過ぎ越し祭の陰謀
『ダ・ヴィンチ・コード』の種本ともされる『レンヌ・ル・シャトーの謎』などの著書で知られるマイケル・ベイジェントは、『イエス文書』(2007)のなかで、イエスの磔刑の謎解きに1章を当てている。
ベイジェントによれば、もっとも早く「イエスは磔刑で死ななかった」と主張したのはグノーシス主義の先駆者であったバシレイデス(85?−145?)だった。バシレイデスといえば、ユングがその名を借りて『死者への七つの語らい』を書いたほど、魅力的でミステリアスな思想家だった。エイレナイオス(130?−202?)の『異端反駁』によると、バシレイデスは、十字架上で死んだのはイエスではなく、キュレネ(現在のリビア東部)のシモンという男だったと主張した。マタイ伝には、キュレネのシモンは「イエスの十字架を無理に背負わされた」と記されていて、似ているようでまったく異なっている。たまたま居合わせたがために十字架を背負い、その後イエス・キリストを信仰するようになったのか、身替りに十字架にかけられ、イエスを救うことになったのか。キリスト教の本道からすれば前者でなければならない。なお「ローマ人への手紙」(16章13節)に見えるルポスはこのシモンの子供だとみなされてきた。
イエスが十字架にかけられながらも生き延びたという仮説を出したのは、イスラム教の論者をのぞくと、ヒュー・ションフィールドが最初だった。この聖書学者が著した『過ぎ越し祭の陰謀』(1965)はベストセラーとなり、それとともに各方面から猛烈な批判を浴びることとなった。
ションフィールドの仮説によれば、イエスが安息日のはじまる数時間前に磔にされたのは、そのあとに救出しやすくするためだった。イエスの弟子たちは死んでいるように見えたイエスを十字架から降ろした。いささか乱暴な仮説と言わざるを得ないが、この説に基づいて2004年、BBCは「イエスは死んだのか?」というタイトルのドキュメンタリーを制作した。その番組のなかでナグ・ハマディ文書の研究で知られる宗教学者エレーヌ・ペイゲルスは「イエスが十字架上で仮死状態にあり、すみやかに降ろされたので生き延びることができた、という仮説は十分に成り立つ」と述べた。
十字架上にいたイエスは喉の渇きを訴えていた。するとだれかがビネガー(酸いぶどう酒)に浸された海綿をつけた葦の棒をイエスの口元に持っていった。しかしそれによってイエスは元気になるどころか、息を引き取ってしまったのである。これはビネガーではなく、麻薬のようなものだったのではないかとションフィールドやベイジェントは推測している。(この場面は「マタイ伝」27章48節〜)
「海綿は、アヘンにベラドンナやハッシッシを混ぜたものに浸したのではないか」とベイジェントは推測する。それによってイエスは意識を失い、傍目には死んだように見えたのだ。
ションフィールドやベイジェントが注目するのは「ヨハネ伝」19章31節の兵士が槍で十字架上のイエスのわきを刺す場面だ。わきを刺すと、血と水が流れてきた。
(1)なぜ頭や心臓を刺さずにわきを刺したのか。それによって命がすぐ奪われるということはなかった。
(2)血が流れ出たということは、イエスがまだ生きていることを示していた。
十字架から降ろされたとき、イエスはすでに死んでいるように見えたが、じつは生きていた。墓に運ばれたあと、イエスは薬による治療を受け、蘇生した。ルカ伝やマルコ伝によれば、イエスは近くの新しい墓に移送された。マタイ伝の情報によると、その墓の持ち主はアリマタヤのヨセフであった。ヨハネ伝によると墓のまわりには庭があった。この庭もアリマタヤのヨセフの所有物だろう。そしてアリマタヤのヨセフはニコデモとともに、夜の間に没薬やアロエをもって墓を訪ねているのだ。これらは香料であるが、止血のための薬でもあった。
アリマタヤのヨセフがピラトのところへ行ってイエスの遺体を引き取りたいと伝えた場面は謎めいている、とベイジェントは言う。このときヨセフはイエスのからだのことをソマと呼んだ。ソマとはギリシア語で生きている体のことを指す。一方ピラトはヨセフに向かって話すときは、プトマという言葉を用いているのだ。プトマとは、死骸という意味である。この会話が交わされたとき、ヨセフはイエスが生きていると考え、ピラトは死んでいるとみなしていたのだ。
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