2)どうしたらメシアになれるのかわからないヨシュア 

 主人公ヨシュア(イエス)は、メシア(救世主)であることは間違いないのだが、「どうしたらメシアになれるのかわからない」という少年だ。もうこの一点からして冒涜気味である。冒涜といえば、冒涜の暴走といってもいいほど不敬描写が炸裂する。ヨシュアの母マリアは一般的な母親より若く、夫ヨセフとは親子ほど年が離れている。ヨセフは本当の父親ではなく、しかも老人なのである。

「ヨシュア、おまえの父ちゃんってすごい年寄りなんだろ」とビフ。
「そうでもないよ」とヨシュア。
「父ちゃんが死んだら母ちゃんは兄弟と再婚するんだろ?」
「父ちゃんに兄弟はいないよ。どうしてそんなこと聞くの?」
「いやべつに。もしおまえの新しい父ちゃんがおまえよりおチビさんだったらどうする?」
「ありえないよ」

「でもおまえの父ちゃんが死んで、母ちゃんがだれかと再婚したら、もしもおチビさんでも父ちゃんなんだよ。父ちゃんの言いつけは守らないとダメだからな」
「父ちゃんは死なないよ。永遠に生きるんだ」
「まあ、言っときゃいいさ。でもぼくがおとなになって、おまえの父ちゃんが死んだら、おまえの母ちゃんと結婚するつもりだ」

 こんな感じで、ムーアはとどまることを知らない。すでに述べたように『ヤコブ原福音書』によるとイエスを産んだときとマリアは16歳だった。神殿に預けられていた孤児のマリアはヨセフに引き取られたとき、まだ12歳くらいだったはずで、現在の常識に照らし合わせれば、非難されかねないシチュエーションにあった。しかし神聖なる聖母さまを一般の人間の定規で測ること自体が不敬ということになる。

 父ヨセフの存在も矛盾だらけだ。ヨセフの子のなかで、イエスだけが神の子なのはどういうことなのか。兄弟や姉妹がヨセフの実子であるのに、イエスだけが違うということは、マリアは後妻なのか? クリスチャンはだれもがぼんやりとそのような矛盾に気がついているが、それを究明にようとしないところをムーアは笑いのタネにしているのだ。

 もうひとりの主要人物はマギーことマグダラのマリアだ。少女マギーは、キモくて小太りのヤカンと6か月後に結婚することになっている。相談を受けたビフは「反乱分子だってローマ軍に密告すればいい」などと脳天気なアドバイスを贈る。

 しばしばビフとヨシュアのもとに現れる天使ラジエルも、作者のおちょくりの対象だ。聖書に出てくる天使はあいまいな存在で、ときには性別さえはっきりしない。

「ラジエル、道具はちゃんと準備したかい?」とビフ。
「道具?」
「道具だよ、モノというか、竿というか、そのつまりチン……」
「いや、持ってない」と、ラジエルは困った顔をする。「どうして持ってなきゃならないんだ?」
「セックスのためだよ。天使はセックスしないのかい」
「そりゃ、するよ。するけど、その、それらは使わないんだ」
「男の天使と女の天使はいるってことだな」
「そうだ」
「そして男の天使と女の天使はセックスする」
「そのとおり」
「どうやったらできるんだ?」
「だからいまそう言っただろ」
「いや、生殖器官を持っているかどうか聞いたんだ」
「持ってるよ」
「じゃあ見せてくれ」

 こんな感じであまりにもばかばかしく、不敬とか冒涜といった言葉には結びつかない。天使の性別やプライベート・ライフなんて、だれもが気にすることではあるが、答えの出ない問いであることをだれもがわかっているのだ。

 それはさておき、インドのイエス伝説と関わる部分に注目していきたい。

 


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