アフマド没後のアフマディヤ派
ミルザ・グラーム・アフマドは、没する直前の1908年、アンジュマンという集団指導体制(Sadr Anjuman-i-Ahmadiyyah)によってアフマディ運動を維持していく決定を下した。そしてアフマドを継承する者をカリフ(Khalifa)と呼び、後継者とする旨を残した。アフマドのいまわの際には、ヌルッディンがメシアの継承者、すなわち初代カリフとして認められた。
それから6年後の1914年、ヌルッディンが没し、アフマドの息子バシールッディンが2代目カリフに選ばれた。彼はのちに「約束された改革者」(Hadhrat Musleh Ma’ud)と自ら称した。
しかしアフマディヤ派の多くがバシールッディンのカリフ就任も、この「約束された改革者」という称号も好まなかった。彼らはカリフ制度も、2代目が継ぐという考えも支持できなかったのだ。彼らはのちにラホール・アフマディヤ派(Lahori Ahmadi)として知られるようになる。ラホール派を築いたのは、アフマドの「仲間」であったマウラヴィ・ムハンマド・アリとホジャ・カマルルディンだった。
ラホール派はカーディアン・アフマディヤ派(Qadiani Ahmadi)が血統を重んじ、王朝を作ろうとしていることに頑強に反対した。しかしカーディアン派は現在にいたるまでカリフ制を維持してきた。3代目カリフ、ハドラト・ミルザ・ナスル・アフマド(在位1965−1982)はアフマドの孫、4代目カリフ、ハドラト・ミルザ・タヒル・アフマド(在位1982−2003)も孫、現在の5代目カリフ、ミルザ・マスルール・アフマド(在位2003−)は曾孫なのである。
アフマドの死をきっかけに、アフマディ運動はふたつに内部分裂してしまった。ふたつの派はいくつかの点でどうしても折れ合うことができなかった。とくにアフマドをどうとらえるかは大きな問題だった。ラホール派は、アフマドがムジャッディド(改革者)であること、約束されたメシアであり、マフディー(導かれた者)であることにおいては、カーディアン派と同意できたが、予言者として認めることには賛成できなかった。アフマドは予言をする聖者(ワリ)であり、アッラーが直接話しかけることはあったが、予言者と呼ぶことはできないとラホール派は考えたのである。アフマド自身は、自分が予言者だとは主張していなかった。イスラム教徒は一般的にムハンマドを「もっとも偉大で最後の予言者」とみなしていたので、イスラム教にとどまるためには、アフマドを予言者のひとりとするわけにはいかなかったのだ。しかしカーディアン派は、ムハンマドは「もっとも偉大な予言者だが、最後ではなかった。アフマドは小さいながらも、予言者のひとりだった」と考えた。
1984年、パキスタン政府は反アフマディヤ法を制定した。これによってアフマディヤ派はムスリム団体と認定されず、非合法団体のような扱いを受けることになった。そのため彼らは正式名称をアフマディヤ・イスラム普及協会からアフマディヤ・アンジュマン・ラホールに変更せざるをえなかった。
ラホール派に属するイスラム教徒は、カーディアン派イスラム教徒より規模が小さいながらも3万人に達するという。カリフ制には否定的だが、リーダーとしてアミルを選んできた。現在は英国やドイツ、トリニダード、インドネシア、タイなどのほか、ナイジェリアにもコミュニティーを作っているという。しかし先に述べたように、インドネシアでは他のイスラム教徒から迫害されるなど、排斥運動にさらされることが多いのも事実である。この少数派の宗教グループにはどのような未来が待っているのだろうか。
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