聖なる女性原理                      宮本神酒男 

 エリザベス・クレア・プロフェットにとって、イッサ文書が価値ある書として決定的となったのは、女性礼賛にあふれた第12章があったからである。聖書には、「婦人たちは教会で黙っていなければならない」「もし何か学びたいことがあれば、家で自分の夫に尋ねるがよい」(「コリント人への第一の手紙」1434節)と書かれているように、初期のキリスト教は男女平等とは言い難かった。教会をモスクと言い換えれば、コーランの一節と考えてしまうかもしれない。エリザベスにとって、女性の聖性を理解しないキリスト教は、本当のキリスト教ではなかった。

 イッサ文書の第12章は、その意味で、キリスト教の真髄だった。本当のキリスト教が語られていた。彼女が抜き出したのは、つぎの一節である。

 それからイッサは言った。
「宇宙の母である女性を尊敬せよ。女性のなかにこそ創造の真実があるのだ。女性はよいもの、美しいものすべての基礎である。女性は生と死の源である。男の生は女性があってこそ成り立つのだ。というのも男の労働を支えるのは女性だからである」

「女性は陣痛に苦しみながらあなたを産むだろう。そしてあなたの成長を見守る。その死まであなたのことを心配するだろう」

「女性に祝福あれ。女性に名誉を。女性はあなたの唯一の友人であり、支えである。女性を尊敬せよ」

「女性を守りなさい。妻を愛し、尊びなさい。というのも妻たちは明日、母親に、のちには人類の母になるかもしれないからである」

「女性の愛によって人は気高くなり、みじめな気持ちはやわらぎ、獣は手なずけられるだろう。妻と母はこのうえない宝なのである」

 ここまでの女性礼賛は、グノーシス主義の外典にさえ見られないだろう。むしろ近年のフェミニズムの影響を感じてしまう。エリザベス自身、グロリア・スタイネム(1934− )やベティ・フリーダン(19212006)といった著名フェミニストを引合いに出しているほどである。*上の文に関し、エリザベスは「この文章はスタイネムやフリーダンが書いたものではない」と注釈している。 

 「宇宙の母」は深遠なる言葉だ。それはすべての女性に属するとエリザベスはいう。

 すべての女性の光は生まれ変わるメーテル(ラテン語で母の意味)であり、マター(物質)、すなわち宇宙の守護者なのです。彼女は三位一体と同様、聖なる母の炎を守るため、この世に送られたのです。それは彼女の子供たち、父、夫、兄弟、友人のためでもありました。これが女性の役目であり、仕事場だったのです。

 つづけてエリザベスは、われわれはイエスの歩んだ道を歩まねばならない、という。

 イエスが聡明な生徒であったなら、われわれも聡明な生徒でなければなりません。好事家であってはならないのです。あちこちを探し回ってはいけません。神の国はわれわれのなかにあるのですから。

 つまりイッサ文書で表明しているように、われわれは女性を尊重しなければならないのである。文書の真偽など、取るに足りない問題であるかのようだ。また、われわれには先達者がいることをエリザベスは喚起する。

 光はあるのです。われわれより先に行った人々、言い換えればアセンションした熟達者たちが、われわれの一歩一歩を導いてくれるのです。(略)白い衣を着た彼らは、大白色同胞団(グレート・ホワイト・ブラザーフッド)という名で知られています。

 ここに来て、エリザベスが神智学協会の影響を受けていることが思い出される。彼女が、というより、亡き夫マーク・プロフェットが神智学協会の流れを汲んでいたのだ。エリザベスの教会CUTはカルトであるだけでなく、オカルトでもあったのだ。

 神智学協会のスピリチュアリズムは、肉体的な厳しい鍛錬を要求したりはしなかった。

 われわれは肉体的にヒマラヤに入る必要はありません。そのかわり「存在」のたいへん高い山に登らなければならないのです。われわれは勢いをつけて意識と世俗を越えて進まねばなりません。われわれは内なる教師を探し、それによって聖霊を見つけるのです。われわれは彼らの杯から飲み、足取りを取り、光を運ぶことに支払いをする価値があることを理解し、喜んで支払をしなければなりません

 


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