ネオ・ドルイディズム宣言 

ドルイドの書  ロス・ニコルス 宮本神酒男訳 

ドルイド・ルネサンス 

 哲学的な体系をもつローカルなカルト宗教としてのドルイド教は、1245年以降、その存在が断続的に確認されてきた。一部の世襲の一族がこの宗教を伝承してきたのは間違いない。そのなかでも、もっともはっきりとしたものは、コーンウォールのカーノウ家である。彼らは925年以来、バルド(吟遊詩人)の伝承を保ってきた。

 スコットランドでも何人かの族長たちが確固とした信念を持って世襲のバルドの伝統を守ってきた。おなじような伝承は初期のアイルランドにも見られた。予言やルーンから知恵の類まで、田舎ではあちらこれたものである。このことは彼にとって基本的な真実であり、ひとりの人物が二つの面を持っていることを理解しない人々にたいして説明するのも価値がないと考えていた。実際、彼は説明しなかった。人々は理解しなければならなかったのだ。知人らはブレイクがある一節で、ドルイドは血の犠牲をおこなう者たちだと言ったかと思えば、ほかの場所で賢明な哲学者と言っている、そして古代の愛国者はみなドルイドだとも言っている、と抗議した。ブレイクはそれに対してこう答えた。

「ああ、そうだね。ハ、ハ、ハ」

 彼自身がドルイドかもしれないという考えは、知人らにはなかったようだ。しかしながらその可能性を否定することはできないのだ。なぜならだれもそのことについて彼に尋ねなかったのだから。

 1803年、ブレイクはトルーパー・ショーフィールドという兵士と衝突した。この兵士は単に誇張表現とあきらかにフランス革命に賛成していることを理解することができなかった。そして女王陛下の軍人を勧誘しようとしたかどで彼は告発されたのだ。ブレイクはこのことをずっと気にしていた。彼の生涯において、官公庁との接触が認められる唯一の例となった。1804年1月、チャイチェスター・アシゼスで裁判は開かれた。ブレイクは無罪判決を言い渡された。

この裁判で彼は宣誓を拒否した。というのも彼はドルイドだったからである。実際、彼が書いた著作の序文で、自分はドルイドであると明言しているのだ。しかしこれもまた彼の誇張表現のひとつであると、一般的には受け止められている。こうしたことからは、彼が総長であるという証拠は得られない。しかしこうしたことと、伝承されてきた就任期間入りの総長リストから総合的に考えると、ブレイクは1799年から1827年までOBODを率いていたようである。

 就任期間が記された(1975年まで)13人の総長リストがある。彼らは選ばれると生涯その職にとどまるのだが、興味深いチェック機能もあった。長老の評議会では、総長はたんに「選ばれし長」として知られる。21日以内にペンドラゴン(軍の長)を指名し、書記もまた決めなければならない。この三者が決定されないかぎり、彼は正式な総長となることはできないのである。もしこの期間に反対の声があがったなら、総長の機能は停止され、選挙がもう一度おこなわれなければならない。これはグループ全体で弾劾することによって専制がやわらげられるシステムだ。これは政治的団体に勧めたいシステムである。総長にそれを支える二人のメンバーがつくかぎり、すべてはうまくいくだろう。いまはもはやなくなっているのだが。