唐公主とネパール公主
観音の化身であるチベットのソンツェン・ガムポ王は仏教が十分根づいていないので、二体の仏像を請来すべきと考えた。仏像とは、ネパールのジョ・ミンギュル・ドルジェと唐のジョ・トゥクチェ・チェンモ(ジョウォ)のことである。それらの国々が宝をそんなにたやすく手放すとは思えなかったが、秘策はあった。各国と縁談を結び、皇女を妻として迎えるとき、持参金のかわりに仏像を要求することができるとにらんだのだ。
ソンツェン・ガムポ王は黄金や種々の贈り物を持たせ、百人の大臣たちをネパールに送った。ネパールの国王と王妃はたいへん喜び、女神ターラの化身である娘のベルサ・ティツンを観音の化身ソンツェン・ガムポに嫁がせることを同意した。彼らはさまざまな贈り物とともにベルサ・ティツンを送り出した。贈り物のなかにはジョ・ミンギュル・ドルジェも含まれていた。ネパール公主とソンツェン・ガムポの豪華な婚礼は何ヶ月もつづいた。
ソンツェン・ガムポはつぎに唐の仏像を欲したが、ネパールのように簡単にいきそうになかったので、有能な大臣を唐に送ることにした。大臣選びは神にゆだねた。聖なる中央の高山で香を焚き、硬貨を投げて神に問うた結果、選ばれたのがガル・トンツェンだった。唐の皇帝が皇女を手放すのは容易ではないと考え、ソンツェン・ガムポは三つの手紙をガル・トンツェンに託した。しかしそれらは物事がうまく運ばない時だけに開くよう言い含めた。
ガル・トンツェンが唐の都長安の朝廷に着くと、ダルマの国インド、トルコ石の国ネパール、富の国タジク(ペルシア)、戦いの国ケサル王の大臣たちがすでにやってきていて、文成公主との婚礼を求めて火花を散らしていた。唐の皇后は仏法の国インドに娘を嫁がせたかったが、宝石に目がない皇帝はタジクに嫁がせたかった。公主の叔父はケサル王に嫁がせたいと思い、公主自身はトルコ石が好きなのでネパールに惹かれていた。このようにさまざまな意見が噴出したので、皇帝は各国の大臣たちに難題を出して、競争させることにした。
大臣たちに出されたのは、だれも成し遂げたことがない「大いなる螺旋状の穴のあいたトルコ石」に糸を通すという難題だった。三日間が与えられたが、ガル・トンツェン以外はだれも成功することができなかった。ガル・トンツェンは外に出て、蟻を探し出し、その体に油をよくしみわたらせた。つぎにトルコ石を屋根の上に置き、日射に当てた。ガル・トンツェンは蟻の胴体に糸をくくりつけ、トルコ石の穴に押し込んだ。日射によってトルコ石は熱くなっていたので、蟻は急いで穴の出口から出たのだった。ちなみにこのとき以来、蟻の胴はくびれているのである。勝利者はこうしてガル・トンツェンであることがはっきりしたのだが、皇帝は公主を渡さず、さらにつぎなる難題を出した。
大臣たちは「唐の大いなる宴会」に出席することを求められた。彼らはたくさんの羊を屠り、毛を刈り、その肉をすべて食べ、何樽ものチャン(大麦の発泡酒)を飲まなければならなかった。ガル・トンツェン以外は宿舎に戻ることすらできなかった。
ガル・トンツェンの勝利は間違いなかったが、皇帝はなかなかそれを認めようとしなかった。そこでガル・トンツェンは手紙のひとつを皇帝に渡し、公平であるよう求めた。
皇帝は最後の難題を出した。それは、宮廷内の花園に五百人の宮女を集め、そのなかから公主を選び出すというものだった。ガル・トンツェンは宿舎にもどり、女主人のアプチ・ガムに相談した。彼女の娘は五百人の宮女のひとりだったが、もし見分け方を教えたら、宮廷内にたくさんいる占星術師が見破ってしまうだろうと女主人はこたえた。ガル・トンツェンはそれならば占星術師たちを混乱させてやろうと言った。
彼は三つの大きな白い石の上に水の満たされた器を置いた。器の水面の中央にさまざまな鳥の羽を入れてかきまぜた。そして器の横に木の葉を撒いた。彼は網を女主人にかぶせ、ふたりとも器の横に坐った。また彼は大きな鉄の棒を彼女の口にくくりつけ、自分の耳には銅の皿をつけた。こうして女主人はガル・トンツェンに見分け方を教えた。
(公主の降嫁の)のちのことだが、皇帝はだれがガル・トンツェンに見分け方を教えたのだろうかといぶかり、占星術師たちを呼んでたずねた。彼らは言った。
「三つの大きな雪山があり、その間に大きな湖が見えます。湖の中央にはたくさんの鳥がいて、岸辺は木々が茂っています。その傍らには、鉄の嘴と千の眼をもつばけものがいます。こいつが教えたのです」。
最後の試験の日、ガル・トンツェンはたやすく見分け、公主の背中に矢を挿して「見つけました!」と叫んだ。
それでもなお皇帝は公主を手放そうとしなかったので、ガル・トンツェンはもうひとつの手紙を渡した。それにはもし降嫁を認めないなら、十万の兵を差し向けることになるだろうと書いてあった。皇帝はついにあきらめ、嫁入りを認めた。
公主がラサに到着したとき、チベット人たちは宮廷舞を踊り、熱烈に歓迎した。そして公主はジョ・トゥクチェ・チェンモ(ジョウォ)を贈呈したのである。