ノトヴィッチに関する新事実と深まる謎   宮本神酒男 

 いままであまり取り上げられることはなかったが、サラーフッディーンによると、ノトヴィッチがラダックに来て、ヘミス僧院で「イッサ文書」を見せてもらった証拠があるという。それはモラヴィア教会の宣教師の日誌である。これはハスナインが発見し(というよりその価値を見出し)ドイツ語の原文を英訳したものである。

 1885年、チベット学者として有名なA・H・フランケをはじめとする数人の宣教師によってラダックのレーにモラヴィア教会が創立された。彼らの日記は1885年8月18日にはじまった。

 その3節目に、ウェバー修道士はノトヴィッチがヘミス僧院を訪れたと主張していることにたいし、怒りをあらわにしながら否定しているという。それが公式見解だからなのかどうかはわからない。ところが本文の下に、p.s.(追伸)としてまったく別の見方が記されているのだ。

 まず日誌の本文から。

 1887年夏、ひとりのロシア人がここ(モラヴィアン・ミッション)とレーの郊外にあるヘミス僧院を訪ねました。この現在Puric(?)に住んでいるという紳士は、1893年に「イエスの新しい人生」という本を出版しました。彼が主張するところによれば、彼はヘミスからそう遠くないところで足に大きなケガを負ってしまいました。それでヘミス僧院に保護を求め、そこで僧侶たちの世話によって養生したそうです。僧侶たちは彼にラサに保管されているという「イッサの一生」というチベット語の本を見せました。この本によると、若きイエスはインドでバラモン教を、チベットで仏教を学ぶためにやってきたそうです。おとなになったイエスはパレスチナにもどり、神の真実として習得した知識や教義を人々に教えました。ユダヤ人たちはその教えをありがたく拝聴しました。しかしピラトは最高評議会の意向に反し、彼を牢獄に入れ、磔刑に処しました。ピラトは民衆の暴動も、またイエスの墓も怖かったので、遺体をひそかに別の墓に移させました。復活の伝説はここから生まれたのです。

 ノトヴィッチはチベット語ができず、ウルドゥー語もまた話すことができなかったので、僧侶たちの助けを借りて翻訳しました。実際この伝道の目的ははっきりしています。イエスの13歳から30歳までの空白を埋め、神の教義の源をバラモンや仏教徒の知恵に帰そうとしているのです。

 われわれは真実を守るため、厳しく追及しました。公衆の前で、糾弾したのです。そのキリストの教義が剽窃であるだけでなく、話全体が、本全体がまやかしで、うその塊りでした。ノトヴィッチ氏はわれわれの主張を聞くと顔を真っ赤にして怒り出し、中傷するような態度、うらめしそうな表情を見せました。しかしウェバー修道士は公式の書類を持っていました。そこには僧院長(住持)が、病気のヨーロッパ人が僧院で養生した事実はない、そして彼らの書庫にイッサだかイエスに関する本はないと宣言しているのでした。

 この文章のあとにp.s.(追伸)としてつぎの文が書き連ねてあった。

 ストブデン氏(ラサ発音でトプデン)と(?)氏とともにヘミス僧院を訪ね、若いラマに話を聞いているとき、ほかの僧侶たちが言った。「長老たちはケガを負った英国人が僧院に運ばれてきたこと、そして何かの写本を見せたことを覚えているようです」

 彼らは西洋人を見ると「英国人」と呼んでいたので、この英国人がノトヴィッチであることはまちがいないだろう。しかしこの追伸はだれが書いたのだろうか。本文を書いたのがウェバー修道士であるとしても、追伸がいつだれによって書かれたかは判然としない。モラヴィア教会の宣教師であることはたしかだ。ただ先に述べたように、ノトヴィッチは歯の治療をしているが、ケガをしたという事実はなかったように思われる。そうするとこの追伸はだれかの工作なのだろうか。

 ハスナインは何度もラダックのモラヴィア教会を訪ねたが、あるときドイツ語で記された日誌の束を見つけた。チャッタン・プンチュク師は、モラヴィア教会は毎日のできごとをこうしてかならず日誌につけているのだと説明した。師によれば、ノトヴィッチがヘミス僧院を来訪したこと、イッサ文書を見たことなども記されているという。ハスナインは日誌を2ページほど写真撮影した。(上述の文はそれを翻訳したもの)

 つぎにハスナインがラダックのモラヴィア教会を訪ねたとき、プンチュク師は配置転換によってほかの町へ移動していた。ハスナインがそこにいる人々に日誌について聞くと、それはもうここにはない、というつれない返事だった。こうしてわずかに2枚の写真は残されているものの、決定的な証拠は姿を消してしまったのである。

 サラーフッディーンによると、ノトヴィッチはある人々に憎悪されているという。「インドのイエス論」の反対論者は、アドルフ・ヒトラーが『わが闘争』のなかでノトヴィッチの反ユダヤ的な文章を引用していることを引合いにだし(*『わが闘争』中にノトヴィッチの名は出てこない。どの文章のことを言っているのか現在調査中) ノトヴィッチを誹謗中傷しているという。ノトヴィッチはユダヤ教の生まれだが、ロシア正教に転向しているので、ユダヤ人からすれば裏切り者なのかもしれない。しかし『イッサの知られざる生涯』を読むかぎり、反ユダヤ的な姿勢は見られない。

 サラーフッディーンは、このモラヴィア教会の日誌を根拠としてイエスがインドに来た証拠はある、と断言している。しかしすでに述べたようにラサの寺院に10万部の経典があるなどとありえないことをヘミス僧院のラマが言う(ラマ自身は否定)など、不審な点だらけだ。このモラヴィア教会の日誌にしても、ハスナインやサラーフッディーンの主張を鵜呑みにすることはできないのである。




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