テレパシー、予知などだった。援助を受けて研究するのは物理学者、化学者、論理学者、心理学者、精神分析学者、精神病医学者、薬理学者、数学者などだった。

 アイリーンは彼女自身疑いをもっている分野にも援助を認めた。それは死後存続、死者との会話、転生などである。

 50年来の友人であるエリック・J・ディンウォール博士はアイリーンが寛容すぎて多くのくわせものに食い物にされているのを見るのがいやだった。近づく者を拒絶することができなかったのだ。財団は彼女の発明品だった。

 アイリーンはふたたび出版に力を入れ、ラインが称した「超心理学の気前のいい婦人」という役割に戻った。

 第一回超心理学研究国際会議が開かれたのはユトレヒト大学だった。1953年の7月30日から8月5日までレクチャー・ホールやドミトリーなどを使うことができた。世界14か国から86人の学者(物理学、化学、生物学、哲学、数学、論理学、医学など)が招かれた。議長は財閥のリサーチ顧問で全米心霊学協会会長のガードナー・マーフィーだった。しかしふたりのホスト、アイリーンとボルトン夫人の存在が圧倒的だった。

 参加者を国別に数えると、英国17、米国16、オランダ12、フランス9、ドイツ5、オーストリア4、スイス4、イタリア3、スウェーデン2、フィンランド1、デンマーク1、ノルウェー1、アルゼンチン1となっている。(このリストには13か国76人)

 アイリーンは18以上の国際会議の座長を務めた。それらはニューヨークやロンドンで開かれた。とくに13回はフランス南部のサンポール・ド・ヴォンスで開かれた。そこは信じがたいほど美しく、静かで、眠気を誘う、しかし刺激的な地方だった。

 ホテルやバンガローの複合体はルピオル(Le Piol)と呼ばれた。そこから見上げると、丘の上に壁に囲われた15世紀の町サンポールがあった。

 1947年、フランスに戻ったアイリーンは地方を歩いていて、廃墟となった建物が大いに気に入った。ビジネス・マネージャーのジャン・アンドワールにそのことを告げてロンドンに戻った。その後その物件が売りに出されたことを知り、すぐさま購入したのだった。彼女のビジネス感覚がうかがい知れる。

 参加者の交通費はすべて財団が払った。開催期間中の宿泊費や食費もまた財団が払ったという。

 国際会議の前夜、ダイニングルームではパーティが開かれた。コートダジュールの物憂い空気のなか、超心理学者や参加者はほぼフォーマルな格好でカクテル・パーティにのぞんだ。しかしアイリーンが登場しないことにははじまらなかった。二人か三人の従者か秘書に支えられ、テラスに向かって石段を上ってきた。カクテル・エリアに入るとみなに迎えられ、抱擁をかわした。それは7時半ごろで、飲んだりしゃべったりしてパーティは夜中までつづいた。晩餐は9時半だった。その時間になるとテラスのガラスに囲われたダイニング・エリアにみな移動した。火の飾ってある場所からはマンドリン奏者やギター奏者、歌手がいて歌と演奏で楽しませた。参加者にはそうそうたるメンバーがいた。ある年にはオルダス・ハックスレーがいた。おなじテーブルにはイスラエルの哲学者でマーティン・ブーバーと同僚のサミュエル・ヒューゴ・バーグマンがいた。その向かいにはヨルダンへのバチカン代理人モンシニュール・コラド・バルドッチ、はす向かいにはカナダの監督派教会のパクスレー主教がいた。そのほかイエール大学のマルグノー、英国ブリストル大学のウォルター、ヨハネスバーグのブレクスリーらの姿もあった。

 「心霊研究の世紀――疑いと確信」と題された第19回国際会議が開かれたのはアイリーンが死ぬ二週間前だった。彼女は語った。

「はるか遠くからやってきてくれたあなたがたに感謝の意を表したいとおみます。あなたがたの何人かは懐疑派でしょう。それはよくわかります。というのも私も奇妙に感じることがあるからです。私はこのなかでも最大の懐疑派でしょうね。もう何年もの間私は心霊現象を生み出してきたと言われてきました。しかし私は自らに問いました。私は何をしているの? と。私が何を生み出しているのか、二人のパーソナリティ、ウヴァーニとアブドゥル・ラティフが何を言っているのか、どうやって知ることができるでしょうか。ウヴァーニはよく道を示してくれます。そして彼が対処しきれないテーマがあるとそれをアブドゥル・ラティフに投げてしまうのです。こうして何年も私は葛藤する二人のパーソナリティとつきあってきたのです」

 ニューヨークの精神病医ジャン・エーレンウォルド博士はアイリーンの『霊媒の意味を求めたわが人生』を研究しながら『テレパシーと心理学』を著した。博士はアイリーンの自伝はアヴィラのテレジアやシエナのカトリーナ、ある意味ではスウェデンボルグにも匹敵するヒューマン・ドキュメントだと評した。

 精神病医から見れば、アイルランドの自宅で自分自身の姿を見たとき、アイリーンは非人格化と現実感喪失、専門用語でいえば自己像幻視を患っていた。また彼女が指先や首筋を通して本の中に見えるものを語ったり、足や膝をとおして聞いたり、体の骨格から音響を感じたりするのは専門用語でいえば体系妄想だった。ふたりの幼い子供をなくしたあと、彼女はロンドンの精神病医に診てもらった。彼女の記憶によれば子供の死因となったものは母親から受け継がれたものと診断された。そして彼女の幻覚は夫の性的不適切さに起因するというのだ。

「子供の頃からエキセントリックな性質があったという証拠がある。分裂しがちな性質、白昼夢、親戚が言うところのファンタジーのような嘘、こういったものはヒステリー症を表している。だから彼女の見えない子供たちという劇的な人格化のファンタジーが生まれたのだ。しかしのち彼女の幻覚は指先や首筋を通して見るなどというふうに、精神分裂の色合いを帯びてくる。いわゆる域外幻覚は深刻な精神病の前兆とみなされるのであり、だから体系的な妄想が『すべての洞察力のある眼』から生まれているのだ。叔母や教師らに対する態度はパラノイアの色彩を帯びていて、彼女は超能力や超常的な力を持っていると主張するが、それらは誇大妄想狂の症状なのである。そして両親の自殺ということが精神分裂症、あるいは精神異常の妄想が現れた患者であることを示している」

 以上は古典的な精神病医の診断である。今日においても、アイリーンの本を読み、彼女と話をしたなら、大なり小なりおなじ診断を下すことになるだろう。医師は精神異常と診断し、電気ショックやインシュリン療法といった処方を与えるだろう。一定期間の入院を要するかもしれない。施設に入ったが最後、二度と出て来られなくなるだろう。後期ビクトリア朝の小説にでも出てきそうな展開である。

 アイリーンはユング派の心理学に興味をもっていた。1957年、彼女はユング派のアイラ・プロゴフに調査を依頼した。彼女は何年も前に霊媒の活動をやめていたが、多くの人が死者との交流やテレパシー、透視を見にやってきていた。彼女自身はトランス状態のときの記憶はなく、彼女を通して何者かが語るのだった。その存在には疑いを持ち、人格の一部なのではないかと思っていた。プロゴフの調査のなかでウヴァーニやアブドゥル・ラティフ以外にタホテーとラマーというふたつの人格が現れた。

 いつも最初に現れるのはウヴァーニだった。ウヴァーニは自らを門番と呼んだ。「アイリーンは受容器だ」とプロゴフは言った。

 タホテーはプロゴフに「あなたは誰ですか」と聞かれて、こう答えた。

「私の性質は普遍です。生命の息吹です。ある人々は私のことを善良の象徴とみなしてきました。別の人々は自由の象徴とみなしてきました。人間の創造的な一面の象徴ということです。記憶にとどめるべきことは、私はつねに苦悩する人間の心の中にあるということです」

 ラマーは自らを「人生の送り手」と呼ぶ。ラマーがしゃべるとき、アイリーンは疲労するので、プロゴフは気を遣い、短めに質問する。「人生の送り手」を文字通り受け取るべきでないとプロゴフは言う。

「4つの統率する人格について考えるとき(それらはウヴァーニの最高動的タイプによって組織立てられた)それぞれが心の層を代表していることがわかる。入口のウヴァーニは意識にもっとも近い調整役である。アブドゥル・ラティフはその下の層である。タホテーはその下で、ラマーが基礎層となる。これらの人格は心の層を代表しているのだ」

 プロゴフは心霊主義者らが4人の声が霊的なものであるとする考えを拒んだ。とはいえそれらが意味のないものであるとか、病理的な産物という見方も退けた。

「トランス人格が霊的なものでなく、経験のなかで明確に認識できる人生の真理を象徴的に表現したものあり、人生をより意義深くするものととらえたほうが収穫は大きいだろう」

 プロゴフは3つのダイナタイプを挙げる。

・統括ダイナタイプ

・霊媒ダイナタイプ

・神託ダイナタイプ

 カトリックのアイルランドにプロテスタントの家に生まれ、孤児として育ったアイリーンは社会において自信を維持するため、因習のなかで生き抜いていくため、プルゴフの言う「外向けの顔」を発展させなければならなかった。しかし内側の生活がある以上内側の顔もあるわけで、それらが葛藤することがあるにせよ、内側の顔も発展させねばならなかった。子供のころ彼女はすでに自分の人格から、あるいは意識から脱することができるようになっていた。そして状況に応じて別の人格をまとうことができた。アイルランドを離れたあとでさえ、別の人格を獲得することができた。しかしそれは恐ろしいことであり、理解しがたいことだった。それは狂気であり、やさしい言葉でいえば想像力過多であった。しかし徐々に、とりわけ英国心霊科学カレッジのヒューワット・マッケンジーのもとで厳しいトレーニングを受けたあと、自由にトランス状態に入る方法をマスターすることができるようになり、別々の人格も得ることができた。この能力によって彼女を苦しめてきた緊張状態から解き放たれたのである。