中国呪術大全 宮本神酒男訳 
第1章 
3 桃の魔除け (下) 霊物と処方 

(1)

 桃木と関連するもの、たとえば桃灰、桃湯、桃膠(とうこう)、桃蠹(とうと)など桃木に、呪術を信仰する者は超自然的な魔力が付着しているとみている。そしてしだいにそれが鬼を除き、邪を避けることのできる呪術の霊物とみなすようになった。

 呪術の「桃灰」とは、桃樹の枝や葉を燃やしてできた灰を指す。古代の呪医はつねに「燔」(あぶる)ことによって薬を精製した。桃灰は鬼を鎮めるために用いられた霊物で、この伝統と関係が深かった。

 漢武帝のとき広川王劉去の妃陽成昭信は、この種の呪術をおこなったという。陽成昭信はまず劉去の幸姫(愛妾)の王昭平、王地余を殺し、王妃の地位にいて、劉去の幸姫陶望卿に死を迫った。陽成昭信は病気で臥せているとき、王昭平の鬼魂(たましい)が騒ぎ立てる夢を見た。彼女は陶望卿も報復にやってくるのではないかと恐れ、「女性器を杭で刺し、鼻と唇を割き、舌を切った」だけでなく、「望卿を腐乱させて霊とならないようにした」。つまり彼女が試みた方法は、陶望卿の遺体をばらばらにし、「大鍋の中に入れ、桃灰と毒薬を混ぜてじっくり煮込む」のである。毒薬がどういうものであったかはわからないが、桃灰の性質は明確だ。「霊にさせない」鬼魂鎮圧を専門とする呪術霊物である。

 桃木を煮て作った桃湯(桃スープ)を鬼怪にかける。こうすることで古代呪術は鬼怪を発見することができたのである。これは桃木の神秘的なパワーを用いたということだが、沸騰水で鬼怪を殺すという意図もあった。

 地皇二年(21年)、前漢から政権を簒奪した「新」皇帝王莽(おうもう)は内外において苦境に陥った。重苦しい政治的圧力のなか、意識下に前漢朝廷に対する罪悪感を持った王莽はつねに漢高祖劉邦がやってきて譴責する夢を見た。鬼神を信じる王莽はこの種の悪夢を恨み、また恐れた。劉邦の鬼魂がまたやってきて暴れないようにと、王莽は自分の親衛隊である「勇猛武士」を派遣し、劉邦が神として祭られている廟の中で呪術を実行した。まず廟内で剣を振り回し、四つの方向で刺す仕草をした。また大きな斧で門の窓を壊し、四方に桃湯を撒いた。そして赤い鞭で壁を叩いた。さらに徹底的に幽鬼を抑えるために、王莽は軽車校尉率いる士兵を高廟の中心に駐屯させた。そして中核軍の北塁(砦)から選んだ部隊を高廟のその他のエリアに駐屯させた。こうした巫術の行為の中での桃湯をかける行為が注目される。これは原始的な桃木辟邪術から派生したあたらしい辟邪法である。

 桃湯をかける術は隋の頃まで方士に好まれてきた。隋文帝楊堅のとき、太子の楊勇が「自分の住んでいる東宮には鬼気が感じられます。鼠妖がいつも騒いでいるのです」と報告した。そこで楊堅は当時有名だった方士の吉を派遣して厄払いをさせた。吉は東宮の宣慈殿に神坐を設置し、東北の鬼門からつむじ風がやってくるのを発見した。彼はすぐに桃湯を用意し、ヨシのたいまつで宮門から邪気を払った。吉と王莽の間には五百年の月日が流れているが、人を驚かせる鬼の駆逐法はそっくりである。呪術の持つ生命力は人間の想像を越えてはるかに力強いものなのでる。

 

(2)

 桃湯辟邪法のバリエーションに桃湯を用いた身体沐浴がある。古代医術書の記録には沐浴桃湯関係の医術処方が少なくない。しかし医術処方は十分に臨床実験がなされてきたとは言い難い。さらに科学的論拠に欠けている。それらが医術と言うより、桃木辟邪術の副産物と言うほうがいいだろう。

 孫思邈(そんしばく)が言うには、疫病が発生するたびに毎月十五日に「東引(東方向に伸びた)の桃の枝を取って細かく折り、それを煮込んだ湯で沐浴する」なら疫病にかからずにすむ。

古医術書『如意方』は出産術を記録する。すなわち、桃樹を煮込んで濃いお湯を作り、それで妊婦は沐浴し、膝を浸すと、胎児が生まれる。『竜門方』という医術書は、同様の方法で死産の胎児を出すことができる。『産経』が言うには、桃、李(すもも)、梅の木の根を煮込んだ湯で子供をよく洗い、沐浴する。これで各種不祥の気を取り除き、子供は終生イボや疥癬に悩まない。

 こういった医術処方と王莽や蕭吉(隋朝学者)の桃湯辟邪法とは一脈通じるものがある[漢朝を簒奪した王莽は漢皇帝廟堂内で桃湯を撒いた。隋皇帝楊堅に東宮を清めるよう命じられた蕭吉は桃湯辟邪法を使って邪気を祓った]。

 

 古代には桃湯で遺体を洗浄する(擦って洗う)風習があった。三国時代の魏人、王粛は言う、春秋時代に桃葉、桃枝、桃茎を煮込んだ湯で遺体を洗うことがあった。これは三桃湯と呼ばれた。桃湯で遺体を洗うのは、秦代以降に現れた習俗だろう。秦代以前にはこのような葬送がなかった。それゆえ三桃湯を三国時代の習俗とみなしてもさしつかえないだろう。桃湯を用いて死体を洗うのは、死者にとりつく邪悪なものを駆除するためだろう。あるいは遺体が生者を害するのを防ぐ目的もあったろう。総じていえば、桃湯が持つ超自然的な力を用いて凶悪なもの、邪悪なものを駆除する呪術儀式であったといえる。

 

 直接桃湯を飲用するのも、桃湯辟邪法の一つである。植物に超自然的な力を賦与され、それを煮込んだ汁を内服する。これは古代の巫術の霊物の運用としてはごく普通で、桃木に限ったものではない。古代民間に流行した飲桃湯習俗と医術家が唱導した桃湯内服療法は呪術的な性質を帯びている。南北朝の時期、荊楚地区では、正月一日に桃湯を飲用する習慣があった。「桃板を作り門戸に著ける」と同様、この習俗は「桃は五行の精であり、邪気を圧伏し、百鬼を制する」という呪術意識から出発している。古代医術家から見ると、春節に掛ける辟邪桃符と鎮宅用の桃木杭は、両方とも奇跡的な効能がある特殊薬材である。

 唐代の孟詵(もうしん)、甑権(そうけん)らは言う、桃符の煮汁を内服すれば「中悪」(脳卒中)と「精魅邪気」(鬼神の類によって引き起こされる原因不明の発作)を治すことができると。

 陳蔵器は言う、桃橛の煮汁を飲用すれば、心腹(心臓やおなか)の疼痛、鬼(きしゅ。多発性の潰瘍)、破血(内出血)、腹脹(腹のふくらみ)などの病気を治し、邪悪の気を辟除することができる。

 明代李時珍の名著『本草綱目』には、「果」部の「桃」の条の記述や桃符、桃橛の薬用価値、また「木」部の「桃符」「桃橛」の条があるほか、これらの薬材としての効能を詳しく説明している。李時珍は孟詵、甑権、陳蔵器らの旧説を大量に引用するほか、新しい見解を補充している。たとえば鎮宅(安宅)のための桃橛(杭)は地中に打ち込んで三年のものがもっともよいとか。また鎮宅用の桃橛を煮込んだ汁は「風虫歯痛」に効く。つまり虫歯の穴に桃橛汁を注いだあと蝋をかぶせる。

 

 医術家とおなじく、古代の道士も桃湯を飲用したり、沐浴したりすれば邪気を防ぐことができると考えた。道教経典中には「解穢湯方(げあいたんほう)」が記される。竹葉十両を取り、桃白皮(桃木の幹の表層下の若皮)四両とともに三斗の水で煮る[一両は50グラム]。桃湯が冷たくも熱くもない状態になるまで待ち、まず一両ほど飲む。余った桃湯で体を沐浴する。道士の解釈では、竹は「清素内虚」(清廉で内側が虚である)でああり、桃木は邪気を辟けることのできるものである。この両者を用いることによって、汚濁の滓(おり)と不潔な気を排除することができる。

 

(3)

 桃木の神秘的な力を信じる術士たちは、その樹上に発生する濃厚な樹脂に興味を抱いた。彼らは桃胶(桃の樹脂)が輝き透き通っているさまを見て、これを人が服用すればそれに応じた変化が得られるのではないかと考えた。『典術』という書によれば、桃胶を服用して十五日後、夜半に北斗魁星を注視すれば、星の中に神仙を見ることができるという。清末期の葉徳輝によれば『典術』とは『淮南万畢術』にほかならない。これがあっているなら、前漢の術士がすでに桃胶の効用を誇大に言っていたということだ。のちの医術家や道士はさらに摩訶不思議な見方を加えていった。

 葛洪は言った、桑灰汁に浸した桃胶は百病に効くと。長期間服用すると、身体は軽く敏捷になり、光を発し、夜に見ると明月のようだった。大量に服用すれば、「断穀」しても飢えることはなかった。

 医術家は桃胶を服して仙人となる方法についてあきらかにしている。すなわち二十斤の桃胶を絹袋に入れる。これを十斗のクヌギの灰汁の中に入れて煮沸すること三十五回、取り出したあと高くて風通しのいいところに掛けて干す。干したあとふたたび煮る。それを三度繰り返したあと桃胶を取り出し、日光にさらす。それを研磨して細かい粉にする。最後に蜂蜜を入れ、かきまぜて桐の種くらいの大きさの丸薬を作る。毎回空腹のときに酒といっしょに二十丸を服用する。これを続ければ「軽身不老」が得られる。

 この類の成仙法(仙人の成り方)は虚妄にほかならないが、桃胶に治療効果があると信じ、大量の処方を記録した李時珍もまた疑いを抱かずにいられなかった。「いにしえの処方は桃胶を仙薬としたが、のちに人はそれを用いなくなった。成果が現れないのは特別なことだろうか」。

 

 桃木関連の巫術性のある薬物には「桃蠹(とうと)」も含まれる。桃蠹は桃樹に棲みつく虫を指す。唐人の陳蔵器は言う、「桑蠹は気を追い出し、桃蠹は鬼を辟ける。どれもそれぞれ効能を持っている」。桃木は鬼を辟けるので、桃樹の上に棲む虫もまたその霊性が伝わっているのである。古代の医術家は桃蠹が「鬼を殺し、邪悪なもの、不吉なものを除く」効用を持つだけでなく、桃蠹糞にもまた不思議な治療効果があることを信じていた。

 『傷寒類要』によれば、桃蠹糞を砕いて粉末にし、水に溶いて「方寸匕(ひ)」(小さじ一杯)服用すれば、疫病を辟けることができ、疫病の患者から病気を移されずにすむという。桃木から桃蠹へ、桃蠹から桃蠹糞へと施術者の連想はレベルアップし、新しい巫術の霊物、巫術の手法が生まれることになった。

 

(4)

 古代の巫医は桃木辟邪術をおこなうとき、「東引」「東向」「東行」を強調する。すなわち東に向かって伸びた桃枝や桃根を用いなければならない。

 馬王堆医書『五十二病方』に言う、東引桃枝を門戸の上に挿す。子供を驚かす鬼(しき)をこれで駆除する。人が東引桃木を重視するようになってから久しいという。

 『本草綱目』巻二十九「桃」の項には古代医方を引用し、東引桃枝と桃根を明確に要求している。たとえば東引桃枝を入れて沸かしてそれで沐浴すると、疫病を予防することができる。

清明節の早朝、鶏や犬、婦女と会わないようにし、ひそかに箸やかんざしのように見える東引桃根を細かく刻んで煮て桃湯を作る。黄疸の病人に空腹時に飲ませると、百日後、病はかなりよくなっている。

 戊子(つちのえね)の日、十四本の東引桃枝を枕の下に置く。心虚健忘[心虚とは、陽、陰、血の不足から起きる病気。動悸や心臓の痛みなど。健忘は健忘症]がよくなっている。

 東引桃枝を切って砕き、それを一升の酒に入れてよく煮る。半升にまで煮詰まった頃、病人に服用させる。突発性の心臓の痛みにはこれがすみやかに効く。こうした明確な使用目的がある場合に東引桃木の医処方が使われるほか、明解でない目的のために使われることがある。隠れた目的のために使われることがある。李時珍はすでに桃茎と桃白皮の使用法を指摘していた。

「(桃の)樹皮、根皮、どちらも用いることができる。根皮はさらによい。東に伸びるものは、外側を除き、白皮を薬に入れる」。「東に伸びるもの」とは、疾病を治療する際に、薬に入れる桃の白皮はかならず東に伸びる桃枝や桃根から取らないといけないということである。

 巫医が東引桃木の使用を強調するのは、神荼、郁塁が東方の大桃樹の下で悪鬼を補足したという神話に依拠している。神話によると、東方、あるいは東南は桃樹の神が統制している地域で、それは悪鬼が判決を受け、制裁を科されている地域でもあった。桃木はもとから鬼を制圧する力を持っているが、東方と関連するなら、二重の力を備え、さらにパワーアップすると考えられる。このように古代医家が東引桃枝と東引桃根を偏愛するのは、巫術的な意識に基づいている。

 

 小説家[志怪小説などの作者]は、東引桃枝をなぜ使用するのか、詳しく説明しようとする。『甄異(しんい)記』は記す、夏侯文規は死後よく姿を現して家に戻った。あるとき庭の桃樹のそばで感慨深そうに言った。「この桃樹は私が自ら植えたものだ。今、こんなに大きな桃が成るようになったのか!」。

 文規の妻は夫の鬼魂に向かって言った。「死人は桃木を恐れるとみな申します。なぜあなたは恐がらないのですか」

 鬼魂は答えた。「鬼がもっとも恐がるのは東南に向かって伸びた、日光を浴びる、長さが二尺八寸を超えた桃枝だ。ほかの桃枝をなぜ恐がるだろうか」

 小説家は東南に伸びた桃枝の威力を強調する。その他の桃枝の制鬼能力をきっぱりと否定している。

 

(5)

 『淮南万畢記』に「孤桃枝の券、令鶏夜鳴」[券は売買や債務の契約を示すもの]の法術が記されている。注釈によると、この法術は南北の桃枝を要求する。「孤立した桃の南北に伸びた枝を取る。長さ三尺。折って券となす。三歳の雄鶏の血を塗って夜鶏の棲み処の下に置くと、すなわち鳴く」。

 変異を求めるため家禽に呪術をかけているのである。後漢の時期、東方の桃枝の迷信はまださかんでなかったのだろうか。具体的な原因はわからないが、これが特別な例であるとはいえそうだ。古代の巫医が西方桃枝に触れることはほとんどない。これは西方と伝説中の鬼を捉える門神および大桃樹の距離がはるかに大きかったからだろう。

 

 桃木辟邪術は民間に広がる間に変化したり、分化したりした。『千金方』に言う、「五月五日に東に向く桃枝を取り、日の出前に三寸の木人(木の人形)を作り、それを衣服の中に入れる。そうすると人は忘れない」。これは健忘の治療法である。

 しかし古医書『枕中方』には同様の法術が書かれているが、用途はまったく違う。この書は述べる。「五月五日に東引桃枝を取り、日の出前に三寸の木人を作り、衣服の中に入れて携帯する。世は高貴であり、自然と異性を敬愛するようになる」。これは相手方を特別とし、異性を敬愛するよう施術する法術である。両者の記述はよく似ているが、古い時代から分化は始まっていた。

「令人不忘」(人に忘れさせない)は解釈が二つに分かれてきた。『千金方』は病理的に記憶力がよくないので「不忘」(忘れないようにする)と理解した。『枕中方』は感情方面の成功を「不忘」(忘れないようにする)と理解した。すなわち人が忘れず、永遠に愛慕してくれるという意味である。

 敦煌の方術書に記載される桃梗致愛法によると、『枕中方』のほうが原始的で、『千金方』のほうが新しい。「不忘」の解釈が異なったため、内容に変化が生じたのかもしれない。施術者の意識からこうした変化が生まれたのかもしれない。