古代中国呪術大全 宮本神酒男訳
第1章
2 桃の魔除け (中) 安置、佩帯(はいたい)
(1)
桃の材料を使った魔除け(辟邪物)を住まいや墓に置いたり、直接身につけたりする場合に、桃木辟邪術が使われている。この種の方法は辟邪術をおこなう者が手を振って舞い、弓矢を射なくても、桃木の邪悪を制する能力を発揮することができる。すなわち桃木でできたものをどこかに固定しておけば、その力を発揮することができる。
古代人はつねに、門戸の上に桃木を置き、邪悪なものや祟りを防いだ。門戸を守衛する桃でできた辟邪物はおおまかに二種類ある。一つは桃梗(桃木から作った人形)。もう一つは桃枝、桃板、桃符。のちの春聯(春節の習俗。赤い紙に縁起のいい対句が書かれている)は、この二つの種類が影響しあった基礎の上に形成されたものである。
桃梗(とうこう)は桃の木を刻んで作られた桃人(桃の人形)である。伝承によれば黄帝は大桃人を立て、悪鬼を駆逐した。この神話から、桃梗辟邪法の起源がかなり古いことがうかがわれる。おそらく春秋時代にはこの習俗は始まっていた。毎年年の終わりに辟邪桃梗が設立されるのは、辞旧迎新(古い年を送り、新しい年を迎える)の活動の一環である。
戦国時代の外交家、蘇秦は有名なたとえ話をした。桃梗は土偶人形に対して不遜な言い方をした。土偶人形は言い返した。「おまえはもともと普通の東国の桃の木ではないか。人間はあなたを刻んで人形を作った。それからあなたを赤く塗った。しかしあなたを門戸の外に置いて邪気祓いをさせているのだ」。このように戦国時代の人間は門前に辟邪桃梗に立てるだけでなく、喜んで桃梗を赤く塗ったのである。
この門戸に桃梗を置くことで疫病を防ぐ習俗は魏・晋の時代までつづいた。漢代の宮中、朝廷内にも毎年臘祭と大晦日には「桃人を飾り、ヨシの縄を垂らし、門に虎の画を貼る」必要があった。曹氏の魏の時期、人々は臘祭と正月一日に、桃木に人の首の画を貼った「桃神」を立てた。桃神は悪鬼を縛り上げることができると考えられ、人を死から救った。
晋代になっても習俗は変わらず、春節になると「つねに宮中や百寺の門にヨシ、桃梗、ニワトリの生贄が置かれ、悪気を祓った」。
南北朝の頃になると、習俗に変化が現れた。劉氏の宋の時代になると、一部の郡や県では伝統習慣が守られたが、宮中や都城では春節に桃梗やヨシの縄をかける習俗は失われていた。
桃梗を立てる習俗はしだいに春節の活動からなくなっていった。一般の人々が持つ桃梗の迷信がしだいに関心を持たれなくなったことと無関係ではないだろう。新年に桃梗を立てる習俗はそうはいっても相当長くつづいた。漢代以降、その呪術的な意味合いへの興味が薄れていったのである。多くの人は伝統を受け継ぎ、祝福したり、お祭り気分を楽しんだりしたものの、もともとの原始的な意味合いを理解できなくなっていた。桃梗に悪鬼を縛り上げるだけの威力があるとは信じられなくなっていた。
曹氏の魏の頃には、桃神とは桃木の上に描かれた人の顔のことを指すようになっていた。それは時間と労力を要す彫刻作品ではなかった。桃梗の製作はしだいに粗末になり、新年になって桃梗を作ること自体に真剣でなくなり、気の抜けたものになっていった。この時代(曹氏の魏)、春節のときに桃梗を立てることが礼にかなっているかどうか論議される始末だった。もし怪異が起きたときに桃梗を立てるべきだと感じることがないなら、このような疑問は浮かばなかっただろう。怪異に対する礼の制度が行われないので、劉氏の宋の時代、春節に桃梗を立てる古い礼を取り消し、呪術意識が薄まったことによる必然的な結果と言えるだろう。
(2)
劉宋(南朝宋420―479)以降、門戸を守衛してきた桃梗(桃の木偶)に代わって桃板、桃符が用いられるようになった。桃板や桃符を掛ける風習は、秦代以前の脈々と伝えられてきた桃枝を挿す習俗と相通じるものがある。
『荘子』に言う、「門戸に桃枝を挿し、その下に灰をひく。子供は気にしないで中に入るが、鬼神は畏れて入れない」。あるいは言う、「門戸に鶏を吊るす。その上に葦の縄を掛け、傍らに桃符を挿す。百鬼はこれを畏れる」。
門戸に桃枝を挿す辟邪法は戦国時代にはすでに広く行われていた。注目すべきは、漢代から晋代にかけての頃、春節について書かれた文献には、桃枝を挿す、あるいは桃板(ふだ)を掛けるといった方法の記述が少ないことである。これは桃板を掛けるといった巫術が劉宋以前には流行っていなかったということなのだろうか。そういうわけではないだろう。
正史の中の『礼志』には主に皇室や朝廷の礼儀が書かれる。張衡『東京賦』に言う、「度朔(東海中の山)で梗(桃の木偶)を作り、郁塁、神荼が守っている。葦の索(つな)を取り、隅々まで監視する」。後漢の都洛陽の城中の桃梗(木偶)を立てる風習を描き、朗誦している。
応邵(おうしょう)『風俗通儀』は明確に指摘する。「県官はつねに蠟月除夜になると桃人を飾る」。この県官は皇帝、あるいは朝廷を指す。
歴史家や文人は桃梗の設立に関して比較的多く記述しているが、都市部や上流貴族の間にはこれが流行していたということだろう。農村や下級階級の間では桃枝を挿し、桃板(ふだ)を掛ける形式が一般的だった。これらは著述者の注意をひくことは少なく、文献中の記載は少なかった。
これを分析すると、桃梗を立てることと、桃枝を挿し、桃板を掛けることはおなじ巫術ではあるが、異なる系列に属するのである。後者は民間でさかんにおこなわれたので、やりかたが簡単だった。ゆえに最終的には前者にとってかわった。それは新年の桃木辟邪法術に用いられるようになる。
南朝の時期、春節に門戸に桃板(ふだ)を掛ける風習は社会の各階層に流行した。梁人宗懍(そうりん)は『刑楚歳時記』の中で言う、「正月一日、桃板を作り、戸に著ける。これを仙木という」。この書にはこのあと桃梗に言及はない。
春節に掛ける桃板は最初一枚にすぎず、文字も画もなかった。というのも当時の人は「桃板を作り戸に著ける」と同時に門神の画を貼っていたからである。「門戸に二神の絵を貼る。左に神荼、右に郁塁、俗に言う門神である」。
神荼、郁塁はもともと桃梗の代わりだった。桃梗を立てる風習がなくなったあと、一度は、桃木と門神が関連することがなくなるものの、併存するという現象が見られた。宗懍はどうしてこういう状況になったかについて説明している。
いつから始まったのか、桃木と門神は新しいかたちで結合するようになった。人々は桃板の上に神荼郁塁の像を描き始めた。辟邪桃板はもともと一枚だったが、左右の二枚になった。南北朝の時代、道教が急速に発展し、道士はつねに桃板の上に符籙を書くようになった。春節に掛ける桃板はとくに門神が描かれていて、道士が使用する桃木符籙と近いものだった。そのためこれらの桃板は「桃符」と呼ばれた。
唐朝の人は「対仗」という整った形式の律詩を書くのが好きで、この頃から対句を作るのが得意な人が増え、桃符の上に対聯(ついれん)を書いた。
五代の時期になると、達官顕宦(権力を持つ高官や宦官)、文人、学士らは桃符に対聯の題字を書いたが、もはや特殊な現象ではなかった。後蜀の国君孟昹(もうあい)は毎年蝋月三十日(大晦日)になると、各宮門に一対の桃板を与え、『周易』中の言葉「元亨利貞」四文字の題字を書かせた。孟昹の太子孟玄喆(もうげんてつ)は書を得意とし、舞うように墨を揮った。彼は献策から選んで大門に桃符を貼ることとし、その符に自ら「天垂余慶、地接長春」という対聯を書いた。詩句がすばらしく、書の芸術性もすぐれていたので、当時の人はみな称賛した。のちに宋太祖趙匡胤(ちょうきょういん)は蜀を滅ぼし、呂余慶という大将を蜀の知事に任命した。後蜀でもともと採用していたやりかたを彼は踏襲した。
超匡胤の誕生日は、宋人から長春節と呼ばれていた。しかし結局「天垂余慶、地接長春」という言葉は後蜀の滅亡の前兆だったのではないかと言われるようになった。
(3)
宋代になると、毎年春節が近づくたびに、街市には桃板や桃符といった追儺の物ばかりが並んだ。新桃符が掛り、春節には欠かせないものになっていた。宋代の桃符は二三尺の長さ、四五寸の幅の桃木でできた薄板で、上の方には狻猊(さんげい)、白沢といった神獣が描かれ、下の方には左に「郁塁」、右に「神荼」と書かれた。あるいは頌春祝禱のことばが書かれた。
王安石の詩『元日』は、「爆竹の音が轟く年の終わり、春風が温もりをもたらし、新しいお酒(お屠蘇)を飲む。千門万戸が新しい日の出を拝み、桃符を新しいのに取り換える」。少なからぬ宋人が詞曲を作り、当時の桃符を換え、新春を迎える情景を生き生きと描いている。
宋代には、桃符が用いられたほか、春帖、柱聯、門額などが現れた。宋人周必大が言うには、毎年除日(大晦日)には、人は忙しく春帖、柱聯、門額を換えなければならなかった。そのとき庭堂、走廊、門楣(門戸の横木)などに「福禄寿」「一財二喜」などの文字を貼り付けた。釈道二教(仏教と道教)のどちらを信じるかによって貼る文字が異なった。たとえば「阿弥陀仏」「悉呾多般呾那」「九天応元雷声普化天尊」などの言葉が貼られた。
明朝の時代になると、紙に書く対聯が桃木から作られる新春の桃符に取って代わるようになった。この対聯は「春聯」と呼ばれた。紙で作られた春聯が普及したあとも、伝統を踏襲してそれを桃符と呼ぶ人もいた。この桃符という名称は、春聯と桃符の古い関係を反映しているけれども、実際桃木と何の関係もなかった。
桃梗、桃枝、桃板から変成して聯語が書かれた桃符ができた。また桃木から製作した桃符が変成して有名無実の桃符となった。巫術の色合いは次第に薄れ、新年のめでたい雰囲気ばかいが目立つようになった。人々は知らず知らずのうちに古い巫術活動を改造し、民俗活動家ら巫術要素を消していった。本来は神秘的な色合いの濃かった「辞旧迎新」(古い年と別れ、新しい年を迎える)の中身がかわり、新しい生命力を得るに至った。
新春の桃符は、特殊な歴史の原因によって、つねに非霊物化の方向に発展してきた。桃符の神秘性は、新春祭日活動のなかで削られてきた。全体を見渡すと、古代中国の桃木に関する迷信は根本的に変わることはなく、桃木辟邪術などはつねに流行していた。
(4)
桃木で作ったもの、たとえば桃弧、桃橛(短い杭)、桃符などは、庭や居間の決まった位置に置かれた。これは昔から巫師が慣用としていたもう一つの厭勝法である。
漢代の方士はつぎのように言う。七本の桃枝を取って矢とし、桃弓によって順次放ったあと拾い上げ、最後に桃弓と桃矢、四つの大青石を庭の四隅に埋める。これで家の中で鬼が騒ぐことも、禍に遭うこともなくなる。類似の巫術は明清代の頃になると、かなり広く行われるようになっていた。
明代の人は「桃木を削って地面に釘づけし、家宅を鎮めた」。当時の医術家は鎮宅に用いた桃木を「桃橛(けつ)」あるいは「桃杙(くい)」と呼んだ。
清人紀昀は言った、彼が十七歳の頃、河北文安県に通りかかったとき、孫氏が開いた旅店に泊まった。旅店の客房は新しかったが、奇怪なことに、屋内の三和土(たたき)の穴に大きな桃木の橛(くい)が刺さっていた。紀昀は桃橛がいやでたまらなかったので、主人に抜くよう求めた。ところが孫氏は手でさえぎりながら言った。
「これは抜くことができません。抜いたら怪異が起こるのです」。
孫氏が言うには、旅店を開いたあと、宿泊している人はみな夜間、炕(オンドル)の前におどろおどろしい女の姿を見た。店主は道士に、怪を滅ぼすため法術をおこなうよう依頼した。道士は手に桃橛を持ち、呪文を唱え、桃橛を炕(オンドル)の下に打ち込んだ。すると鬼影が二度と現れることはなかった。鬼影など、荒唐無稽に思えるが、当時の人は桃橛によって妖異を鎮めることができると信じていたのである。
(5)
桃木に神秘的な力があると信じていたので、巫師や道士は桃板の上に喜んで符籙を書いた。これはまさに桃符だった。典型的な巫術霊物である。
『抱朴子』「登渉」は「老君入山符」には五道霊符が含まれると記録している。作者葛洪は強調する、この五符は桃板の上に丹砂で書かなければならない、かつ「文字を大書し、板の上に弥漫しなければならない」と。葛氏によると、この五つの桃符を門戸の上や住居の四辺四角、通る重要な場所、また五十歩以内は、山精鬼魅を辟除することができた。このほか、「戸内の梁柱、皆安んじることができる。山林にいたり、入山したりするときは、これを用いればすべてのものの害がなくなった」。
北魏の終わり頃、術士劉霊助は巫術を用いて多くの兵士を集めて起兵した。彼はまた「桃木を描いて護符とする」という巫術を用いた。
古代の文人の表現では、術士が用いる桃符はしばしばこれ以上ないほど神化されている。唐人張鷟(ちょうさく)が言うには、唐初の術士明崇儼の法術はきわめてレベルが高く、名声も大いにあったという。あるとき唐高宗は崇儼の実力を試そうと思い、ひそかに楽妓を地窯(地下竈洞)へ行かせ、演奏させた。そのあと崇儼とそのあたりの地上まで歩き、何気ないふりをして問うた。
「このあたり、何やら管弦楽の音がしますなあ。何の怪異であろうか。法術で止めることができますかな」
明崇儼は音を聞くとすぐに馬上で二つの桃符を作り、地面にそれらを打ち込んだ。すると音楽は停止した。
のちに唐高宗は楽妓になぜ演奏を中断したのかと聞いた。すると楽妓は答えた。そのとき二つの竜頭が口をあけてやってきたのだという。「あまりに怖くて演奏をやめてしまいました」。
張鷟はまたこう書いている。隋人の樹提は住宅を建てたとき、まさに新居に入ろうとすると、突然無数の蛇が湧き出てきた。あまりに多すぎて、蚕箔(まぶし)の上に蚕がいるあるさまで、庭も蛇だらけだった。そこにたまたま「符鎮の術」の心得があると自称する通りすがりの人がやってきた。彼は四本の桃枝を持ってきて、符籙の画の上に置き、新宅の四周に桃符を打ち込んだ。しばらくして蛇の群れは退却しはじめた。桃符はあとをぴったりつけていった。蛇はみな前庭の中心にある洞の中に入っていった。通りすがりの人は木を燃やして百斛(こく)の水を沸かし、熱湯を洞にそそぎこんだ。
翌日、人々が鉄鍬で蛇洞を掘り起こすと、一尺の深さの洞底からうず高く積もっている二十万貫の古銅銭が見つかった。樹提はこれらの古銭を得たことにより、一代で大金持ちになった。それにしても熱湯をかけられて死んだ蛇がどうして古銭に変じたのだろうか。当時の人は「蛇は古銭の精」と考えていたのである。現実生活の中で巫師は頻繁に桃符厭勝術を用いている。小説家はこれらから豊富な素材を得ている。この素材は小説家を経て脚色され、誇張され、ときには荒唐無稽なものになるのである。[小説は志怪小説と言い換えたほうがいいだろう。現代の我々の小説とは異なることに注意]
(6)
桃木辟邪術は生者を保護するために用いられるが、死者の保護のために用いられることもある。長沙馬王堆1号漢墓葬には33の桃梗が見つかっているが、すべて内棺の蓋板の上に置かれていた。桃梗の長さは8センチから12センチと不揃いだった。この小桃梗をどうやって作るかと言えば、まず桃樹の枝を取り、真二つに割る。一端を削って三棱(稜)形にし、中間の背の部分に鼻を作る。その両側に墨で点を描き、眉と目を作り出す。桃枝のこの一端が人形(ひとがた)であるほかは、桃枝のほかの部分は未加工である。少数ではあるが、桃梗が未加工の桃枝で代替されているものもある。
考古学者は桃人の作り方や墓の中の置かれた位置を根拠に、これが辟邪の物と推測している。墓の中の桃梗の役目は、鎮墓獣や画像石の上の方相氏と輔首[中国の伝統的門飾。動物の顔が環を銜えていることが多い]に似ている。これらは地下の邪崇を駆除するために用いられる。そして遺体の安全と霊魂の安寧を保証する巫術霊物なのである。漢墓から出土した桃梗の実物は、漢代でも近現代でも日常的に桃梗が用いられてきたことを類推する根拠となる。曹魏議郎董勲が言うには、当時作った桃神は、桃木の上に作った「画いて作った人首」であり、「画作人首」とは、三棱桃木に墨汁で描いた眉目のことだった。
桃木辟邪術のなかでもっとも手軽で便利な方法とは、特殊な桃木制品を身につけることだった。春秋の時期、斉国には邪崇を避けるために桃殳(とうしょ)という武器を佩帯する風習があった。殳とは秦代以前の武士が常用していた武器で、もともとは竹片を合わせて作った多棱杖だった。佩帯するために桃殳は短い桃木から実用に合わせて作られたものだった。
伝説によれば、斉桓公は出遊したとき、たまたま桃殳を身につけた男子と出会った。斉桓公がその名称、由来、用途についてたずねると、男子は答えた。
「これは二桃というものです。桃は「亡」という意味であり、喪失、滅亡を表しています。毎日桃を見ておりますと、ときに自分が危機に瀕していることを教えてくれます。細心の注意を払って事にあたったところで、禍患を防ぐことができましょうか。征服者は国が滅ばないよう諸侯を用いて警戒に当たらせますが、同様に、平民はこの桃殳を用いて警戒に当たらせるのです」。
斉桓公はこの男子の論を称賛し、喜んでおなじ車に乗って(宮廷に)戻った。正月がやってくると、斉国の庶民がみな(この男子を)手本にして、桃殳を身につけるのが大いに流行した。
この故事は漢代の学者が書き記したものである。漢代の学者は政治学や倫理学の観点から秦代以前の宗教や巫術を解釈するのを好んだ。上述の斉国男子が桃殳の用途を説明するのでも、実際、漢代の儒学の観点から述べているのである。これは歴史的な事実の解釈と一致しない。
斉国庶民は国君がある種の徳行を称賛し、手本とするよう言っているのを聞く。これが全国的に習俗として流行する。これ自体奇妙な描写である。斉国の庶民がみな良き心を持った聖人になったかのようだ。しかし断言できるが、桃殳の佩帯は自警自励の道徳修養法ではない。あくまで桃枝を挿し、桃梗(桃木で作った人形)を立てる辟邪呪術の一種なのである。
(7)
桃の辟邪物(魔除け)をどのように使うか、決まっているわけではない。究極的には置くか、身につけるか、ということになるだろう。あるいはいくつかの使い方を同時におこなうことになるかもしれない。施術者がやろうとしていることははっきりしているが。
たとえば桃梗(桃木で作った人形)は、門戸や墓を守るために用いられた。その際、桃梗を身につけても、投げ込んでもよい。秦簡『日書』「詰篇」は言う、「大魅」はよく人のいる部屋まで深く入ってきて、一般的な方法で撃退するのはむつかしい。そこで桃梗を投げつけると、それは遁走する。
「詰篇」はまた言う、人はわけもわからず不安な気持ちに苛まれることがある。そんなときは桃梗を身体中にこすってみるといい。癸(みずのと)の日の日没頃に、桃梗を大通りに放擲し、大きな声で「なにがし(憂慮している者の名)は憂慮を免れるぞ!」と叫ぶ。そうすると不安な気持ちはなくなる。
この桃梗と春節のときに使う辟邪の桃梗とは違う。それは妖怪に投げつけられたり、患者の身体にすりこまれたりするときに使う。おそらく巫師がつねに携帯する巫術の武器である。いつでも投げつけられるように、巫師はこのような桃梗をかならずたくさん準備していた。
馬王堆1号漢墓から出土したばらばらになった桃梗は、墓主が生前使用していたものである。
唐代孫思邈の『千金方』に健忘を治す処方が書かれている。「常に五月五日、東に向く桃の枝を取り、日の出前に三寸の木人(木の人形)を作る。衣服の中にこれを入れておくと、人は忘れなくなる」。この治忘処方と「詰篇」の憂慮を除く処方は異曲同工である。それらは古代の桃木辟邪術から来ているのである。
古代の術士は桃木から印章やそれと似た剛卯を作っていた。彼らはそれを門戸に掛け、腕につけ、精魅を駆除した。晋人張華は言う、「桃根を印とし、召鬼することができる」と。召鬼には鬼魅の召喚、役使、厭劾などの意味も含まれる。桃印、桃剛卯などはどれも古代の術士が常用していた辟邪霊物である。これと相関関係にある呪術活動は、古代の中国に相当流行していた。この類の呪術は、桃木崇拝との関係以外にも、その他の迷信的観念と関係があった。それについては「剛卯と印章」の章で詳しく論じることになる。