古代中国呪術大全 宮本神酒男訳
第1章
4 葦(あし)、棘の用い方
(1)
古代の呪術のなかで、葦(あし)と棘(酸棗樹すなわちサネブトナツメ)は桃木と組み合わせて使用されることが多かった。桃の棒とアシの箒の組み合わせ、桃の弧と棘の矢の組み合わせがまず思い浮かぶだろう。すでに述べたように、アシと棘は方士が常用する辟邪霊物なのである。この二つの霊物がほかにどのように利用されてきたか考察しよう。
アシにはいろんな種類が含まれる。高さは3メートルほどで、茎は中空、皮は薄く、白い。葭(アシ)、芦(アシ)、葦(アシ)などと呼ばれる。葦(アシ)と比べて小さく、中空、皮が厚く、青い種類は菼(タン tan)、薍(ラン luan)、荻(テキ di)、萑(カン huan)と呼ばれる。もう一種類非常に小さい茎も空でないのが蒹(ひめよし jian)である。葦は別名であり、通称である。呪術の武器として用いられるのは葦と萑である。以下、便宜上アシに関しては芦葦と呼びたい。
アシ(芦葦)を用いて作った縄、すなわち古書にいう「葦索」「葦茭」は、もっとも早く辟邪霊物として用いられたアシの物品である。伝説によれば、神荼・鬱塁(しんじょ・うつりつ)は度朔山の大桃樹の下でアシ縄を用いて悪鬼を縛った。のちに黄帝はこれをまねて、アシ縄をかけて凶悪な魔物を御する呪術を作り出した。この有名な神話が意味するのは、アシ縄辟邪法と桃木辟邪法がおなじで、どちらも古い呪術ということである。
晋人司馬彪は『続漢書』「礼儀志」に言う。夏、商、周では夏五月に辟邪霊物をかける風習があったと。ただしかける霊物は次代ごとに異なっていた。すなわち夏人はアシ(葦茭)を、商人はタニシを、周人は桃梗をかけ、漢代の人はそのすべての礼を採用した。こうしたことからすると、アシの縄をかけて邪気祓いをする呪術は夏代にはおこなわれていたのだろう。戦国時代になると、大晦日と元旦にアシの縄をかける習俗は広く流行していた。本章第2節に『荘子』から引用しているつぎの一節はまさにその様子を表わしている。
「その上にアシの縄をかけ、かたわらに桃符を挿す。百鬼はこれを畏れる」。
(2)
漢代宮廷と各官府(長官)は一年のうちに少なくとも二度アシ縄を掛ける儀式を行わねばならなかった。一度は大晦日の蝋祭のとき、もう一つは夏の五月。前者は、アシ縄を掛け、桃梗を設置し、門戸に虎を描くといった活動の組み合わせ。目的はこれからの一年の祟りや災禍を辟除することである。後者のアシ縄掛けは、おもに夏の暑気と邪気を祓うのが目的である。
漢代には夏至に「大火を挙げる」のが禁忌とされていた。具体的には天都では、炭を焼く、精錬するなどの大火に関する活動が夏至には禁止されていた。夏至に火を作ることを禁じたのは、暑気と邪気が助長するのを防止するという意味で、夏にアシ縄を掛けるのもおおよそ同じ目的だった。
それにしてもなぜアシ(茭)の縄だけが用いられて、ほかの縄は祟りや災禍の辟除に用いられないのだろうか。漢代の学者は神荼郁塁(しんじょ・うつりく)の神話を引用して説明する一方で、知恵を絞ってアシと茭の意味について考え、新しい解釈を導き出した。アシを使用するのは子孫代々まで繫栄し、宗族が永遠に没落しないことを希望するという意味である。すなわち群生するアシのように繁茂することを願う。「茭」の字には交互の意味が含まれる。茭の縄を用いるのは、陰陽二気を交互によりあわせるという意味合いである。[茭は干し草をより合わせた縄のこと]
凶を防ぐものとしてアシ縄は漢代の人々の考え方に大きな影響を与えていた。陝西省の戸県から出土した辟邪の陶器の表面に二つの霊符が描かれていた。そこに描かれた符号と似たものは四川省長寧県の七つの洞窟の漢画像崖墓石の壁にも多数見られる。
考古学者はこの符号の形状を巻きつく縄とみなす。漢代の人は通常アシ縄によって縛鬼を表していた。霊符に描かれたアシ縄の符号は、おなじ霊符のなかの天一星の符号と同様、悪鬼を震撼させ、駆除するために描かれたのだと考えられる。
(3)
魏晋の頃、臘祭や除夜の日、門の上に葦の縄を掛ける習俗が大流行した。魏の王粛はいった。「今、臘月、除夜に疫病を駆逐するために、ニワトリを磔〔八つ裂きにして門に掛けること〕にし、葦縄を掛け、桃枝を立てた」。これは秦代以前の年末に行われた大儺儀式に相当する。南朝劉宋に至り、葦縄と桃枝が廃止になり,アシの縄を用いて悪鬼を駆逐するのはこれで一区切りついたということである。
アシの縄を掛け、桃人形や桃符を設置することはしだいに形式化、典礼化が進んだ。というのも、アシの辟邪術(魔除け)中もっとも典型的とはみなされなかったからである。古代の巫師にとってアシはもっと重要な用途があった。巫師はアシから葦杖、葦戟、葦矛といった呪術の武器を作るのが常だった。そして随時、舞いながら鬼怪を刺し殺すのである。
秦簡『日書』「詰篇」には、アシで鬼を撃つという記述が二か所ある。
一つは、悪鬼が「上帝子下遊」(上天では天子の子、下界では放蕩三昧)を自称する。女性にまとわりつき、同居する。この種の淫鬼を滅ぼすには、まず女性に犬の屎尿の湯で湯あみをしてもらう。そしてふたたび「葦で攻撃する」。すなわち盧葦(アシ)で彼女を引っ張り、こうして「(鬼は)死んだ!」。
もう一つは、鬼はやってくるといつも命令を発する。「おまえの娘をおれにくれ」。迫力がすさまじく、だれも拒むことができない。これは上天の鬼神が人間の世界に降りてきて妻を娶ったものである。あたかも除祓する方法がないかのようである。鬼神が五度来たあと、女性は命を喪ってしまう。この種の悪鬼を治す(退治する)方法はシンプルである。「葦で撃てば、(鬼は)すなわち死ぬ」。
これらは女性の「鬼交」(鬼と交わること)を治療したもっとも古い記録である。古代の医家が言う鬼交とは、虚弱体質と性抑圧が招いた精神性疾患である。患者はつねに夢の中で鬼と同居している。一日中喜んだり、怒ったり、落ち着かない。ときにはたわごとやうわごとを口走る。「上では帝子、下では遊ぶ」「おまえの娘をおれにくれ」といった鬼語は、実際鬼と交わって怪病を患う女性の口から発せられる。女性患者が発病し、たわごとを話している頃、人々は淫鬼がすでに彼女の体に降りたことを認識する。盧葦(アシ)を使って猛烈な力で患者を叩くと、犬屎などを湯あみしてふたたび結合し、患者は回復し、目を覚まし、平静になる。そばで見ると、患者は神智を回復し、淫鬼はすでに殺されている。盧葦(アシ)などの呪術霊物はこのような神奇的な力を見せることになった。
ちょうどうまいぐあいに説明しているのが「酔虎地秦墓竹簡」及びその他『日書』注の竹簡の文のなかで「葦で撃つ」の「撃」は「系」のために借りた文字で、梱縛を意味する。これを理解すれば「葦を撃つ」は患者(鬼)を打つのでなく、患者を梱縛することであることがわかる。
上述のごとく、秦代以前、秦、漢時代、たしかに葦の縄によって鬼を縛る伝説があり、葦縄を掛けて凶気を御する風俗があった。ただしこの簡文の「撃」が「系」と解釈できるかどうかははっきりしない。「撃」の本来の意味は「撃打」「撃刺」などの「撃」であり、「系」と解釈できる余地はない。
『詰篇』にはほかに「桃杖で撃つ」という表現がある。これと「葦で撃つ」の用法は完全に一致する。また「その木でこれを撃つ」「箬(じゃく)で(鞭)撃つ」などの言い回しがあるが、「撃」はどれもひとしく「打つ」を意味している。神荼郁塁の神話が明確に指し示しているが、葦の縄で悪鬼を縛り上げ、虎に食べさせるのは、葦の縄で鬼を縛り上げるだけでは鬼を殺すことはできないということである。
しかし『詰篇』は明言している、「葦で撃つ。すなわち(鬼は)死ぬ」と。もし「撃」が「系」(しばる)と解釈できるなら、悪鬼を縛り上げるだけで殺せると言うに等しい。神話の角度から見ても、この言い方には無理がある。
後漢の頃、年の終わりの逐疫儀式が終わったあと、皇室は公卿、将軍、諸候ら高官・貴族に特製の葦戟や桃杖を下賜した。葦戟は実践的な戟そっくりに作ったものであり、桃杖も同様で、しれで鬼怪を攻撃し、邪悪を避け、身を守った。
葛洪は『抱朴子』「登渉」で言った、山に入る者は官吏が人を呼び続けるのを聞いたことがあるはずだ。これは鬼魅が怪をなしているに違いない。
駆鬼の方法の一つは以下のとおり。「葦で矛を作り、これで刺すと、吉である」。ここで言っていることからすると、葦矛と漢代の年の終わりに下賜した葦戟とは同類のものということがわかる。
葛氏はまた言う。山中の鬼魅は道行く人にいやがらせをする。方向を失わせ、迷子にさせる。鬼魅にたいし、どうしたらいいのか。
「葦杖をこれに投げつける。すると(鬼は)死ぬ」
この文と『日書』「詰篇」の鬼と交わった女性の治療の箇所を比較しながら読むと、この二つの法術の間に歴史関係があることがわかる。葛洪が言う葦矛、葦杖を刺す、投げつける法術は「詰篇」の「撃」である。これによって「詰篇」の「葦で撃つ」の「葦」が「葦の縄」でなく、「葦杖」であることが証明される。
(4)
盧葦(アシ)には燃えやすいという特性があるので、術士は葦煙、葦火を駆邪に用いる法術を編み出した。伝えるところによると、商湯王は侁(しん)族の人伊尹を得て、彼を重用した。伊尹の安全を保証さするために、商湯王は伊尹の家に人を派遣し、萑葦(かんい)をよく焼いた。アシの煙で四周の邪気をいぶして取り除いた。
南北朝の頃、南方の人は毎年正月末日、夜、盧葦(アシ)のたいまつに火をつけ、井戸や厠(かわや)を照らす習慣があった。こうして百鬼を駆逐した。上述のように、隋代に至って、術士らはなおも「桃湯葦火」を、妖邪を祓う重要な武器としていた。
古代の呪術師(術士)は桃弧の棘矢だけでなく、盧葦(アシ)でできた葦矢を用いた。それと桃弧を組み合わせることもあった。魏晋の頃の学者譙周は言った、周代大儺儀式で使用される疫鬼を撃つ箭(や)は、すなわち葦矢である。このような言い方をするとき、すでに根拠を有しているものである。
荊棘は呪術においておもに棘矢を作るのに使われる。ほかにも棘剣、棘刀、棘錐、棘煙、棘火など特殊な呪術用具を作るのに用いられる。
古代の呪術師(術士)が使用した鬼を射る矢は、棘矢、葦矢、蓬矢など数種があった。なかでもよく用いられたのが棘矢である。「棘」という字は「小さなナツメが群がりなる」植物を指す。これは現代の酸棗樹(サネブトナツメ)のことである。盞棗樹上にはまっすぐな刺(とげ)と湾曲した逆さ鈎(はり)形の刺の2種の刺がある。棘矢に使われるのは前者である。
古代では「棘(きょく)」という字は「緊急の」という意味の「亟(きょく)」という字をあてることがあった。後漢の服虔はこの関連性を根拠に解説を試みる。
鬼怪に対し棘矢を使って射るとき、酸棗樹の枝の鋭利な針刺(はりとげ)を使う。というのも「棘(きょく)」と「亟(きょく)」は相通ずるので、棘矢を使うことで施術者の緊急に邪悪なものを除きたいという切羽詰まった気持ちを表しているのである。
音訓を用いて古代の礼制の起源を説明するのは、多くの経師が好んだことだった。ただ彼らの分析から得た結論は歴史的事実と符合することはなかった。
酸棗樹の枝は呪術霊物として用いられたが、これは基本的に非常に簡単な連想から生まれたものだった。人は野外で活動しているとき、棘針でケガしがちである。棘木が群生している場所は、畏れられていた。人によっては鬼怪が生まれる場所であり、だから棘刺は恐ろしいと連想した。鋭利な金属の矢を用いなくても、棘の矢で鬼を射殺すことができた。古い慣例化した呪術の影響は大きかった。慣例に従うのは楽だった。それを改変するのは容易ではなかったのである。
また古代の呪術師(術士)は人と鬼が相通ずると信じていたが、人と鬼の区別ができることも信じていた。人と鬼の区別という観点から言えば、人類に対してもっとも殺傷能力があるのは武器だが、鬼怪に対して効果があるかははっきりせず、鬼怪を駆逐するには特殊な工具と手段が必要だった。
(5)
棘類の植物の中でも「牡棘(もきょく)」と呼ばれる種類がある。おそらく刺(とげ)がことさら大きく、とくに鋭利で、巫師が重視するのだろう。
『日書』「詰篇」に言う。もし人がどうしようもなく厲鬼の絶え間ない攻撃を受けたなら、「桃木を弓とし、牡棘を矢とし、ニワトリの羽根を羽とし、これを射れば、すなわち止む」。巫師から見れば、牡棘の矢は一般の刺矢よりもはるかに威力があるということである。秦国の巫師は牡棘から牡棘剣、牡棘刀、牡棘錐を作り、鬼怪を刺し殺した。
『日書』「詰篇」に言う。「暴鬼」はいつもすさまじい勢いで人を責める。しかし「牡棘の剣で刺せば、すなわちもうやってこない」。また「不辜(ふこ)鬼」(無罪鬼、冤罪鬼)はいつも人を脅す。「牡棘の剣で刺せば、すなわち止む」。[不辜鬼とは、冤罪で処刑されたり、間違って殺されたりした人の魂が死後変じたもの]
この二つの文では、牡棘の剣が悪鬼を刺して撃退することができると述べられている。
同じ書の中で、悪鬼が家の中に入り、眠っている人を昏迷させることがあると記されている。こうなってしまった部屋に人はもう住めない。
悪鬼を駆逐する[いわゆるお祓いをする]には、まず桃杖で部屋の四隅と中央をはたく。そのあと「牡棘刀」で庭の塀を叩き切る。切りながら叫ぶ。
「とっととここを去れ! 今日はもう来るんじゃないぞ。来たら牡棘刀でおまえの服を切り裂いてやる」.
この法術によって災いを免れることができる。以上は牡棘刀で邪悪なものを駆除する典型的な例である。
「詰篇」にまた言う。もし哀鬼がまとわりついて病人の顔に生気がなくなったら、「棘錐(きょくすい)」と桃木刀を病人の心臓に打ちこむといい。哀鬼は必死に逃げていくことだろう。また棘錐というのは牡棘の錐のことだろう。
秦の巫師は棘煙、棘火の利用を重要視していた。『日書』「詰篇」に言う。酷暑の季節に屋内にいて「どうしようもなく寒く感じる」。これは「幼蠪(ようりゅう)」という神虫の為せる怪である。室内で牡棘を燃やすと、この虫は自ら逃げ出すという。もし死んだ妻や妾、友人が戻ってきて祟りをなすなら、莎芾(しゃふつ)[莎草はかやつり草。その球根は香附子と呼ばれ、薬となる。芾は蔓(つる)植物で、紐(ひも)として用いることができる]を用いて、牡棘から作ったたいまつに火をつけ、(たいまつを照らして)鬼魂が二度と来られないようにする。
古代中国において、荊類植物のなかでも牡荊(ハマゴウ)の木は呪術の霊物として常用された。『淮南万畢術』に「南山牡荊、病を癒やせる」とある。
後代の術士は力を込めて言う。枝が「対生」でない牡棘を探す(牡棘の枝葉は一般的に「対生」、すなわち互いに反対方向に生える)。月が暈(かさ)をかぶった夜、削って病人の身長と同じ長さになった荊杖を床の下に放る。「病は危険といえども無害である」(本草綱目)。
漢武帝は南越を討伐したとき、敵軍、すなわち南越を「厭勝」する霊旗を作らせた。その霊旗の旗杆は牡荊でできていた。
葛洪『抱朴子』「雑応」は武器による傷害を受けない方法を紹介している。「牡荊を取り、六陰神符を作る。これは敵に対する符である」この観念と行為は、古代の呪術師(術士)が牡荊を霊異なるものとみなしていたことを示している。
牡荊が呪術 霊物となったのは、古代の刑罰と関係があるかもしれない。荊の枝、棘の杖を用いて犯罪者を打つのはもっともありふれた刑罰だった。戦国時代、廉頗(れんぱ)が荊を背負い、藺相如(りんしょうじょ)にむかって罪をわびたのが一例である。[訳注:藺相如や廉頗は漫画『キングダム』に登場する]
荊条(細長い枝)や荊杖の刑具を作るときは、一般的に牡荊から採った。牡荊の別名は「楚」であり、牡荊から作った刑具も「楚」と呼ばれた。古書では苦痛を形容するとき、楚毒、痛楚、酸楚といった言葉を使う。これらは棰楚の刑の激烈な痛さから生まれた言葉である。「人が恐れる鬼も恐れる」という考え方から、巫師は牡荊を超自然的な力があるものとして利用したのだろう。