イッサ文書の奇妙さ                  宮本神酒男

 このイッサ文書は偽書なのかそうではないのか。もし偽書であるなら、それはラダックで作られたものなのか、それともノトヴィッチの旅が終わったあとどこかで作ったものなのか。そもそも偽書を作ったのはノトヴィッチなのか、そうでないならだれの手によるものなのか。また何のために、だれのために作られたのか。

 偽書疑惑という点ではかぎりなく灰色といえるだろう。しかし何のために? お金ほしさか、名声ほしさか。あるいはノトヴィッチはロシアのスパイで、グレート・ゲームの時代のなかで役割があったのか。

 このように疑問点だらけなのである。しかし中身が十分に検証されないまま、「イエスがインドに来た」という伝説、あるいは噂が広がり、それを信じる人々もかなりいたのだ。
 たとえばパラマハンサ・ヨガナンダはイエスがインドに来たというアイデアに疑義をはさまず受け入れ、そこから高度な宗教哲学を発展させた。キリスト教の本質とインド哲学の本質には融合できうるものがあり、だからこそイエスがインドに来て学んだほうがしっくりとくるというのだ。

S・アチャリアのように、イエスの実在そのものにたいし否定的な識者もいる。イエス以前の太陽神信仰からイエス・キリストという「神話」が生まれたとするのだ。イエスが実在したかどうかさえはっきりしないなら、イエスが本当にインドに来たかなんて、ある意味ではささいな問題といえるかもしれない。

 

 とはいえイッサ文書は疑問点だらけなので、奇妙な点を列挙したい。

 まず第1章に、この文書が「イスラエルの商人が語った物語」としているのはどういうことだろうか。
 イエスの使徒たちだってもちろん職業をもっている。マタイは収税人、シモン、アンデレ兄弟は漁師、ヤコブ、ヨセフ兄弟もまた漁師、福音作家のルカは医者である。だからこのイスラエル商人もまた使徒クラスの信者かもしれないが、商人が書きとめた文書とは思えない。書き手をぼかすためのカモフラージュではなかろうか。

 インドでの活動が記されるのは、第5、6、7章のみである。
 イエスがインドに行って学んだということがこの文書の特筆すべき個所であるはずなのに、あまりにも素っ気ないのだ。しかも仏教について学ぶためにインドへ行ったはずなのに、仏教についてろくに学んだ形跡がなく、インドではヒンドゥー教バラモンの偶像崇拝やカースト制度批判に終始しているのだ。
 イッサが学んだ最高神のブラフマー神や宇宙意識などもオカルティストの好んだヒンドゥー教といったふうで、仏教とは言い難い。差別をなくし、隣人を愛せよ、と言うあたりは伝道師の説教を聞いているようである。

 また第12章では突然女性を敬え、崇拝せよと主張しはじめる。聖書ではむしろ女性蔑視があるので、これは唐突な印象をもってしまう。
 「コリント人への第一の手紙」のなかでパウロは「婦人たちは教会で黙っていなければならない。もし何か学びたいことがあれば、家で自分の夫に尋ねればよい」と女性にたいして言い放っているのだ。この女性蔑視の部分を多くの人は聖書の弱点のように考えているかもしれない。
 しかしだからといってイッサ(イエス)が女性を女神のように敬い、丁重に扱えと言い出すのはあまりにも不自然である。

 パーリ語からチベット語、チベット語から(ロシア語?)フランス語、そして英語。それに日本語を加えれば、少なくとも四重の翻訳を通過しているので、原文ではどのような用語が選ばれたかは正確にはわからない。
 しかしたとえば裁きにかけられたイッサは自らを「イスラエルの王」と呼んでいるが、福音書では「ユダヤの王」となっている。なぜ改変したのだろうか。
 イッサ文書には、聖書よりもはるかに高い頻度でイスラエルという語が登場する。思うに、シオニズム運動の機運が高まり、イスラエル国家建設の願望がより強くなっていたので、イスラエルという語を強調したのではなかろうか。
 第
1回シオニスト会議がバーゼルで開催されるのは1897年のことだった。もしこの推測が正しいとすると、イッサ文書が書かれたのは19世紀後半とみるべきだろう。

 イッサ文書に関連したもっとも奇妙な風習は、ラサに巡礼に来た仏教徒たちがイッサの経文を寄贈していく云々というノトヴィッチの説明だ。
 チベット仏教文化の偉大なる点のひとつは、リンチェン・サンポ(
9581055)をはじめ数多くの翻訳官がインドの厖大な仏教経典を翻訳し、世界まれな大蔵経コレクションを完成したことだ。ノトヴィッチの説明は、聖地や寺にマントラの印されたチョルテン(旗)をささげる様子からヒントを得たのだろうか。(これなら私も経験がある)

 アベーダナンダがのちにヘミス僧院のラマから聞いた話では、ラサ近くのマルブル(Marbour)の僧院にパーリ語で書かれたイッサ伝の原本が蔵されているという。
 このマルブルとはどこのことだろうか。
 私はラサ近辺の大小の寺院を思い浮かべたけれど、合致するものがない。ふと、これはマルポリ(
Mar po ri)ではないかと気づいた。
 マルポリとはポタラ宮殿が建っている丘のことだ。ポタラ宮殿内にはナムギェル寺があったが、ダライラマ14世とともにダラムサラに亡命した。もしマルポリの寺にイッサ伝の原本があったなら、ナムギェル寺が何らかの事情を知っているはずだ。ノトヴィッチやアベーダナンダの情報がすべて真実ならばだが。

 
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