(4)アートマを探る 

 イェシュアは賢者アルム・シンから教えを受けている。彼らはパドマ・アーサナ(蓮華座、結跏趺坐)と呼ばれる姿勢を取って座っている。アルム・シンは、はるか古代から口伝で伝えられている4つのヴェーダ、すなわちリグ・ヴェーダ、サマ・ヴェーダ、ヤジュル・ヴェーダ、アタルヴァ・ヴェーダについての講義をしている。

「イェシュアよ」とアルム・シンは言う。「それぞれの内なる魂だけが、成長することができるものなのだ。世界はいわば、見かけだけ立派な、修復不可能な機械のようなものなのだ」

 ユガ(時代。たとえばカリ・ユガは432000年にも及ぶ)についても教わった。

「4つのユガがある。金、銀、銅、そして現在の鉄のユガ。それがわれわれの生きているユガだ。精神が下層の力に取って代わられようとしているいまの時代、それがカリ・ユガなのだ。カリ、すなわち死の女神」(作者はカリと女神カーリーを混同しているがこれは間違い)

 この物語では性についても論じている。バビロン滞在中、サティヤとイェシュアの間でセックスが話題となった。というのもバビロンは肉体の悦楽で有名だったからだ。通りには売春婦がたくさん並んでいた。

「もしセックスを楽しまなかったら、ブラフマー神から人間味のある表現がなくなってしまうのではないの?」とサティヤは言い張った。ブラフマー(創造神)と言ったとき、サティヤはクリシュナのことを思い浮かべていた。クリシュナはサンスクリットで「すべての快楽」を意味していたからだ。快楽と創造をごっちゃにしていたかもしれない、とあとでサティヤは思った。

「それじゃあ君は、ブラフマーの表現は股の間についているとでも言うのかい」とイェシュアは切り返した。少し怒っているようにも見えた。イェシュアは付け加えた。

「たしかにセックスは快楽だ。ブラフマーの贈り物のひとつかもしれない。それは生殖のために不可欠なものだが、アートマとは何ら関係がない」

 アートマとは、真実の「わたし」、真実の「自身」のことであると、サティヤは述べている。イェシュアもまた「人の目的は、神の創造を学ぶことによってアートマが何かを学ぶことだ」と述べている。どうやら生殖のための性行為は必要不可欠であり、否定されるものではないが、生涯をかけて探求すべきは、アートマの本質を理解するということなのである。

 



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