イスラム教ファキールにしてヒンドゥー教聖者、シルディ・サイババ 

 シルディ・サイババがいかに宗教の枠を超えた存在であったかを示すエピソードがある。シルディ村に、のちにサイババの高弟となるソーナル(金細工師)カーストに属するマハルサパティという男がいた。彼の一族は先祖代々シヴァの化身であるカンドーバという神を奉じてきた。カンドーバ神は彼の身体に憑依(アヴェーサ)し、ことばを人々に伝えた。つまりマハルサパティはシャーマンやオラクルのような祭司だった。

1872年、イスラム教徒の結婚祝賀パーティのグループとともにサイババはシルディ村にやってきた。このとき村はずれのマハルサパティ寺院の門前で、マハルサパティは宿を請おうとしたサイババとはじめて会った。イスラム教のファキール(行者)をヒンドゥー寺院に泊めるわけにはいかず、彼はサイババを門前で追い払わざるをえなかった。サイババはこのとき「ヒンドゥー教徒の、イスラム教徒の、そしてすべての人々の神はひとつである。それなのにあなたは私を拒むという。よかろう、私はほかに行くことにしよう」と語った。サイババはさほど遠くない小さな土壁のモスクに腰を落ち着けた。

 マハルサパティはひどく後悔する、もしかすると聖人のようなお方を追い払ってしまったのではないかと。サイババの伝記を読んで不思議に思うのは、サイババと接した数知れないヒンドゥー教徒が、彼がイスラム教のファキールであるにもかかわらず「聖性」を感じ、あがめてしまうことである。なかにはサイババがイスラム教徒であるがゆえに嫌悪感を示す者もいたが、多くは彼を神のようにみなし、ひれ伏した。サイババをヒンドゥー教の神々の化身と考えたのである。

 現在においても、インド、とくに北西部に行くと、町中にシルディ・サイババの像があふれ、たくさんの自称熱狂的なシルディ・サイババ信者に出会って驚く。彼らの大半はヒンドゥー教徒である。

 しかしシルディ・サイババはイスラム教徒のファキールであり、つねに「アッラー、マリク」(神は王なり)というエピグラムを口にした。着ているものも、ウルドゥー語をしきりに話すことも、イスラム教徒であることを示していた。ペルシア語の詩篇を口ずさみ、クルアーン(コーラン)の教えを説いた。イスラム教徒にとって、サイババはイスラム教徒のファキールであり、ピール(イスラム教導師)と呼ばれる存在だった。しかしモスクにシヴァリングの石(男性器を模した聖なる石)を持ち込んで崇拝するさまはイスラム教徒を困惑させた。

 彼自身が「私の両親はヒンドゥー教徒だった」と明かし(生地はパトリという町)、バガヴァッド・ギーターやヒンドゥー教聖典から言葉を引用して真理を説くこともあったので、ヒンドゥー教徒は彼をヒンドゥー教のグルとみなした。しだいにサイババはヒンドゥー教徒にとっての聖者となっていった。信者が聖者の足元にひれ伏して拝む姿はヒンドゥー教独自のものだった。しかしヒンドゥー寺院でアッラーをほめたたえ、「ラーマは神なり、シヴァはアッラーなり」と唱えるさまはヒンドゥー教徒を困惑させた。

 イスラム教徒の信者の一部が強く不満を持ち、ヒンドゥー教徒襲撃をもくろんだことがあったという。このときはサイババによって押しとどめられた。しかし紆余曲折を経て、最終的にはイスラム教徒も、ヒンドゥー教徒も融和し、サイババの教えに耳を傾けるようになった。サイババはいった。「神はひとつである。ラーマ、あるいはラヒームと、異なる名で呼ばれるかもしれないが、ひとつである。だから争うのは、やめなさい。互いに愛しなさい」

*シルディ・サイババ(1838?-1918)に関する本は英文ではたくさん出版されているが、現在、日本語で書かれたものはヘマドパントの古典的な著書「Sri Sai Satcharita(邦題:カリユガを生きる 1981)」の邦訳だけである。
 この唯一の訳されたシルディ・サイババの伝記が、表現は悪いが、サティヤ・サイババ(1926-2011)に乗っ取られている。サティヤ・サイババ自身が自分はシルディ・サイババの転生であると述べているが、インドに多数いるシルディ・サイババの信者は、かならずしも認めていない。『カリユガを生きる』の末尾には両サイババの教えに共通する点を「対照訳」として列挙し、訳者の解説では『ウパニシャッド』や『バガヴァッド・ギータ―』などについてのサイババ(サティヤ・サイババ)の教えを解説している。ここまでしてサイババがひとつであることを強調しなければならないのだろうか。
 イスラム教徒のファキールであり、クルアーン(コーラン)の句をつねに口にしていたことは、秘せられ、なかったことにされるのだろうか。英文の「Sri Sai Satcharita」を読むとき、当然のことながらサティヤ・サイババのことは出てこない。サティヤ・サイババがシルディ・サイババの転生だと信じる人は、各自、この伝記のなかに共通点を見いだせばいいだけの話である。