古代中国呪術大全 宮本神酒男訳
第1章
1 桃の魔除け (上) 神話における攻撃方法
(1)
桃木を用いた邪悪なものの駆除、祓いは、中国最古の呪術である。戦国時代の秦の人の桃木辟邪術の起源は、夏王朝、あるいはもっと前の黄帝の時代にまでさかのぼるかもしれない。文献に記載されるようになるのはずっとのちのことではあるが、混じり合った奇妙な神話のなかにそれは記憶を留めているだろう。
『左伝』は西周の人が桃木を弓とし、棘を矢とする呪術の例を挙げている。これよりも前、桃木の魔除けは、長い時間の間に形成され、発展し、広く認識されてきた。今から4千年以上前の夏朝の時期、あるいはそれ以前から存在していた。
周・秦の頃の神話に言う、東海に「度朔(どさく)の山」があった。山上に巨大な桃樹があり、その枝葉は三千余里を覆った、と。東に向かって伸びる桃樹の枝の合間に鬼たちが出入りする通用口があり、「鬼門」と呼ばれた。鬼門で百鬼を検査する神人は神荼(しんじょ)鬱塁(うつりつ)兄弟である。彼らは人類に害をなす鬼を発見すると、アシの縄で縛り上げ、虎にエサとして差し出す。
のちに黄帝はこれを実体化し、呪術で魑魅魍魎を駆除する「大桃人」を立てた。これは純粋に神話であり、度朔の山の中の巨大桃樹、鬼門、および百鬼を検査する神荼・鬱塁はあきらかに想像の産物である。ただし桃樹魔除け(辟邪術)の考案を黄帝に帰する神話は、戦国時代以降に広く流行した「黄帝は各種発明(発見)の祖師である」という観念とも合致する。黄帝の後世への影響ははかりしれないほど大きかった。後漢の著名な学者たち、王充(おうじゅう)、高誘(こうゆう)、王劭(おうしょう)らはみなこの神話を引用して、桃木辟邪術を説明した。
(2)
黄帝が桃木辟邪(魔除け)術を創ったという神話が広く流伝すると同時に、漢代の学者の間には桃木の霊化の過程にはいくつかの異なる解釈があった。この種の解釈は神話とはいえ、具体的な歴史内容に関わっていた。
『淮南子(えなんじ)』「詮言訓」に言う、「羿(げい)は桃の棓(ほう)によって死んだ」。
許慎注に言う、「棓(棒)、すなわち大杖である。桃木でもってこれをつくり、打って羿を殺す。以来これにより、鬼は桃を畏れる」。
許慎は学問を修めるに「博采通人」(すべてに通じた人)であることを重視した。彼は多くの人が「黄帝がすべてをつくった」という説を信じていることに対し、独自の意見を持っていた。伝説には根拠があると考えたのである。
桃木辟邪説は「鬼、桃を畏れる」の観念をもとに形成された。「鬼、桃を畏れる」の観念が形成されるには、先祖が桃に食用の価値と薬用の価値を見いだしていたこと以外にも、歴史上の事件によって促進され、歴史が契機となって需要が増すことになったと考えた。現存する資料から見るに、許慎の論理は歴史がどうやって作られるかということに対し、最もいい説明となっている。
我々は羿が夏朝初期東夷族の窮氏首領であり、武勇と弓の腕前で世に聞こえ、一度は東夷人を率いて夏朝政権を奪取したことを知っている。大衆の心の中では、羿は天から派遣された神聖なる人で、戦争ではつねに勝利するはずだった。しかし天下無敵のはずが、信頼していた一族外の人物、寒浞(かんさく)の陰謀によって、桃の杖によって打ち殺されてしまう。
羿を崇拝していた一族の人々には受け入れがたいことだった。彼らは心の中の偶像を破壊されたくなかった。しかし羿が殺されたという事実から目を背けることもできなかった。受け入れがたい感情を納得させるための解釈が必要となったのである。寒浞は盗賊の類ではあったが、根本的に羿のライバルとはいえなかった。桃杖の力によってたまたま勝利を得たにすぎなかった。
羿は能力のある者によって陥れられ、殺されたわけではなかった。桃木自体が神秘的な力を持っていたのである。羿の崇拝者は本来こうした解釈を示すことで羿に対する思いと崇敬を表現するのである。ただしこうした認識によって、羿の死の解釈の範囲はますます狭くなっていき、「鬼は桃を畏れる」の観念がより普遍的になっていった。
鬼神と呪術を信じる者から見ると、羿のような超越した神人でさえ桃木の支配を受けるということは、どんな魑魅魍魎や邪悪なものでも桃木にはまったくかなわないということである。羿が桃木によって死んだという故事を聞いて、鬼はこうした超自然的な力を有する霊物に恐れをいだくだろう。羿の死は桃木の力を連想させ、桃木の威力は魑魅魍魎と桃木の関係を連想させる。そして最後に「鬼は桃を畏れる」の観念を導き出す。この観念があれば、巫師とその信徒は巫術の実践のなかで桃木を用いることになるだろう。
羿が桃の杖によって殺された話と、神荼郁塁が大桃樹の下で百鬼の検閲を行なったという話、この二つの神話には共通点がある。鬼が桃を畏れるという観念は東方、あるいは東方人と関連することである。羿は東夷族の首領であり、大桃樹は東海の度朔の山に成長する。
これから推測するに、鬼が桃を畏れる観念および桃木を用いて悪鬼を取り除く習俗は東方民族から起こったものである。民族が融合し、拡大し、濃厚になるにしたがい、東夷人の信仰と開発はさらに拡大する範囲内で拡散していくことになる。
(3)
秦の統一以降、鬼が桃を畏れるという観念は地域的な流行にとどまらず、全民族的な信仰となった。秦漢時代、桃木辟邪術(魔除け)の起源神話が隆盛しただけでなく、桃木巫術(呪術)も一般的になった。鬼が桃を畏れるという観念は広範囲にわたって認識されていたのである。学者らは神話の中からこの習俗を合理化すると思われる根拠を探し出す必要があった。
漢代の学者によれば、「鬼、桃を畏れる」は、古代と現実の習俗を解釈するための疑いようのない定理だった。「桃、鬼が悪(にく)むもの」「桃、鬼が畏れるものなり」「桃とは五行の精であり、邪気を圧伏し、百鬼を制する」「桃は五木の精なり。今、桃符を作り、門の上に着け、邪気を圧する。これ仙木なり」。こういった観念はすでに人の心の奥まで入っていた。
このほか、漢代の一部の比較的理性的な学者は、桃木と桃木から作った物の意味に新しい解釈を与えた。たとえば後漢の服虔(経学家)は、桃木が邪を制するのは「桃」と「逃」が同音だからだとした。「桃、それゆえ逃凶なり」。漢代はじめには曲折があった。彼らは「桃」と逃亡の「逃」が同音であるだけでなく、逃亡の「亡」、つまり死亡や滅亡の意味があり、それゆえ「桃は亡の言なり」としたのである。[漢代以降、経学は儒学の経典の字面の意味を解釈する学問となった」
人々は桃木の物を身につけることによって、自身が慎重で、注意深く、「喪身亡家の禍」(命を喪い、家を滅ぼすわざわい)を免れていることを示すようになった。こうした音訓による新しい解釈は、桃木の辟邪習俗を肯定したが、同時に巫術の面を弱めることになった。われわれはこまごました、さまざまな考え方を見た反面、桃木が鬼を制し、邪を避ける力を持つことを認識するようになり、それが秦代以降、民間に広く流行する信仰となったのである。
古代中国の膨大な呪術の霊物のなかで、桃木は他を寄せ付けない地位を占めてきた。桃木辟邪術は古代中国の民俗の生産に広範囲にわたる深い影響を与えてきた。しかし棄てられたもののなかに古代民俗の特色も多く含まれていた。
この呪術には多くの表現形式があるが、本体は独立した系統で構成されていた。施術をいろんな角度から分析した結果、古代の桃木辟邪術には主に3つの形式があった。
①手に桃杖、桃弓、その他桃から作ったものを持ち、鬼怪を攻撃(揮撃、射撃)する。この呪術は象徴的な動作や姿勢を要求し、桃木の辟邪の威力を最大限発揮する。
②桃木から作られた物を安置し、あるいは佩帯し、邪なるものを圧伏する。
③桃木に関連した桃湯、桃胶、桃蠹(虫)などを用いて邪悪を辟除する。この呪術が桃を用いた物の薬用価値を誇大に高めた。しばしば医術の偽装が図られた。
(4)
まず、①の呪術がどういうふうに用いられたか、分析しよう。
秦代以前の巫師が常用した呪術の道具は二つあった。一つは桃棒であり、もう一つは萑(おぎ)と葦(あし)から作った笤帚(てぼうき)である。この二つの呪術(巫術)霊物は組み合わせて使用する。当時の人はこの両者を合わせて「桃茢(とうれつ)」と呼んだ。
巫師から見ると、桃棒によって鬼魅を撃退することができ、笤帚(手箒)によって不吉なものを排除することができた。桃茢は攻撃能力を増し、呪術(巫術)の目的をより達成しやすくなった。
唐人孔穎(こうえい)によると、秦代以前、桃茢とは桃棒を柄とする萑葦笤帚(かんいちょうそう)、すなわち、「おぎ」や「あし」で作った「てぼうき」を指した。この説は、ある程度理屈にかなっている。桃茢の桃はそれだけで桃棒を指すので、それを本体に「おぎ」や「あし」で縛り付けて箒(ほうき)の柄にしたのだろう。基本的なものは変わらない。秦代以前の巫師は習慣として、霊物の固定的な組み合わせの桃茢を常用していたのだろう。
春秋時代、君主が臣下の家に弔問に行くとき、(行進する君主の列の)前で、巫祝が桃茢を手に持って「開路」をした。死者の家の門に入ると、死者が発する凶邪の気を掃いて除き、君主の身の安全を守った。巫師は桃棒と笤帚を持って、遺体の周囲を払った。こうしたことを「祓殯(ふつひん)」あるいは「祓柩(ふつきゅう)」と呼んだ。
祓殯法術は、基本的に死人や新鬼への恐れに対しておこなわれるものである。本来はすべての死者に対して施術される。君主の地位が高まるにつれ、祓殯は変成し、君主が臣下に対してのみおこなう「君臨臣喪の礼」となった。
たとえば前544年、魯襄公が楚国を訪問したとき、随行していた巫師に桃茢を持たせ、楚康王の棺の上で祓除(祓い)をさせた。そしてこれを「君臨臣喪」と表現した。
桃茢駆邪術は盟誓、飲食の際によく用いられてきた。周代の盟誓には「歃血(そうけつ)儀式があった。盟誓に参加する者は、盟約への忠誠を、動物の血をすすることによって示したのである。彼らは動物の耳を切って血を流し、また桃棒と笤帚(てぼうき)を使って動物の血を攻撃し、掃祓した。
原始信仰は血液を凶、邪、不潔なものとみなした。桃茢を用いて動物の血を祓うのは、血と関係した濊気を駆除するということだった。
周代、もし大臣が自分の作った料理を国君に献上するとき、この美食(料理)の上に一束の桃枝と笤帚ひとつを置いた。この特殊な献食礼は、秦漢代以降の人には想像もできなかったろう。美食を献じる者は自分の作った食事に邪気がないことをあえて保証しなかった。自分の好意に反して君主に面倒をかけることを恐れたのである。このため彼らは美食の上を桃茢で覆い、君主が不吉なものをいつでも攻撃できるようにしたのである。
(5)
桃棒、桃杖、桃枝を用いた揮撃邪祟は、桃木辟邪術のもっとも原始的な形態である。この種の法術は古代中国でずっと盛んだった。睡虎地秦簡『日書』「詰篇」は言う、帰る家のない「哀鬼」は人と友だちになると喜ぶ。哀鬼にまとわりつかれた人は飲食を取らなくなり、清潔を好み、顔色は蒼白で、生気が失われる。棘の錐と桃棒で病人の心臓部位を叩くと、哀鬼は二度とやってこない。
この書はまた言う、野獣や家畜が人と遭って話をすることがある。これは「飄風の気」がなす怪である。桃杖を用いてそれを打ち、草履を脱いでそれに投げつけると、妖怪は自ら消滅する。
また言う、もし家の中で休んでいる人がみな混迷状態に陥ったら、その家は住むのに適していない。かならず桃木で作った大杖で部屋の四隅と中央を叩く。同時にさまざまな法術をおこない、禍を免れることができる。
漢代、年の終わりに逐疫儀式をおこない、そのあと朝廷は公卿、将軍、諸侯、顕宦貴族に桃杖を賜った。この種の桃杖は一般的な生活用品とは異なり、呪術道具だった。これらは顕宦貴族らが禍や咎(とが)を駆除するとき専用に用いられるものだ。
(6)
弓矢で鬼魅邪崇を撃つのは、呪術(巫術)の重要な手法である。射鬼巫術で用いられる弓矢は実用的ではなく、特別に作られた道具だった。なかでも桃木で作られた弓と酸棗樹(さんそうじゅ)の枝から作られた矢は、常見される特製品だった。秦代以前の人はこれを「桃弧棘矢(とうこきょくし)」と呼んだ。
西周の頃、楚国先王熊緯(ようい)は、桃弧棘矢の選定を専門とし、周天子に貢物として献じていた。春秋時代の人が「篳路藍縷(ひつろらんろう)以処草莽(そうぼう)」(未開で、車は粗末なものしかなく、人の着ている衣服もボロボロの貧しい地域)と表現したように、ほかにこれといった宝物がなかったわけではなく、逆に、楚人にとって桃弧棘矢はこれ以上ない宝物だった。
呪術意識の強い人からすれば、禍と咎を除去する桃弧棘矢を貢物としてささげるのは、最高に礼を尽くしたということであり、辟邪霊物を受け取った側からすると、それは非常にありがたい重々しい贈り物だった。
西周春秋の頃、蔵氷・出氷の習慣があった。毎年十二月に、深山峡谷の「凌室」に氷塊が貯蔵された。春夏には氷塊を取り出し、防腐のために用いられた。出氷の際、山谷内外の温度差が大きく、氷を扱う者は病気になりやすかった。病気や災いを祓除するために、彼らは出氷前に桃弧棘矢を手に持ち、象徴的に邪気に向かって矢を放った。
秦簡『日書』「詰篇」も言及している。もし人が長時間鬼怪の攻撃にさらされたら、それは厲鬼(れいき)と戦っているということである。「桃(木)を弓とし、牡棘を矢とする」。そして矢柄の尾に鶏毛を挿し、鬼の影をみつけるやすぐに矢を放つ。すると平安が回復される。
馬王堆帛書『五十二病方』に言う。男子の疝気(ヘルニア)を治療するには、まず大きな柄杓(ひしゃく)を陰嚢にかぶせる。そのあと東に延びる桃枝を取って弓形に曲げる。夕暮れ時にこの桃弓を三つ同時に射る。薬物治療も併せておこなえば、完全に癒えることも可能だ。
後漢の大追儺儀式で、方相氏は鬼やらいの童子の一群を率いる。童子たちは太鼓を叩いたり、矢を放ったりする。その弓矢は桃弧棘矢である。
張衡『東京賦』はこの情景を描写しながら述べる。「桃弧棘矢、臬(げき)なく放つ」。臬とは靶(まと)のことである。桃弧棘矢を使う人は、鬼怪をターゲットとしているものの、鬼怪がどこに身を隠しているかじつのところわからない。自分の感覚に任せてランダムに矢を放つしかない。
(7)
桃弧棘矢以外に、桑弧桃矢を使う巫師もいる。霊物の組み合わせのなかで、桃木を弓に使うのでなければ、矢に用いる。清の袁牧は書く、京師一帯で子供を夜泣きさせるのは「夜星子」と呼ばれる悪鬼であると。そこで巫師は桑弧桃矢によってこの悪鬼を捉える。
ある宦官の家族は子供の夜泣きに苦しんでいた。そこで夜星子専門の巫師を呼んで、法術によってそれを捉えるよう依頼した。巫師は小型の桑弧桃矢を手に持ち、矢柄を数丈の長さの糸で縛った。
夜半になると、窓紙に馬に乗った婦人の姿が現れた。巫師はひそひそ声で言った、「夜星子が来ましたぞ!」。そして鬼の影に向かって矢を放った。
家族の人たちは矢柄につながれた糸を手繰り寄せて、「戦果」を探し当てた。こうして桃矢が当たったのが、九十歳を越えた老婆であることがわかった。その後家人は巫師が指導するように、老婆の飲食を断ち、夜星子を餓死させた。
袁枚の描写はフィクションを含んでいるように思えるが、古代の民俗を見るに、実際にあったことのようである。当時は老婆が夜星子に変身し、子供に危害を加えていると信じられていたのだ。また桑弧桃矢に妖怪を撃退する能力があるとも当時の人たちは信じていたのである。