古代中国呪術大全 宮本神酒男訳
第1章
5 桑信仰と魔除け
(1)
先祖が養蚕および糸繰りを発見して以来、桑樹は人の生活と密接な関係を保ってきた。桑樹は人類に衣履冠帯(衣類、くつ、帽子、帯)という利器を提供してきた。ほかにこれだけの大きな利益を生む樹木はなかった。この特殊能力は天の神が授けたのだろうと人は考えた。特殊な才能を持った桑樹が神樹とみなされるのは当然のことだった。
古代中国の神話に桑樹に関するものが多いのは、人間の神樹崇拝を反映していた。『山海経』「中山経」は宣山上に「帝女の桑」があったと書かれている。この桑の樹は五丈(15m)あり、葉は一尺(30センチ)もあった。洹(かん huan)山には三本の桑樹があった。枝はなく、百仞(200メートル以上?)の高さがあった。湯(暘 よう yang)谷に扶桑があり、十個の太陽を伴っていた。「九日(太陽)は下枝にあり、一日(太陽)は上枝にある」。この扶桑神話は社会に認識されるようになり、また神話を愛する者たちはそれを拡充し、発展させてきた。
漢代にはつぎのように言うようになった。東方の暘谷は太陽がはじめて昇った場所である。そのなかから巨大な桑樹が成長してきた。名を扶桑、榑桑(ふそう)、若木といった。太陽はこの桑樹の幹をよじ登っていき、ゆっくりと上昇し、天空にいたる。扶、榑はともに大きいという意味があり、扶桑、榑桑はつまり大桑である。のちに伝説中の扶桑はさらに高く大きくなる。人によっては、扶桑は高さ八十尺、葉の長さ一丈、桑の椹(実 しん)は三尺五寸もあった。ある人に言わせれば、高さ数千尺、幹の太さ二千囲(1囲は両腕で抱えるほどの大きさ)もあった。桑の実は九千年に一回成り、金色に光輝いた。ある人いわく、それは天と並ぶほど高く、根は泉と通じた。
桃樹を崇拝しているので、人は度朔山と大桃樹という神話を作り出した。おなじ理屈で神話編纂者は扶桑を巨大なものとして描き、桑樹を崇拝したい自分の心の欲求を満たした。桑樹が普遍性を得るためには、一般の表現では物足りなかった。それで桑樹に霊的な観念を与えたのは合理的な根拠があったのである。
桑樹崇拝ははじめ東方の民族の信仰だった。扶桑神話に関していえば、東方神木から扶桑神話が生まれたことがわかる。桑樹崇拝が普及し、発展したのは、東方の商族が果たした役割が大きかった。商族は桑樹が繁茂した山林を崇拝していた。そのなかに非常に力のある神霊が宿っていると彼らは信じた。彼らはこういった神霊を「桑林」と呼んだのである。
商王朝の開祖湯(商湯王)は桑林に向かって祈り、雨を求めた。商王朝が倒れたあと、周人は商の紂王の庶兄微子啓を宋国に封じた。そして「代々長候とし、殷を守りつねに祀り、桑林を奉じた」。桑林は商族の代表的な神祇のようである。
墨子はかつて言った。宋国は桑林を祀る。燕国が「祖」を、斉国が社稷を、楚国が「雲夢」を祭るのとおなじである。これは老若男女が参加する盛大な集会なのだ。
宋国では天子のみが桑林という大型の舞踊を楽しむことができた。これはもともと桑林を祭るときのみ許される舞踊だった。こうした事実から商族の桑樹に対する信仰が深く大きいことがあきらかだった。商王朝が建立され、商族の宗教信仰やその神話は、彼らの青銅器の鋳造技術とともに四方に伝播することになった。それとともに桑樹崇拝も広く受け入れられていった。
(2)
桑樹崇拝を基本とする桑木辟邪術は種類も多く、古代の社会生活において広範囲にわたって影響を及ぼしてきた。『礼記』「内則」の記述によると、周代の国君の嫡子が誕生したあと、大門の左側に弓が掛けられた。そして三日目に父親と子供が対面する接子儀式がおこなわれた。接子儀式でもっとも重要なのは、矢を射るのが専門の「射人」が「桑弧蓬矢」、すなわち桑木弓を用いて蓬草箭(や)を天地四方に向かって六連発射ることだった。
鄭玄の解釈によれば「桑弧蓬矢、そのもとは太古にさかのぼる。天地四方、男子のすべてである」。鄭玄は、桑弧蓬矢の使用は太古の時代のやり方の模倣とみなしている。天地四方へ矢を放つのは、太子が長じたあと四方に志をいだき、すべてを成就することの予祝なのである。この種の解釈は、しかし問題の本質に触れていない。
孔穎達(こうえいたつ)『礼記正義』に言う、「蓬(よもぎ)は御乱の草である。桑、衆木の本である」。古代の桑木崇拝に関し、古人が辟除邪祟に桑木を用いたことから見るに、孔穎達の言っていることは納得できる。
接子儀式に使用する桑弧蓬矢は、その用途において、古代につねに用いた霊物を組み合わせた桃弧棘矢とよく似ているのである。桑弧蓬矢を天地四方に放つのは、桑木と蓬草の超自然的力を利用して、天地四方からやってくる邪悪なものを駆逐し、太子の無事を守るためである。これは攻撃的な巫術活動であり、鄭玄が言うのちの太子のすべての成功を願う祈祝儀式とは思えない。
戦国時代以降、五行学の影響を強く受けた術士は懸弧儀式や接子儀式に新しいスタイルを持ち込んだ。彼らは本来の素朴でシンプルな巫術的な儀式を加工してより整然とした、変化にとんだ儀式となった。
賈誼(こぎ)『新書』「胎教」が引用する『青史氏之記』は言う、太子もためにおこなう懸弧(=弓)儀式には、五種の木材を使用せねばならないと。すなわち東方の梧弓、南方の柳弓、中央の桑弓、西方の棘弓、北方の棗弓。あらゆる弓には五本の矢がそろっている。それぞれの矢を持って各方向に向かい(中央は空に向かって)三本の矢を放つ。そのあと東西南北の弓と余った矢を都の四つの城門の左側に掛ける。中央の桑弧と余った矢は社稷門の左側に掛ける。
繭に自らを縛らせるのは、実際実現不可能だが、桑弓を中央の弓と規定することはできる。つまり桑木の地位は依然として一般の樹木より高いのである。
(3)
秦簡『日書』「詰篇」は何度も桑木駆鬼法術について論じている。このなかで人は鬼による原因不明の症状に悩まされると述べている。これは人をもてあそぶ「攸鬼」(攸は上部が攸で下部が羊)の成した怪である。桑樹の樹心から作った杖を用いて、攸鬼が再来したとき逆手に取って攻撃する。すると鬼は驚いて死んでしまう。
またこのなかに「図夫」という鬼が人に悪夢を見させると述べている。夢を見た人は目が覚めたあと、どんな鬼怪によってなされたのかわからない。しかし門の内側に桑木の杖をもたせかけ、釜を門の外に留めおけば、図夫が二度とやってくることはない。この二つは典型的な桑木辟邪術である。
『日書』「詰篇」にはもう一つつぎのような箇所がある。犬の形をした鬼がよく夜間に寝室に入り、男子に襲いかかってかみつき、女子をからかったが、人はそれを捕まえることができなかった。神犬が鬼に扮していやがらせをしたのである。桑樹の幹の皮を処理し(ここの部分は欠落している)、精製して薬を作り、飲み下すと、鬼怪は祟りをやめる。鬼怪を防御するために桑樹皮を内服するのは、桑木辟邪術の特殊なバリエーションである。
前漢の哀帝のとき、一度は宜陵侯として封じられた息夫躬が官職を解かれ、京城から追放された。息夫躬は宜陵にやってきたものの、身の置き所がなく、しばらくは空亭[ひっそりと静まり返った庭園のあずまや]に滞在した。近くに盗賊の集団があり、息夫躬が侯に封じられたことを知り、金目のものを身につけているだろうと考え、夜間から様子を盗み見ていた。息夫躬の同郷の賈恵はこの動きを知り、彼に「祝盗方」、すなわち盗賊に対する呪詛の法術を伝授した。[この祝は呪に近い。方は処方の意味]
その法術というのは、まず東南に向かって伸びる桑樹の枝から匕首(あいくち)を作る。匕首の上部に北斗七星を描き、夜になったあと、施術者が髪を振り乱して庭(庭院)の中央に立ち、北斗に向かい、桑木匕首を持って盗賊を呪詛する。祝盗方を考案した人は桑木匕首の使用を強調する。これは桑木が特別な制邪の効能を持つと信じているからだろう。言うまでもなく、祝盗方には桑木の超自然的な力だけでなく、北斗七星の神秘的なパワーが加わっている。
古代の文人は「談鬼説狐」(鬼や狐を談じる)を好んだ。彼らは聞いた話をもとに鬼狐故事を作り上げた。しばしばそれらは巫術的なものから、あるいは巫術の実践から生まれてくるものを反映していた。
清代の大詩人袁枚は談鬼の名手で、彼の作品『子不語』の題名には「怪力乱神」の意味があった。『子不語』続編には「山魈(さんしょう)桑刀をおそれる」という短文が収録されている。その内容と『日書』「詰篇」、漢代の祝盗方は互いに話を裏付けあっている。
袁枚は述べる。常山山中に山魈が出没する。当地の人は見慣れていて、奇怪と思わず、それを「独脚鬼」と呼んだ。独脚鬼はいつも反対に(後ろ向きに)歩いていた。それにはつねにまわりで強風が吹いていた。当地の人が言うには、この種の三鬼はひどく桑刀をおそれる。桑の老木から桑刀を作り、それで軽く振り回すだけで簡単に山魈を斬り殺すことができた。桑刀を門に掛けるだけで山魈は遠くに逃げ去ったという。
清代の常山の土着の人は桑刀を用い、戦国時代の秦国の術士は桑杖を用い、漢代の息夫躬は桑木匕首を用いた。あきらかにこれらは同一の武器である。巫術的な考えや巫術的な手法は二千年隔てても色褪せない。巫術迷信は人を驚かせ、畏怖させる。それが継承されるだけの力を持つことが反映されているのである。
(4)
古代医術家は疾病治療に桑根、桑枝を用いた。こうした類の医術処方は実際伝統的な桑木辟邪術の変種だった。南朝劉敬叔は小説のなかで桑木の神的パワーについて描写している。呉の永康県のある人は自ら山里で会話のできる大亀を捕えて呉王孫権に献上することに決めた。彼は大亀を捕え、船に載せて都の建業へと向かった。途中、停泊しているとき船は一本の大桑樹につなげていた。深夜、彼(捕亀者)は桑樹と大亀が話をしているのが聞こえた。
桑樹「元緒(大亀の名)よ、お前はなぜここに来たのか」
大亀「おれ、捕えられたんだ。ぐつぐつと煮られる運命にあるようだな。だけど南山の柴をすべて切り尽くして煮ても、おれが煮つまることはないよ」
桑樹「聞いた話だが、孫権の謀臣諸葛恪(しょかつかく)は博学で多識という。もしこのかたがわれら桑樹を使ってあんたに対処すると言われたら、お前、どうするつもりだ」
そのことを聞いた大亀はにわかに悲嘆に暮れた。
大亀「子明(桑樹の名)よ、もう何も言うな。大きな禍がそこまで来ていることはわかっておる」
孫権は大亀を手にいれると、それを煮込ませた。長時間膨大な柴を費やして煮込んだが、亀は死ななかった。ついに孫権は諸葛恪の建議を採用し、老桑を柴として用いると、すぐに大亀は煮込まれて死んでしまった。この故事には「桑には信じがたいほどの霊異がある」という考えが前提としてある。これが古代の医術家に大きな影響を与えたのは間違いない。晋代以前、道士の間で「どんな仙薬も、煎じて飲む桑にはかなわない」という秘訣が受け継がれていた。
『千金方』巻九に言う、正月一日早朝、東に伸びる桑根を探し出し、七寸の長さに削る。指を使って細かい筋にして、丹砂を塗る。それを門戸に掛けるか、身につける。疫病の気や傷寒熱病を辟邪することができる。
ほかにも一部の古医術書によると、桑樹の東南の根の下の土を取り、それに水を加えて泥餅を作る。それを患者の腫れの痛みがある箇所にあてる。そのあと艾(もぐさ)とお灸を使って毒性の腫を治療する。
また東引(東に伸びる)の桑樹を焼いて灰を作り、それを水に入れ、赤小豆とともに煮る。おなかが減ったと感じたら、腹がいっぱいになるまで小豆を食べる。それによって体や顔の浮腫を治すことができる。
最後の二例は、ある程度医学的な論拠があるといえるだろう。しかし医術家が強調する東引桑枝や東引桑根の下の土は、あきらかに巫術の影響を受けている。古代の神話で桑樹を東方神木とし、術士は東に伸びる桑枝や桑根を特別に重視する。この点に関して言えば、東引桃枝が奇跡的な効能を持つとする迷信的観念と酷似していると言えるだろう。