融け合うイスラム教とヒンドゥー教
カビール、シルディ・サイババ、そしてヒンドゥー・スーフィー
宮本神酒男
神秘詩人カビール(1440?-1518?)と霊的導師シルディ・サイババ(?-1918)に共通点があるとするなら、それは時とすると、イスラム教徒かヒンドゥー教徒か判然としないことだろう。両者とも厳密にはイスラム教徒なのだが、求めるものは普遍的な真理であり、それはイスラム教やヒンドゥー教の枠組みを超えているのである。
イリーナ・トゥイーディー(1907-1999)と弟子のルウェリン・ヴォーン=リー(1953- )もインドに根づいたイスラム教神秘主義(スーフィズム)の実践者であり、イスラム教徒には違いないのだが、思想的にはヒンドゥー教徒と大きな隔たりはない。
もちろんカビールやシルディ・サイババがインド人であるのにたいし、トゥイーディーとヴォーン=リーはロシア人(インドで修行し、のちに英国定住)と英国人(米国に移住)という非インド人である。この四者をインドの神秘家として同列に並べることはできないとしても、宗教の枠を超えた真理を求める、ある意味インド的な普遍宗教家とみなせられるだろう。
ヒンドゥー・スーフィー
私が神秘家(スーフィー)ルウェリン・ヴォーン=リーの名を知ったのは、オプラ・ウィンフリーがインタビューしたスピリチュアルな人々のひとりだったからである。オプラは、司会者として、また著述家、プロデューサー、慈善家として、ミッシェル・オバマとならんでアメリカでもっとも知られたアフリカ系の女性だ。彼女を全米一の有名人にしたのは、ホストをつとめたロング・ヒット・トーク番組「オプラ・ウィンフリー・ショー」である。番組が2011年に終了したあと、オプラは自分の放送局を立ち上げ、あらたにトーク番組を制作し、それをもとにした本を何冊か出版した。そのうちの一冊『日曜日の智慧 魂のスーパー対話から得られた人生を変える洞察』(2017)を読んで、私はゲストのひとりヴォーン=リーのことを知り、ヒンドゥー・スーフィーという存在にも驚かされた。ちなみにほかのゲストは、ゲーリー・ズーカフ、エックハルト・トール、ディーパック・チョプラ、ジャック・コーンフィールド、ラム・ダス、マイケル・A・シンガーといった精神世界のそうそうたるメンバーである。
ロンドン生まれのヴォーン=リーは幼い頃からスピリチュアル志向が強く、さまざまな導師のレクチャーに足を運んだ。そして19歳のときに年長のロシア人女性イリーナ・トゥイーディーと出会う。イリーナはインドでナクシュバンディー・ムジャッディディー・スーフィー教団のグルのもとで修業を積んだ珍しい白人女性だった。ヴォーン=リーはイリーナの弟子となり、のちにおなじく弟子だった妻とともに米国に移住、ゴールデン・スーフィー・センターを設立し、カリフォルニアを拠点に世界中にヒンドゥー・スーフィーを広める役割を担うことになる。そしてオプラのトーク番組に出演したことによって、彼は全米でメジャーな存在となった。
私がここで強調したいのは、この教えの系統がヒンドゥー・スーフィーであることだ。しかしヴォーン=リー自身はインドで修行したわけではなく、師のトゥイーディーがインドでナクシュバンディー派の教えを継承したものをさらに受け継いだのである。ヴォーン=リーはクルアーン(コーラン)の名も、アッラーやイスラム教の専門用語を口にすることも少なく、本当にスーフィーなのだろうかといぶかしく思ってしまう。スーフィーというより、ニューエージャーのほうがふさわしい名のようにさえ見える。しかしそれは表向きの顔なのだろうか。
ナクシュバンディー教団のなかでもムジャッディディー(革新者の一派という意味)と呼ばれる分派はとくに、寛容で、開放的で、やはり枠組みやレッテルを嫌う。この教団の開祖は中央アジアのブハラ(現在はウズベクスタン)近郊カスリ・アリファンに廟があるホージャ・バハーアッディーン・ナクシュバンド(1318-1389)である。カシュガル(新彊ウイグル自治区)に大きなホージャ家の廟があるが、じつはこのホージャ家はかつて東トルキスタンにおける有力な一族だった。
1526年にバブルがインドを征服し、ムガル帝国が誕生するが、そのころ兵士の多くはナクシュバンディー教団のホージャ・ウバイドゥッラー・アフラルを信奉していた。こういった経緯で、ナクシュバンディー教団がインドにはいり、広まり、大きな勢力になったのである。インドで支持されたスーフィー教団には、ほかにチシュティー教団、スフラワルディー教団、カディリー教団、シャッタリー教団などがあった。
インドで最初に広く人気を集めたナクシュバンディー教団のスーフィーは、カブール生まれのホージャ・バーキー・ビッラー(1564-1603)だった。そして中興の祖というべき存在がシャイフ・アフマド・シルヒンディ(1564-1624)である。
シャイフ・アフマドは、アクバル帝の時代、「第二ミレニアム(千年紀)のムジャッディド(革新者)」という称号を得ている。1591―92年はイスラム暦の1000年にあたっていた。この称号からナクシュバンディー教団のムジャッディディー派という名称が生まれた。ヴォーン=リーに受け継がれたスーフィズムはこのムジャッディディーの教えがさらにヒンドゥー化したものである。
理論家であるシャイフ・アフマドは、スーフィーの段階を三つに分けた。それはウィラヤ(wilaya)、すなわち聖人のようにあること、シャハダ(shahada)、すなわちスクル(sukr)つまり神秘的陶酔によってスーフィーがめざす意識を得ること、そしてシッディキヤ(siddiqiya)、すなわちスクルをも超え、至高の状態にいたることの三つである。
スーフィーをめざす者はこのように段階を踏んでステップアップしていくわけだが、実際グルから教えてもらわなければ、具体的なことは何もわからない。ヒンドゥー教や仏教(とくに密教)と同様、スーフィズムにおいてもグルと弟子の関係は重要である。
トゥイーディーの場合もそうだった。インド人グルは彼女に言った。「私はなぜ私はあなたのグルであると言わねばならないのか。あなたが私をグルとみなすなら、そうであろう。見なさないなら、私はグルではない」と。グルと弟子の関係は一瞬で終わることもできる。そんなにもはかないものであるゆえ、逆に絆は堅固なものともいえる。
イリーナ・トゥイーディーのスーフィー導師(バイ・サヒブ ラダ・モハン・ラル)のもとでの修行日記『火の娘』を読むと、仏教かヒンドゥー教の修行日記ではないかと錯覚する。たとえばディヤーナについて学んだ1962年頃の日記。
*禅定を意味するディヤーナ(Dhyana)は中国にはいって「禅那」と表記され、縮まって「禅」(Chan)となった。日本では「禅」(Zen)と読まれた。日本や中国では禅といえば禅宗の坐法をとくに指すことになったが、本家のインドでは瞑想全般を意味していた。スーフィーの瞑想をディヤーナと呼んでも(そこがインドであれば)じつはそれほど不自然ではないのだ。
弟子の若者がシッダ・アーサナ(達人の坐法)のポーズで坐していた。イリーナは師に「なぜこのポーズなのか」と聞く。「私はとくにどのポーズをせよとはいっていない。彼が自分で決めたことだ」と師はこたえる。イリーナは食い下がって「彼は完全に{神に}降伏したということですか」と聞く。「完全に降伏したかどうかなんて、私にわかるわけがないだろう」「ディヤーナをおこなうということは、完全に降伏したときだと理解しています」「ディヤーナは最初の段階だよ。ディヤーナに達していなければ、はじまってもいないのだ」