GW・カーヴァー伝  

奴隷から科学者になった男 

ジャネット&ジェフ 宮本訳 

 

08 タスキーギ 

 両手で手紙を持ってジョージ・カーヴァーは静かに坐っていた。身体はびくとも動かなかったが、そこに書かれているものを読んで心臓が高鳴っていた。彼はもう一度一枚目を広げて重ねて読んだ。本当だったのだ。ブッカー・T・ワシントンはジョージがアラバマ州メーコン郡にあるタスキーギ通常産業大学に新たに創設された農業学部の学部長という地位に興味を持つかどうか知りたがった。

 ジョージはほかからの勧誘を断ってきていたので、この申し入れには心惹かれるものがあった。彼はタスキーギ研究所について聞いたすべてのことを思い出そうとした。それは十五年ほど前、元奴隷を訓練し、技量を身につけ、職に就くために、ブッカー・T・ワシントンによって創設された黒人の学校だった。ワシントンは前の年の1895年、アトランタ綿花・州と国際博覧会のオープニング・スピーチによって名を馳せていた。南部で黒人が白人を前にしてスピーチをおこなったのは、彼がはじめてだった。同様に、ブッカー・T・ワシントンは当時のグローバー・クリーブランド大統領の演壇に呼ばれたことがあった。

 スピーチの結果、政府はタスキーギ大学にもっと予算を割り当てることに決め、私的な寄付金が集まるようになった。手紙の中でブッカー・T・ワシントンは、財源が増えたことによって大学は九つの学部を増設でき、農業やその他実践的な職業の技術について教えることができるようになったとジョージに説明した。ワシントンはまたこれらの学部のうち新しい農業学部がもっとも重要になるだろうともいった。南部の黒人の85%は零細農家で、彼らのほとんどは収支内でやりくりするのがたいへんだった。奴隷として彼らは一種類の作物、通常は綿花(コットン)を育てるのに慣れていた。彼らは小さな農地でそれを育てていたのである。南北戦争のあと、綿花市場の相場は激しく下落していた。黒人の農民のほとんどは、収穫のあと売るよりも、綿花を植え、栽培することに力を注いでいた。ほかの作物を育てるのは自信がなく、お金を借りてもっと多くの綿花を育てていたのである。ブッカー・T・ワシントンは、新しい農業学部がこの問題に取り組んでいくことを願った。

 ジョージは立ち上がり、部屋の中を歩き回った。彼は貴重なサンプルであるアマリリスの腹葉を調べていたが、手をとめた。何をすべきなのだろうか。彼はアイオワ州立大学で自分の人生を作るために一生懸命働いてきた。彼は今や教職員と学生双方から認められたプロの講師である。彼は立派な温室を持ち、そこで実験をおこなうこともできる。彼は二十分床の上を歩き回り、ブッカー・T・ワシントンの手紙に何と答えるか決めた。彼はデスクの前のイスに坐り、ペン先をインク壺に浸し、手紙をしたためた。

 

親愛なるワシントン様 

つねに<わが人々>の大多数ができうるかぎり大いなる恩恵を受けることは、言うまでもなくわが人生における大いなる理想であります。そして長い年月の間私自身余念なく準備をしてきたものです。この教育の方向がわれわれの人々にとって自由の黄金の扉を開ける鍵となると感じております。

 あなたの大学に関連したカタログとその他のデータを送っていただければ幸いです。そうすればあなたの研究の見通しと可能な、できうるものからいくつかのアイデアを得られるかもしれません。あなたと面会する特権があるのはすばらしいことだと考えます。もし私に提供があるならば、私としましてもそれを第一に考える所存です。

 神のご加護あれ、あなたの仕事に繁栄あれ。

1896年4月12日 ジオ・W・カーヴァー 

 

 ジョージは坐ったままいま書き記したばかりの言葉を見つめた。もしブッカー・T・ワシントンが彼に重要な学部長の地位の打診をしたら、自分が受けることを知っていた。彼はまたここで決めることが一生を左右していくことも知っていた。ジョージは南部に住んだことはなかった。そしてとくに住みたいわけでもなかった。そこで黒人に対して起こっている恐ろしいことも聞いていた。リンチはあちこちで発生していた。ジム・クロウ法は静かに、効果的に南北戦争以降黒人が得た権利を侵食していた。戦争後の再建時代の間、黒人は選挙権が与えられていた。結果として、彼らは黒人に投票し、教育や農業にも進出し始めた。

 現在、再建時代が終わってから19年、北部同盟は<ニグロ運動>にうんざりしていた。再建時代の進歩はいま衰退していた。南部は人種戦争に入りそうなところでなんとか均衡を保っていた。白人は黒人が力をつけ、奴隷制に関して仕返しをしてくるのではないかと恐れていた。この恐怖を撃退するため、法律によって黒人と白人を近づけないようにしたのである。これらの法律はジム・クロウ法と呼ばれた。これらはあくまで分離するものであり、黒人と白人には同等の便宜と機会が与えられるはずだった。だが現実は違っていた。まるでもう一度奴隷に戻ることが奨励されているかのようだった。たとえば白人農家は農場で働くことを条件に、部屋と食事を与えて黒人の孤児を受け入れることができた。子供たちに金銭が払われることはなく、教育を受けさせることもできなかった。

 カンザス州フォート・スコットでの憎悪の群衆の邪悪なパワーを目撃して以来、ジョージは白人が彼を個人的に知らないシチュエーションに身を置くのを避けていた。アイオワ州立大学では教職員や学生のなかで黒人はただひとりだった。しかしだれもが彼は親切で、知的で、信心深い人間であることを知っていた。エイムスでは彼は安全だった。しかし人々が彼について黒人であることしか知らない南部ではどうだろうか。

 それは深刻な問題だった。実際元奴隷の権利のために立ち上がったブッカー・T・ワシントンの命は、危険にさらされていた。他の黒人を助けるという確信がなければ、そのようなリスクを取ることはできなかっただろう。

 ブッカー・T・ワシントンに返事の手紙を出した九日後、タスキーギから手紙が届いた。すぐさま彼は封を開け、中身に目を通した。ブッカー・T・ワシントンはまずタスキーギの全黒人教職員には学生にとっていいロール・モデルになってもらいたいと言っていた。そしてジョージは米国で、またおそらく世界で唯一新しい農業学部を率いていく能力を持った黒人であると言った。最後にジョージがその地位に就くことを引き受けてくれるなら、年1000ドルのサラリーと学生寄宿舎内の部屋、カフェテリアの食事を提供しようと書かれていた。

 ジョージは手紙を読めば読むほど、つぎのステップはタスキーギであると確信するにいたった。彼は引き受ける旨を書いて、ブッカー・T・ワシントンに手紙を送った。彼はつぎのように書いた。

 

 私はあなたの大学における多忙で、愉快で、恩恵のある時間を楽しみにしています。われわれ黒人をよりよい状況に導くキリストの恩寵を通して、できうるかぎりの力を尽くしてあなたに協力できることはたいへん喜ばしいことです。数か月前、私はあなたがシカゴで行った感動的な講演を読みました。あなたのおっしゃったことすべてに対し、アーメンと唱えました。さらには<人種問題>に関しても、あなたは正しい指針を示されました。

 

 ブッカー・T・ワシントンの人種問題の解決法はシンプルだった。彼は黒人であれ白人であれ、すべての南部の農民が生きていくために格闘していて、互いに助けながら働いていく道を探しているはずだと考えていた。黒人の農民が白人の農民に負けない能力があることを示せば、公民権もついてくるだろうと考えた。

 人種問題について話すのが好きでなかったジョージはワシントンに同意した。もし黒人が静かに自分たちの人生を改善していったなら、白人も結果的に黒人のために場所を譲るようになるだろうと考えた。このアプローチの仕方はジョージに関してはうまくいった。たとえばある大学の入口で拒絶されたなら、彼は受け入れてくれる別の入口を探した。今彼は同僚に受け入れられるのを楽しんでいた。

 1896年10月がやってくると、ジョージは荷物をまとめてアイオワのエイムスをたち、アラバマのタスキーギへ向かった。彼の個人的な所有物はわずかにすぎなかった。すなわち少しばかりの衣類と何年にもわたって受け取った多数の手紙である。しかしアイオワ州立大学にいる間、ジョージは植物に関するたくさんの本と球根と真菌のコレクションを集めていた。彼はタスキーギに落ち着いたら交配の研究をはじめるつもりだったので、この真菌のコレクションはパメル教授に寄贈した。

 アイオワ州立大学のスタッフや学生はジョージのために大きなさよならパーティを開催した。彼らは友人や仲間にさよならを言いたくはなかったのだが。彼は自分は手紙を書くのが得意である、だからもし手紙を書いてくれたらすぐに喜んで返事をかくつもりだと言った。ジョージが意表を突かれたのは、パメル教授が歩み出て贈り物を渡したことである。これはパーティに出席した全員がお金を出し合って買ったものだった。贈り物の包みを開けて彼の目は驚きで見開いた。それは新しい顕微鏡だった! ジョージが何年も夢見ていたものである。

 贈り物に関しすべての人に謝意を表するのはむつかしかった。アイオワ州立大学の長年にわたる友情は言うまでもなかった。彼は時間ができしだいエイムスに戻ってくることを約束した。

 1896年10月8日、ジョージ・カーヴァーはタスキーギ通常産業大学の門の外に立っていた。そこが壮大な建物とは期待していなかったし、実際そうではなかった。地面はおそろしく清潔だったけれど。彼の足元に吹きつける冷たい北風にゴミ一つ舞っていなかった。

 学校の中はジョージが想像したものとはまったく異なっていた。それは高等教育の場のはずなのだけれど、現実には出願した人はだれも拒まれなかったのである。つまり一部の学生は読み書きもやっとというありさまで、小学校に通うべきレベルだったのだ。それだけでなく農業学部を発足するだけの設備も予算もなかった。一部の学生は農業研究のクラスに参加する契約に署名していたが、それが田んぼの耕し方や穀物の植え方を学ぶことだと知るや否や、出願をとりやめ、ほかのクラスに入ったのである。

 問題は、農業そのものがほとんどの学生にとって<魅惑的>ではなかったことである。大学まで進んだほんのわずかな黒人の学生にとって、農業は興味の対象ではなかった。彼らの心の中では、農業は奴隷の焼き印が押されていた。彼らの両親は焼き印を押されて労働を強いられていたのである。かわりに若い黒人は弁護士や医者、プランテーションのオーナーになる夢を抱いていた。結果としてジョージが最初に取り組むべき課題は、いかに自分のクラスの学生を集めるか、ということになった。

 学部長という新しい地位に就き、ジョージは学校の二つの養鶏場、酪農場、果樹園、養蜂場を担当することになった。しかしこれらのどれも期待されたほどの生産を達成していなかった。職員らは責任を引き継ぐジョージが来ればどうにかなると思っていた。新しい農業学部を運営していくだけでなく、ジョージは雑多な仕事のすべてをやらなければならなかった。学校の下水道や飲み水の安全管理、学校の庭園の景観づくり、およびそれらを清潔に保つこと、獣医の医療サービス、はては学校の敷地内で荷馬車に無謀運転させないことまで含まれていた。四人か五人でできる仕事だったが、ジョージはアシスタントなしで、ひとりきりでやらねばならなかった。

 ジョージは身を粉にして働いた。彼はどうにか農業を勉強する13人の学生を集めることができた。そして教室兼科学ラボをセットアップしはじめた。アイオワ州立大学から別れの贈り物としてもらった顕微鏡がおおいに役立つことになった。というのも学部全体でそれが唯一の設備だったからである。すぐにジョージのクラスの学生は学校の裏のゴミ捨て場の横に立っていた。折り返しに花を挿した背の高い、やせた教師は、「まだ役に立つたくさんのものが捨てられています」彼はゴミの中から古い壺を取り出した。「この壺の底にいくつか穴を開ければ、よい篩(ふるい)になります。あなたがたそれぞれにこのゴミ捨て場で何か役立つものを見つけてほしいのです」

 学生たちは慎重にゴミの山に登り、砕かれたコップや古いゴムの管の破片、すり切れたタイヤ、古い錆びた綿繰り機などを見つけ出した。何かを見つけ出すと、ジョージは彼らを鼓舞した。彼はクラスの目的の一つは、すべての必要なものを買うのでなく、小規模な農民がいかに自分たちで作り出せるかを示すことだと決めていた。

 空っぽのラボに戻ったジョージは学生たちに、ゴミの山で見つけたものをどうやって科学の装備に変えるか示し始めた。瓶は試験管の代替になった。古い自転車のスポークは工作して組み合わせ、三脚になった。アイロンは物質をすりつぶすための硬い土台として使うことができた。学生たちはすぐに何かを見つけ出し、それが何になるか夢中になって考えた。

 つぎの週の間、あらゆるガラクタが集められ、サイエンス・ラボに運ばれた。ほかの学部の学生の大多数と教職員もラボにやってくるようになり、ジョージが何にとりかかっているかのぞくようになった。彼は魔術師と呼ばれた。無から何かを作り出すことからこう呼ばれたのである。あだ名はその後ついて回ることになる。ジョージ・カーヴァーはタスキーギの魔術師として知られるようになった。

 もう一つ、よく知られたジョージについた称号があった。多くの白人は黒人の名前の前にミスターやミセスが入るのが許せなかった。彼らは黒人が奴隷であったことを思い出し、かつて綿花を摘み、オーナーの前で静かに立っていたのに、ミスターやミセスを使うのは傲慢だと考えたのである。このことはジョージにとっても、タスキーギのほかの教職員にとっても、ジレンマとなったのである。職員は学生たちが彼らをファーストネームで呼ばせることはできなかった。そしてカーヴァーやワシントンのように、ラストネーム(姓)だけで呼ぶのも敬意を欠いていた。結局、ジョージの前にドクターという称号を置くことによって問題は解決することができた。というのも黒人がそう呼びかけられることに反対する人はいなかったからである。こうしてジョージはドクター・ジョージ・カーヴァーとして知られるようになった。

 政府からの金銭的支援がタスキーギに届き始めたが、希望金額には程遠かった。支援不足はジョージを苛立たせた。政府が分配するファンドによってタスキーギの農業研究所を創立することができると彼は聞かされていたのである。最終的にこの目的のための予算は確保できたのだが、この地域の白人の学校の似た研究所のために分配された予算と比べると十分の一にすぎなかった。ジョージはこの件についてブッカー・T・ワシントンにひそかに不満を述べたが、学生たちに自分のフラストレーションを見せることはできなかった。

 ジョージ・カーヴァーの授業は面白いらしいという噂が広がっていった。学生たちはこのクラスに移り始めた。学期が終わるまでに3人の女子学生を含む27人が農業学部に登録された。

 資金と装備に限りがあったが、ジョージはベストを尽くした。もちろんお金と装備がもっとあるにこしたことはなかった。彼は農業学部を本格的に始動させるために、夏休みを有効に使う方法を考え始めた。

 ジョージは手に手紙を持ってもてあそんでいた。それは古い友人であり教師のジェームズ・ウィルソンからの手紙だった。彼は今マッキンリー大統領政権の農務長官だった。手紙の中で彼はジョージをワシントンDCに招待していた。好きなときに訪ねてきてくれ、というものだった。彼は以前からワシントンへ行ってスミソニアン博物館を訪ねようと考えていた。スミソニアン博物館の館長と話をして自分のリサーチのスポンサーになってもらえないか、装備の寄贈をお願いできないかと考えていたのである。ワシントンにいる間にジェイムズ・ウィルソンを訪ねようと彼は決心した。

 ウィルソン長官はジョージに彼の新しい地位について多くの質問をした。ジョージは彼にタスキーギ大学のすべてについて話した。最後に彼は秋のタスキーギ大学のスレーター・アームストロング・メモリアル農業ビルのオープニングに招待した。こうすれば自分の目で大学を見ることができるのだ。

 ジェームズ・ウィルソンは喜び、即座に招待を受諾した。スミソニアン博物館の館長と会ったあと、ジョージはいい知らせを持ってブッカー・T・ワシントンのもとへ急いだ。はじめて政府の中枢にいる人物がタスキーギに来ることになったのである。ブッカー・T・ワシントンはスリルを感じた。農務長官がこれまで成し遂げたことを見に来るなんて、これ以上の宣伝があるだろうか。

 つぎの学期の間。ウィルソン長官の訪問に備えてできるかぎりの準備を進めた。学校の聖歌隊は絶えず練習し、コンクリートの階段はごしごし磨かれ、雑草は熊手で刈られ、すべての木や灌木は手入れされ、スピーチの草稿は書かれ、大きな花火の打ち上げ準備は整った。

 スレーター・アームストロング・メモリアル・農業ビルのオープニングはジョージにとって偉大な日だった。彼はこの二階建ての新しいビルですべての実験ができると夢想した。二階の大きな広い空間の部屋はジョージがデザインした植物標本室だった。それの片側には読書室(リーディングルーム)があり、もう片側には講演室(レクチャールーム)があった。下の階に降りていくとさらにいくつかの講演室(レクチャールーム)があり、実験室があった。地下室には搾乳家畜小屋があり、牛は傾斜路から出たり入ったりできた。

 ジョージはこのすばらしい新しいビルを統御できただけでなく、農業学部の分野ごとに、計五人のアシスタントをつけることができた。すなわち、園芸学、酪農、商業園芸、牧畜、農場経営の五つである。新しいビルと五人のスタッフを得て、ジョージはタスキーギで力を発揮することができることがわかった。大学に入る学生の数ではなく、彼は教えることそのものを望んでいた。 

 毎朝散歩するとき、ジョージは黒人農家の多くや白人の隣人の一部が置かれているひどい状況に気づかずにはいられなかった。人々は床が汚れた小さなボロボロの小屋に住んでいた。彼らの井戸の水は腸チフスに汚染されていた。子供たちの目はどんよりとしていて、おなかは膨らんでいた。毎年農家は綿花を植えたが、それは彼らをより貧しくするだけだった。ジョージはこうした農家の人は絶対に大学に来ないことを知っていた。彼らの大半は読み書きができず、彼らは仕事が忙しすぎて農場や家族を置いて学校へ行くことができなかった。ジョージはまたどうにかして彼らに手を差し伸ばし、助けなければならないことを理解していた。


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