ノルサン王子

 昔々、南インドに「繁栄の北国」(Byang phyogs mnga’ ldan pa)と「純種の南国」(Lho phyogs rigs ldan pa)という二つの国があった。南国はシャクパ・ションヌ(Shag pa gzhon nu)という非道で愚昧な王が治めていた。いっぽう、北国はノルチェン王が治め、その子ノルサン王子(rGyal sras Nor bzang)は聡明かつ勇敢で、人心を得ていた。

 さて南国の王は自国のたび重なる天災を防ぐためには「黒い蛇を口にくわえる者」(sBrul nag kha ’dzin)と呼ばれる呪術師に南国からいなくなったナーガを連れ戻してもらうことが必要だと考えた。呪術師は、北国にある「蓮華の魂の湖」(Padma bla mtsho)へ向かった。ここには南北の国のナーガが集まっていた。

 ナーガの女王は南国に帰りたくなかったので、湖岸に住むある漁師の若者に阻止するよう頼んだ。漁師は女王から魔術的な砥石をもらって、剣の刃を研いだ。漁師はその剣によって呪術師を殺した。女王は感謝の印として「如意宝」(nor bu bsam 'phel)を授けた。

 漁師はこの「如意宝」をもらったものの、それを何に使ったらいいのかわからなかった。そこでバラモンの老夫婦に尋ねると、幸福の洞窟に住む隠者に差し上げたらいいのではないかと助言した。隠者は齢五百年を越えていた。洞窟を訪ねた漁師は不死身の隠者を見て驚き、秘訣を尋ねた。隠者は「ブラフマーの浴する池」で泳いでいると打ち明ける。そこには女神がやってくることもあるという。

 漁師は隠者に懇願してその池に連れて行ってもらった。池には美しい女神、イトク・ラモ(Yid ’phrog lha mo)の姿があった。見た瞬間彼は情欲を覚え、またナーガの助けによって女神を捕らえることができた。しかし漁師では女神の相手にされなかった。そこで隠者は彼に北国の王子ノルサンにお見せすればいいのではないかと助言した。

 北国の宮廷は、このみすぼらしい漁師が池を守って国を救ったこと、またこの世のものとは思えぬ美女を連れてきたことに大いに驚いた。

 王子と女神は一目見た瞬間、恋に落ちた。そしてすぐ結婚し、宮殿でしばらくの間、幸せに暮らした。問題は王子に500人の妻がいて、激しい嫉妬を燃やしていることだった。

 黒魔術師のハリは彼女らのために陰謀を企んだ。ほかの地域との戦争をでっちあげ、王子が出陣せざるをえない状況を作り出した。王子の留守の間にこの新しい妻を排除しようとしたのである。

 黒魔術師のハリは、老王ノルチェンの夢の中に入り込んだ。翌朝老王はハリに夢の解釈を尋ねた。ハリは「この夢の意味するところは、わが国が邪悪の脅威にさらされているということです。わたくしがその邪悪を祓う儀礼をとりおこないましょう。ただこの儀礼のためには聖なる者の心臓が必要であります」とこたえた。

 これによって天上人であるイトク・ラモの身に危険が及ぶ可能性が出てきた。500人の妻たちはいっせいに「イトクの心臓を差し出せ」と叫び始めた。イトクはその様子を見て、老皇后から頭飾りをもらったあと、大空に飛び立っていった。ハリや王妃たちは歯ぎしりしてくやしがった。

 イトクは「幸福の洞窟」に立ち寄り、結婚指輪を隠者に渡し、「ノルサン王子がここに私を探しに来たら渡してください」と言って、天上世界の家族のもとに飛んでいった。

 戦争を終え国に戻ってきた王子は、イトクが去ったことを知り、悲嘆に暮れた。しかしすぐさま悲しみをこらえて妻探しの旅に出た。

 神々から教えられて、王子は幸福の洞窟にやってきて隠者と会った。隠者は指輪を渡し、教えを授けた。王子はいくつもの難関を乗り越え、天上世界に至り、そこで妻と再会した。

 イトクの父親である馬頭王は最愛の娘を二度と地上に送りたくはなかった。そこでいくつもの難問を編み出し、王子が娘にふさわしいかどうか試験することにした。王子はすべての難問をクリアしたので、父親は娘が地上に行くことをしぶしぶ認めた。

 彼らの帰還を老国王夫婦や人民は大いに歓迎した。黒魔術師や500人の王妃たちは当然罰せられた。老王ノルチェンはその位をノルサンに譲った。王ノルサンと天界からやってきた王妃はその後もいつまでも幸せに暮らしたという。