古代中国呪術大全 宮本神酒男訳
第2章
5 救日救月の礼俗
(1)
歴史上の相当長い間、日食月食は太陽と月が魔物に飲み込まれることによって起こると信じられてきた。『春秋』は日食を「日これを食すあり」と記した。「日を食べるものがある」ということである。
『穀梁伝』「隠公三年」の解説に言う、「これを食す者ありとは何か。吐くのは外壌、食すのは内壌、欠けていてその壌を見ることはできないが、これを食す者あり」と。文中の「壌」という言葉はすこぶるわかりにくい。
唐の楊士勲は麋信(びしん)を引用していわく、「斉と魯の間にいわゆる掘られた土地があり、土が出ている。鼠が穴を作り、土が出ている。これらはみな壌と呼ばれる」。この解釈があっても、なおわかりづらい。
晋の范寧は注釈で述べる。「おおよそ吐き出すのは、外の壌である。飲み込むのは、内の壌である」と。『穀梁』の壌は、のちの「瓤(じょう)」とほぼ同一である。内体、実体といった意味である。それは外に吐き出されときの外の体であり、食べられたときの内の体である。
いま太陽が突然欠け、その体を見ることができない。何かに食べられてしまったにちがいない。太陽や月が飲み込まれてしまったあと、やってくる暗黒がどのくらいつづくかは誰にもわからない。古代人は日食月食を重大な災難とみなした。彼らは救日の間、救月活動を開始する。すなわち巫術の方法を用いて太陽と月を魔物の口の中から救出するのである。
(2)
救日法術と関係のある習俗は夏代にはすでに現れていた。『左伝』「昭公十七年」が引用する『夏書』に言う、「辰は房に集わず。瞽(ご)は鼓を奏し、嗇(けち)な大夫は馬を走らせ、庶民は走る」と。『夏書』は夏人が著したものではないけれど、夏代の習俗がよく描かれている。
「辰は房に集わず」というのは、日月の位置が不安定であること。具体的には日食を指す。日食が発生するたびに盲人楽師はいっせいに太鼓を打ち鳴らし、官吏は馬車に乗って疾走させ、庶民はやみくもに走り回る。太鼓の音、馬車の音、馬の脚音、いななきが混然一体となっている。
こうした救日法術は古代中国によく見られる鼓噪駆邪法のひな型である。いろんな音を寄せ集めて勇壮なるパワーを作り出し、天上の悪魔を圧迫し、太陽からそれを吐き出させようとしているのである。
『夏書』が描く救日礼は官吏が掌るもので、全民衆が活動に参加する。魏晋以前の伝統が保たれてきた。ただ日食は天変地異と信じられていて、救日は「匹夫有責」(民衆のだれもが責任を持つ)のこととみなされ、国家もまた救日の組織を作り、職務の一つとした。
周代以来、救日礼は夏代の古い制度の上に発展してきた。当時の救日礼には撃鼓撃柝(太鼓や拍子木を叩く)や朱絲縈社(赤い糸や縄を土地神像にぐるぐる巻きにすること)、置兵射箭(兵器を置き、矢を放つ)、祝官呪詛(祝官によって呪詛する)などが含まれていた。これらのうち前の二つ、撃鼓撃柝と朱絲縈社の影響力が大きかった。
(3)
撃鼓(太鼓の打ち鳴らし)の儀は、歴代の救日礼のなかでも欠くことのできない項目だった。周代、たまたま日食が起こると、天子はかならず自ら撃鼓をして(太鼓を打ち鳴らして)救日(太陽を救う)をしなければならなかった。周代に神霊の祭祀を挙行する場合、八個の太鼓を叩く「雷鼓」を行なった。天子が救日のため雷鼓を打ち鳴らす際は、天子の左右の親兵や衛士は雷鼓以外の太鼓を叩いて天子を助けた。
政治的なヒエラルキーが厳密になっていくなかで、太鼓を打ち鳴らして救日活動をするのも上級官吏になるためには必要なことだった。
戦国時代の学者は言う、日食が発生したら、天子は食事をけなし、音楽をやめさせ、社壇で太鼓を打ち鳴らさねばならなかった。諸侯は鹿皮を捧げものとして社神を祭った。そして公堂で太鼓を打ち鳴らした。大夫は門を打ち鳴らした。士は拍子木(柝、現在の梆子)を打ち鳴らした。
こうした礼儀の等級は自然に形成されたものである。規定としてコチコチに固まってしまうと、理解できなくなる。魏晋以降は、官方の救日の礼は形式的なものになっていく。
『宋書』「礼志一」に言う、晋代に「もし日(太陽)に異変があれば、諸門で伐鼓する(太鼓を鳴らして信号を送る)」。もはや太鼓を打ち鳴らす際の階級など重要でなくなっているのだ。中書侍郎の孔愉はこういったことが『春秋』の旧典と合わなくなっていることに気がついた。それを知った晋元帝は修正を命じた。とはいえ効果がどうであろうと、史書に明記されてなかろうと、それほど大きな問題ではなかった。
朱絲縈社は比較的後代にできた救日法で、出現したのは戦国時代である。朱絲を社主(土地神牌位)に巻く。赤い色の縄を利用してその駆邪力で社神に懲罰を与える。こうして社神と同様の月に脅威となる力を与え、太陽に侵犯させない。
『公羊伝』「荘公二十五年」に解釈が列挙されている。すなわち日食のとき天が暗くなると、防備のため大胆に社主に近づき、標識として社主に目に鮮やかな縄を巻いた。この説は朱絲縈社の巫術的性質を否定し、儀法の原始的な意味を歪曲している。後漢の学者何休(129-182)は否定的だった、
戦国時代の人は陰陽学説を用いて、撃鼓撃柝(太鼓や拍子木を叩く)と朱絲縈社(赤い糸や縄を土地神像にぐるぐる巻きにすること)に対する新しい解釈をはじめた。
『公羊伝』に言う、「日食とは太鼓で何をするものなのか。社で犠牲を用いるのか。陰の道を求めるのか」。この「求」は責任ある求と祈り求める求を兼ねているだろう。
『穀梁伝』に言う、「大夫撃門し、士撃拆し、言は充分に陽である」。彼らは撃鼓、撃門、撃拆によって、陽気が陰気を攻撃するのを助けていると認識しているのだ。朱絲縈社は一般的に鼓噪法(太鼓を叩いて騒ぎ立てる法)の補助措置と考えられている。
王充『論衡』「順鼓」は当時流行していた説明を引用する。「社は陰、朱は陽である……陽色をこれ(社)にまき、鼓を(叩くのを)助けて救う」。
『公羊伝』の何休はさらに明確に説明する。「社は土地の主である。月は土地の精であり、天に掛かっているので日を犯したことになり、ゆえに太鼓を鳴らしてこれを攻め、そのもとを脅す。朱絲でこれにまき、陽を助け、陰を抑える」。
救日法は一種の「攻法」であり、実質陽で陰を責める(攻める)ということである。この点において漢代と後世の学者は考えが一致する。朱絲縈社は攻陰法とみなされるので、大水の災害に対しても借用された。
「陽で陰を責める」を用いて救日礼を解釈するのは、日食に対して人が多少とも科学的に認識するようになったことを意味する。春秋時代、魯国の術士梓慎と大臣の叔孫昭子は陰陽学説を使って日食の結果を推測した。
梓慎は、大部分の日食は水害をもたらすと考えた。まぜなら陽気が陰気を制御することができないからである。
叔孫昭子(?―前517)はつぎの日食で旱災(ひでり)が誘発されるだろうと予言した。つまり遅れて陽気が興ったことによって、一旦強盛になり、その過ぎた分で陰気を抑えるのである。
これらは陰陽学を用いて日食現象を解釈したもっとも早い例だろう。漢代には少数だが日食の真の原因を推測する人もいた。何休の「社は土地の主である。月は土地の精であり、天に掛かっているので日を犯したことになる」もそうである。科学的な日食の知識が出現したが、伝統的な救日の迷信が衰えていない時期、陰陽学説は天文知識と一致せず、衝突することもあった。また救日法術の合理性が論証され、術士と経師がおおいに歓迎することもあった。
(4)
救日法術の布置兵器(ふちへいき)と射撃邪祟(しゃげきじゃすい)が出現したのは戦国時代だった。
『穀梁伝』「荘公二十五年」に言う、天子救日、樹に五面の大旗を立て、五兵、五鼓を設置する。諸侯救日、樹三面大旗、三兵、三鼓。一説によると、五兵(兵器)とは矛(ほこ)、戟(げき)、鉞(まさかり)、楯(たて)、弓箭(ゆみや)の5つ。
『礼記』「曽氏問」の仮託された孔子が言うには、もし諸侯が天子に拝謁しているときに日食が発生したなら、諸侯は天子にしたがってともに救日活動をする。彼らは儀式中、方位に応じた色の衣を着て、応じた兵器を手に持つ。鄭玄の注に言う、救日にどんな種類の兵器を持つかは聞いたことがないと。兵器陳列による救日の礼は、後漢時代になると常用されることはなかった。
晋人摯虞(しぐ 250―300)は言う、日食のとき「太鼓の音を聞いた。臣下の者はみな赤い頭巾をかぶり、剣を携えて伺候の態勢に入った。三台(尚書、御史、謁者のこと)の令史(属官)以上は皆剣を持って戸の前に立った。衛尉卿は宮殿の周囲をまわり、守備を視察し、ふたたび周囲をまわった」。
劉宋の頃、太史は日食の時間を計算し、その報告を上奏した。朝廷は三日前に、内外に宣布し、威厳を示した。この制度は秦代以前の兵器陳列による救日の法の名残である。
『周礼』中、庭氏は「国中の夭(妖)鳥を掌射する」官吏。妖鳥も怪獣もその声、姿が聞こえない、見えないとき、庭氏はすなわち「救日の弓、救月の矢を用いて夜、これを射る」。救日の弓と救月の矢は、日食月食が発生したとき、「射撃邪祟」をするために用いられる。日月を解放し、救う弓矢である。
この記述を根拠に、われわれは戦国時代末期の救日法術中にも射撃法があることに気づく。しかし当時の人は救日救月に使う弓矢を神聖視し、救日救月だけでなく、いろんな妖怪をも射撃できると考えるようになった。
『周礼』「庭氏」はまた言う、鳥獣以外の神怪に出会ったら、「すなわち大陰の弓と枉矢でこれを射る」。鄭玄は『庭氏』を根拠に上述の救日の弓と救月の矢の組み合わせを見て、正確に「太陽の弓と枉矢」はつまり救月の弓と救日の矢を指すとみている。いわゆる枉矢とは火を帯びた火矢であり、変星、飛矛、兵矢ともいう。この種の矢はとても軽く、速度が速く、弓の尾に燃焼物がついているので、「飛行の際に光を発する」。多くは城を守るときや車の戦いに用いられる。[紀元前二千年頃にはすでに車があったという。馬車や牛車が一般的になっていった]
救日にはかならず枉矢が使われた。おそらく救日をおこなう者は火矢を射ることが、太陽の光明がふたたび蘇るよう助けたと考えたのだろう。
救日礼には少なからず祝官の祷祝や呪詛が含まれている。現代の人が知っている唯一の救日祝辞は董仲舒が作った「炤々(しょうしょう)たる大明、瀸滅(せんめつ)して無光となる。いかにして陰が陽を侵そうか。いかにして卑が尊を侵そうか」。炤は昭と同じで、明るく輝いているさまを形容している。大明は太陽のこと。瀸滅は消滅のこと。この呪文は董仲舒の『救日蝕文』から採られているが、もとの著作は失われてしまった。
鄭玄の『周礼』の注解によれば、周代の大祝の際の「説法」で念じられる呪文である。「説法」とはいっても、激烈な言葉で悪神を痛罵するのだが。
(5)
漢代以降、天文暦学が緻密になり、日食時間を推定することができるようになった。天文官は日食が日月の運行のなかで起こる規律ある自然現象であることを知るようになった。それは「何かが(日月を)食べる」のではなく、災異ではなく、政治のよしあしとは関係ないことを理解するようになった。
救日法術に対する認識は大きな衝撃をもたらした。漢代以降は皇帝自らが太鼓を打ち鳴らして救日儀礼をおこなう場面は見られなくなった。ただし無視することのできないのは、日食の科学知識は普及しておらず、大部分の人は「何かが(日月を)食べる」という神話を信じていた。
たとえば清人周亮工は『書影』巻七のなかで言う、「そもそも日月の食に関して、それが何かを知っている者がいない。それゆえ聖人の書は、これを食す、と言い、あたかも(日月を)食べるものがあるかのように言うが、その名さえ知らない。荒唐無稽なことだが、そういったものをすべて退けるわけにもいかないのである」。
周亮工はまた『春秋』の記載漏れを根拠に「日月の交わりが食になる」という証拠が不足していると断言する。
『四庫徹毀書提要』は『書影』の誤謬十余か所を挙げて激しく反論している。その一つは「日月食はもともと期間があるのに、(周氏は)これを食すものがあると強く主張する」。日月食に関して見れば、たしかに『書影』は「本質的なものを考察できていない」という致命傷を持っている。四庫館のキュレーターの批判はもっともである。
ほかにも、一部の学者は日月食に期間、規律があるのは明らかだという。ただし古代聖人の地位と天人感応学説を守るために、政治や道徳を捨てることなく、日月運行理論に全面的に頼ってもいい。
宋代の朱熹はその方面の代表である。朱熹は、日月食は「みな常度(固定的な規律)をもつ」ことを認める。つづいてつぎのように言う。「しかし王たる者は徳ある行政を修め、賢臣を用いて奸臣を追い払わなければならない。陽がさかんで陰に勝てば、陰は衰え、陽を侵すことができない。日月の運行がまさに食のとき、月はつねに日を避けようとする。ゆえに緩慢になったり、迅速になったり、上に行ったり、下に行ったりする。かならずふらつき(参差)が生じて、相対したり、しなかったりする。だからそれは食であり、食でない」。
君主の善なる行動が日月の運行軌道を変えることはできないが、参差(ふらつき)を生じさせることができる。これによって日月は相対することができなくなる。本来出現するはずの日食も出現しなくなる。いずれにしてもこの言葉は充分解釈し、考えしつくしたといえるだろう。
漢代以降、日食の迷信は弱まったとはいえ、一般人への影響はまだまだ大きかった。民間の救日の習俗はそのまま近代にいたるまで続いた。その原因はここに述べたとおりである。
(6)
救日礼と比べて、救月活動の規模は小さかったが、行われた数は多かった。というのも、月食が人類の生活に与える影響は日食と比べると少なかったからだ。『詩経』「十月の交」にうたう。「かの月を食して、すなわちただ常のごとし。この日を食して、何と不吉なことだろう」。
月食はよく見られるが、日食はそうではなく、大きな悪い予兆と考えられた。西周の人は月食をそれほど畏れていなかったようである。しかし月が食べられるのはいいことでもなかった。そのため月食が起こったあと、やはり法術によって救助する必要があった。『周礼』はつねに救日月というように日月を並べた。しかしそれは周代に救月の法があったということである。
唐代の賈公彦(ここうげん)は「月を救うのは難しい」と考えた。それは彼自身の想像だった。『周礼』「鼓人」は言う、「日月を救うために王の太鼓を使うよう命じた」。『大僕』は言う、「およそ軍旅(軍隊)や田役(農役)は王鼓をたたえる」。『庭氏』は言う、「もし鳥や獣を見ないなら、すなわち救日の弓と救月の矢でもってこれを射る。大陰の弓と枉矢でこれを、すなわち神を射る」。こうしたことから、周代の救月法と救日法は基本おなじであることがわかる。周王は自ら太鼓を打ち鳴らし、弓矢で邪祟を射る必要がある。
(7)
陰陽学がさかんになったあと、人は、女性と月は同じ陰に属するという認識を持つようになった。女性が月を救うのはさらに効果があると考えられるようになった。長い間学びを重ねて、救月活動は女性が主に参与する活動となった。
『白虎通義』」「災変」に言う、「月食を救う者、陰の明を失う。月食を救う者、夫人が鏡を打ち、孺人は杖を打ち、庶民の妻は楔(くさび)を掻く」。婦人と孺人は国君の妻と大夫の妻たちを指している。「楔掻」は「掻楔」の誤り[原文は楔掻になっている]。楔は家の門の両側に立てた長い木柱である。かつてそれは車が門に触れないように置かれたものである。「掻楔」は手拍子で門楔を打つものである。
撃鏡、撃杖、撃楔、これらは鼓噪(騒ぎ立て)法術である。
『太平御覧』巻四に引く『荊州占』に言う、皇(王)后の救月が使用する撃鼓の方法がある。「月蝕、后自ら太鼓を提げる。階段の前で槌を持って太鼓を叩く者三人。善良な人々、諸御(妻や妾)、宮人(女官)などみな杵を打ってこれ(月食)を救う。月はすでに蝕まれ、后は斎戒に入り、質素な白い服を着て、三日間放縦な生活をやめ、吉祥のことだけやった。先王の行為で天地の誅罰を免れ、四境の患を解く」。
文中の杵は、ここでは衣を搗く杵を指す[米を搗く杵もある]。女性専用の道具である。唐代は救月の習俗がさかんだった。「長安城のなかで、月蝕のたびに士女は鑑(かがみ)を取り、月に向かってこれ(鏡)を打つ。城郭の中はすべてこんな感じで、月蝕を救う。
撃鼓、撃拆、撃鏡のすべてで用いられる木は「救月杖」と呼ばれる。唐代の一部の医師はそれから神薬を作る。陳蔵器は言う、「月蝕瘡と月割耳」を患っている人々がいるという。救月杖を焼いて灰にし、油と灰をまぜて傷口に塗る。すると即座に治る。
月蝕瘡というのは「両耳や鼻、ならびに下の方の各穴のそばにできる。月はじめに傷は悪化し、月の終わりに衰える。月の生死に従うので、その名にちなみ月蝕瘡と呼ばれる」。月割耳もおおよそ同じような病状である。
救月杖によって「月蝕瘡」を治療するのに、救月杖の余勢を利用して月食がもたらす邪祟を制圧する。孫思邈は言う、救月杖は治䘌(とく)の神薬である。