カシミール人イスラエル10支族末裔説 

 カシミールに関するヒンドゥー教の文献としてもっとも古いのは、カルハナの『ラージャタランギニー』である。それはカシミールの王統史だった。

 最初のカシミールの歴史家はムッラ・ナディリだった。スルタン・シカンダル(13781416)の治世のときに『カシミール史』(タリヒ・カシュミル)を書き始めた。

 つぎの歴史家はムッラ・アフマドだった。彼は『カシミールのできごと』(ワカーヤイ・カシュミル)を著した。

 ムッラ・ナディリもムッラ・アフマドもカシミールの民はイスラエルの後裔だと記している。600年前、カシミールの歴史家は、彼らがイスラエルの失われた10支族の後裔であるという伝承を保持していたのだ。

 アブドゥル・カディル・ビン・カズィウル・クザト・ワシル・アリ・ハーンの著した『ハシュマティ・カシュミル』(1820)では、彼らがカシミールのバニ・イスラエル(イスラエルの子ら)であり、神聖なる国からやってきたと主張している。

 フランソワ・ベルニエも『ムガル帝国誌』の「カシミールへの旅」の章の冒頭にユダヤ人起源説について述べている。

 この山の多い地方に、タブノ氏がユダヤ人を見出されるのは喜ばしいかぎりでございます。氏はシャルマネセル王が移住させたユダヤ人を探しておられたのですから。しかしながら彼らは正式にこれらの国に定住したのですけれど、住民のほとんどは異教徒、すなわちマホメット教徒なのでございます。

 この地域にユダヤ教の徴はたくさんございます。ピル・パンチャル山脈を越えてこの王国に入りますと、村々の住人の容貌がユダヤ人に似ていて驚かされます。彼らの表情や立ち居振る舞いは何ともいえない特徴があり、ほかの国の人々とは異なっていて、まるで古代の人々のようなのです。それを私の幻想だとは言えないでしょう。イエズス会の神父やその他のヨーロッパ人たちみながおなじような印象を抱くのですから。

 カシミールに駐在したヤングハズバンドもまた似た印象を持ったようである。

 訪れた者は見目麗しい女たちに驚かされてしまうだろう。彫りの深い顔立ち、長くて大きな瞳、くっきりとした眉、それらはユダヤ人に特徴的なものなのだ。年老いた立派な族長のような老人を見かけるかもしれない。それはいにしえのイスラエル人(びと)の英雄の姿である。人は言うにちがいない。カシミール人はイスラエルの失われた部族の末裔だと。すでに述べたように、カシミールのどこでも、とくに上方の村々で、われわれは聖書の世界の人々と会うことができるのだ。ここではイスラエル人(びと)の羊飼いが日がな一日羊の群れを放牧している光景を見ることができるのだ。(フランシス・ヤングハズバンド『カシミール』)

 このように伝承だけでなく、多くの人々は、カシミール人はユダヤ人とそっくりだと感じたのである。集団錯覚なのだろうか。そもそも彼らのユダヤ人は、現在パレスチナに住むもともとの(移住者でない)ユダヤ人なのだろうか、それともウディ・アレンやキッシンジャーのようなユダヤ系西欧人なのだろうか。

 集団錯覚説がありえなくもないのは、現在カシミール人やアフガン人をユダヤ人の末裔と唱える人がいなくなったことだ。ユダヤとイスラムが反目するいま、そんなことを心に思っても口にする人はいないだろう。タリバンを形成するのはほとんどがパシュトゥン人である。パシュトゥン人、すなわちアフガン人のタリバン兵士にむかって「あなたたちの先祖はユダヤ人ですよ」などと教える勇気のある人はいないだろう。

 




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