エッセネ派=キリスト教徒=テラペウタイ=仏教徒? 
                                                    宮本神酒男 

アーサー・リリー著『キリスト教、あるいはエッセネ派イエスにおける仏教』がもたらしたもの 

アショーカ王によって仏教は西方へ伝播したのか 

 当時どれほどの評判を呼び、評価が高かったとしても、百年以上もたてば大概の書は忘れられてしまうものだ。英領インドの軍人アーサー・リリー(1831−?)が書いた『キリスト教、あるいはエッセネ派イエスにおける仏教』(1887)もまた、強いインパクトを残しながらも消えていった書のひとつである。しかし、その存在が完全に忘れ去れたとはいえ、「インドのイエス伝説」やキリスト教神秘主義の形成に大きく寄与したことはまちがいないだろう。

 アーサー・リリーは学者ではなかったが、その厖大な知識を駆使して、いかに仏教がキリスト教の成立に影響を与えたかを証明しようとした。

リリーは王立アジア協会の名誉会長カスト氏の言を引用する。カスト氏によれば、ソロモン王(紀元前10世紀)の時代、すでにインドとフェニキア人とのあいだには盛んな交流があったという。そのルートには陸と海の二つがあった。東西の物流が集まり、交易の中心となったのはイエメンであり、その担い手はシバ人だった。このようにシバの女王がなぜ裕福であったか、説明しているのである。現在もシバの国がどこにあったか(イエメン説とエチオピア説が有力)確定されていないが、もしイエメンであれば、そこは乳香など香料の産地でもあり、中東とインドとの中継貿易で潤ったとしても不思議ではない。

 仏教と西方を結びつけるのは、マウリヤ朝のアショーカ王(BC304232 在位BC269232?)である。アショーカ王はギリシアと縁が深く、また使節をギリシア人が治めるエジプトに送ったという。

 リリーは2つの碑文をあげる。(ジェームス・プリンセプが翻訳したもの)

 ギリシアの王アンティオコスの領内のアンティオコスの将軍が治めるところでは、ピヤダッシ(アショーカ王)の二種(人と動物のための)医療システムが敷かれていた。人と動物のためのあらゆる薬が用意された。

 このアンティオコスは、セレウコス朝シリアのアンティオコス3世(BC241187 在位BC223187)のことだろう。2つの強大な王朝の国境地帯はこのように平和に管理されていたことがわかる。インド文明とギリシア文明は隣り合わせだった。

もうひとつの碑文には宗教のことが記されていた。

 ギリシアの王のほかに4人の王、すなわちプトレマイオス、ゲンガケノス、マガスなど(以下略)。ここでも外国においてもすべての場所で、デーヴァナンピヤの宗教が届くところでは、人々はその教義にしたがった。

 デーヴァナンピヤとは、古代スリランカ・アヌラーダブラの王デーヴァナンピヤ・ティッサ(在位BC307267)のことである。デーヴァナンピヤ・ティッサ王はスリランカで最初に仏教を信仰した王として知られるので、この宗教とは仏教にほかならない。アショーカ王以前から、あるいはアショーカ王の時代に、仏教はギリシア人らのあいだに、つまりヘレニズムの世界に急速に波及したことがわかる。

 リリーがつぎにあげるのはスリランカの古代史書『マハーワンソー』だ。この書によると、ルワンウェリ・サーヤ大塔が建てられたとき(BC140?)各地から僧侶がやってきたが、そのうち3万人はヨーナ国のアラサンッダからだったという。ヨーナとはイオニア、すなわちギリシアのことである。アラサンッダとは、マケドニア系プトレマイオス朝支配下のアレクサンドリア(エジプト)だろうか。しかし当時インド領内には多くのギリシア人が住んでいたのであり、アレクサンダー大王が来たところには都市ができ、しばしばアレクサンドリアに類した名がつけられた。通説ではこのアレクサンドラ(アラサンッダ)はアフガニスタンのベグラムとみられているが、リリーはエジプトのアレクサンドラのほうがスリランカに来るのは簡単だったはずだと主張する。*マードックは3万人もの僧侶が来るには、よほどの大きな都市だったはずで、その意味でもアレクサンドラはエジプトのアレクサンドリアにちがいないと主張する。

 リリーはまた、ケロッグ教授の「『ミリンダ王の問い』(ギリシア人のミリンダ王ことメナンドロス王と仏僧ナーガセーナの問答。仏典のひとつ)はシリアの首都でおこなわれた」という大胆な主張を紹介している。さすがに自身の主張とするには根拠が乏しかったのか、ケロッグ教授の名を借りたのかもしれない。しかし現在ではメナンドロス王の王朝の都はスィアールコート(パキスタン側パンジャブ)にあったという説が有力であり、問答もここでおこなわれたと考えられている。

 リリーはそれでもなお「仏教徒が来なかったとしても、仏教は来たにちがいない」と強弁する。アレクサンドリアに現れたグノーシス主義は仏教そのものであり、彼らは仏僧のように世俗を捨てた人々だったというのである。また、グノーシス主義の用語であるブトス(混沌)とプレーローマ(神の充満)は、仏教のプラヴリッティ(社会的行動)とニヴリッティ(内的熟考)に当たるという。このあたりになると晦渋的になりすぎて、凡人の理解を超えてしまっているのだが……。

 

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