古代中国呪術大全 宮本神酒男訳
第1章
6 チガヤの呪術
(1)
白茅とは一般的に言うチガヤのことだ。南北朝以前、この種のありふれた野草は、方士が鬼を駆除するさいの重要な道具だった。
白茅が呪術の霊物となったことと古代祭祀制度とは密接な関係がある。白茅の根は長く、かつ柔らかく、清らかで白い。秦代以前、それは食べ物や礼品を包むのに用いられた。『詩経』「野有死麕」には「野に死んだ麕(ノロ)あり、白茅でこれを包む」とある。白茅は真っ白で、清らかであるがゆえ、人々は神霊を祀るとき、つねにこれを用いたのである。
秦代以前の祭礼において、白茅の使い方は二種類あった。一つは、白茅を五寸ずつ切り刻み、ひとまとめにして、供え物を置く敷物にした。当時はこの敷物を「苴(しょ)」(敷き草)あるいは「藉(せき)」(敷物)と呼んだ。もう一つは、手を加えていない白茅を束ねて「苞茅」(つと)を作った。これはチガヤの束であり、「縮酒」を作るのに用いられる。いわゆる縮酒とは、苞茅(つと)に酒を垂らすことを言う。すなわち濁酒を濾過して清酒を作るのである。それは神霊が享受する神酒の祭神儀式だ。
周の王室が重要な祭典で用いる苞茅(つと)は、江淮(長江と淮河)の間に生えた香気を発する茅の一種、菁茅(せいぼう)から作ったものである。しかし菁茅は中原では入手困難なので、王室が使用する菁茅は南方の国々が献上したものが多かった。そのため祭礼のなかで用いる菁茅の大部分は白茅から作られたものだった。
東周の時期、王室の権威はいっきに落ち、元来は王室に菁茅を貢納するはずだった楚国が義務を履行しなくなった。王室貴族は祭神の縮酒のために白茅を用いざるを得なかった。
『周易』「大過」には「藉(敷物)に白茅を用いる。咎なし」という爻(こう)がある。『周易』「系辞」には「茅、軽いけれども重くなるものなり」と述べている。白茅は普通の草だが、供え物の敷物となり、縮酒に使われるなど重責を担っている。
人はつねに白茅を用いて神霊を祀り、美酒と料理を献じる。つねに白茅を通じて神霊と交流する。長い年月の間、神霊と白茅の間には一定の関係が築かれてきた。神霊は白茅を見るだけで美酒とおいしい料理を献じ祀ることを想起するのである。それは神霊を誘い込み、人間世界に降臨させる。白茅はつねに神霊と接触しているので、神の霊性と威力を身につけるようになる。神秘的な意識がこうして発展し、白茅は霊化し、神を通じ、神を招くものとなり、辟邪の武器となりうる。
(2)
伝説によれば商湯王の在位中、七年も旱魃がつづいたことがあった。この状況を打破するために、商湯王は白馬素車に乗り[白馬に牽かせた白土を塗った車に乗って]、粗布の衣を着て「身に白茅を着け、身を犠牲とし、桑林の野にて祈る」。なぜ自分を神霊にささげるとき、白茅をつける必要があるのだろうか。あきらかに当時の人は白茅が人と神を交流させる特殊な力を持っていることを知っていた。白茅を身につければ祭祀者の意向を神霊が了解してくれると信じていたのである。
『周礼』によれば、周王朝は男巫という官職を設けていた。彼の仕事の一つは手に白茅を持ち、四面八方に向かって神霊を召喚するというものだった。遠方の鬼神を請来するとき、彼らを祭祀することもあれば、そのなかでもとくに悪鬼に向かって責め立て、呪詛することもあった。召鬼術は直接鬼を駆除するわけではなく、順序良く鬼の活動を取り除いていくというものだった。
『周礼』はまた言う。王室が祭礼に用いる道具を作るとき、各職員は集団で何かをすることもあれば、分かれて共同作業をすることもあった。あるときは原料を提供し、あるときは何かを製作した。苴(しょ)もその一つである。王室の公田を管理する甸師(でんし)[王直属の田を掌る者]は白茅を提供する。巫師の長である司巫が白茅を加工して苴を完成させる。
ここで注意すべき点がある。茅草を切って小分けして束にし、苴を作るとき、複雑にしすぎてはいけない。この過程で巫師が必要だった。祭品の茅苴は直接神霊と交流すると考えられたのである。神霊と通じる巫師だけがこのような祭品を作り、提供できると信じられていた。神霊を満足させられるのは彼らだけだった。男巫は茅で神を招き、司巫は茅苴を提供する。白茅は巫師が常用する神霊と通ずる霊物であるだけでなく、その霊化が祭祀制度と関係深いのは間違いない。
『周礼』は、少なくとも一部は周代の法制制度について述べた書である。書中に巫師が白茅を用いて神を招くことが書かれているが、ある意味、一般的な習俗にすぎない。
『晏子春秋』の中で、春秋時代の巫師が白茅を用いて神を招き、駆邪する具体例が述べられている。この書の「内篇雑下」には、斉の景公が高台(楼閣)を建築するよう担当組織に催促したが、それが完成したあと、そこに上がる(登臨)ことはなかったと書かれている。宮廷に常時出入りしている大巫師柏常騫(はくじょうけん)はその理由を問いただした。
景公は言う。「昨夜大フクロウがわめき、騒ぎ立てた。わたしはこれが悪い兆しだと思い、台に登らなかったのだ」
柏常騫は言う。「わたくしめに法術を使わせ、それを取り除かせてください」
景公が儀式に必要なものについて聞こうとすると、柏常騫は言った。「新しい家を建て、白茅を置けばよろしいのです」。
柏常騫が手に白茅を持ち、法術を行ったその夜、景公は大フクロウが叫び声をあげるのを聞いた。翌日人を派遣して調べさせると、宮殿の階段で大フクロウは死んでいた。
1972年、山東省臨沂(りんぎ)銀雀山漢墓から出土した『晏子春秋』竹簡に「柏常騫梟(フクロウ)を祓う」の一節が記されていた。ただしその文と伝承された書に書かれているものとは内容が異なっていた。竹簡によれば、事があってのち、斉の景公は柏常騫に「鬼神に請うて梟(フクロウ)を殺せ」と命じている。柏常騫が白茅の神と通じる力を借りて、鬼神を招き、祟りをなす鬼怪を取り除いたことがうかがえる。柏常騫は周王室の巫史担当の職に就いていたが、のちに斉国に投降したという。彼の白茅祓梟法(白茅でフクロウを祓う法術)と『周礼』「男巫」の「茅で旁招する(神霊を招く)」とは一脈通じる。
『感応経』と題された古書は明確に言う、「(柏)常騫が斉の景公にかわってフクロウの危害を除くために祀り、祈祷をおこなうと、フクロウは羽根をひろげ、地面に倒れて死んでいた」。
清人恵士奇『礼説』によると、男巫の「茅で旁招する(神霊を招く)」と柏常騫がフクロウを祓ったこととは関係がある。つまり「古人は祓うのにチガヤを用いた」、そして「後世に医術は残り、巫術はなくなった。その術は人の間に伝わり、方士はこれを盗み、百鬼を使った。柏常騫はこれを会得していたに違いない」。さまざまな見解があるようだ。
(3)
春秋時代、白茅から「茅旌(ぼうせい)」と呼ばれる旗を作る習慣があった。茅旌は一般の旗としての機能の他、辟邪開道[道を進むために、邪悪なものを駆除すること]という呪術的な意味があった。
楚国の軍隊の先鋒部隊はつねに茅草を旗にしたので、「前茅」と呼ばれた。
周代の上級大夫の葬送で、送殯隊[棺を送る葬列]の前を行く先導人は茅旌を掲げた。表面だけ見ると、茅旌によって前方から情報を伝達することができるので、後続の人や馬を指揮する特殊な手段ともいえるが、実際はそんなに単純なものではないようだ。
前597年、楚軍が鄭国の都城を攻めたとき、鄭の襄公(じょうこう)は胸をはだけ、腕をあらわにし、「左手に茅旌を持ち、右手に鸞刀(らんとう)を持ち」、衆を率いて投降した。
周武王が殷を滅ぼしたあと、「微子啓(びしけい)は上着を脱ぎ(肌をあらわにして)、後ろ手に縛り、片手に羊を牽き、もう一方の手に茅草を持ち、跪いて前へ進んだ」。これは古くからある投降の儀式である。胸や腕をあらわにして刀を持って羊を牽くのは、甘んじていやしい労働だってしますよという投降の意思表示である。手に茅旌をもつのも同じような意味を含んでいる。
後漢の何休は指摘する。茅旌はもともと宗廟祭祀に用いられたもので、これで神霊を迎え、引導した。そして祭者を指名し、保護した。また茅旌には通神辟邪(神霊に通じ、邪悪なものを避ける)の効能があると述べている。
投降者は手に茅旌を持ち、勝利者のために甘んじて先導役を務め、辟邪開路(邪を取り払い、道を切り開く)の役を担い、苦痛を覚えてもやめない。推測するに、楚軍の前茅と大夫葬礼中の茅旌は、どちらも辟除邪祟(邪悪なものを取り除く)の効能があり、あとから来る人たちが安全に通過することを保証する、という意味がある。
注目すべきは、清代の大学者、王引之や劉文淇らが秦代以前に茅を旌の風俗があったと認めていない点だ。彼らは茅旌の「茅」を「旄」の借字とみなしている。茅旌はすなわち旄旌であると。あるいは「茅」は「明」の借字であり、前茅は前明、茅旌は明旌であると。
これらの学者は言語や文字からのみ考え、秦代以前に呪術がさかんであったことや、白茅が辟邪霊物として用いられた文化的背景について十分考えず、しんぴてきなものを一般的として間違った結論に至っていたようだ。
周代、宗廟中の祖先の位牌とその他祭祀場所の各自然神の位牌は固定された位置に並べられていた。自然神の神位(神の位牌)は「屏撮(へいさつ)」とも呼ばれた。この命名は、これらの神位が茅草で包まれ、覆われることがあるからだ。白茅で神位を覆うのは、「鬼神、幽暗を尊ぶ」という特性と符合するだろう。また白茅の威力が増大し、神霊を保護する助けとなるだろう。
(4)
巫師がつねに白茅を通神辟邪(神霊と通じ、邪悪なものを避ける)として用いるのは、白茅が桃茢と同様、巫師のステータスの象徴だからだ。荘子が生き生きとした挿話を語っている。
「小巫が大巫を見て(かなわないと思い)、(吉凶を占うため、大巫の)茅を一本抜いて捨てた。するとこのため、一生(小巫は大巫に)及ばない」。
茅草はすでに抜かれ(つまり小巫が茅草を持っている)巫術活動をはじめるとき、すぐれた大巫が突然出現する。小巫はとてもかなわないと嘆き、羞恥心もあって、茅草を捨てて逃げ出した。この種の巫師は、大巫が持つ大胆さに欠けるところがあり、一生器の小さい小巫のグループから抜け出せないだろう。
荘子の小巫に対する風刺には隠れた意味がある。つまり白茅を極度に蔑んでいるのである。茅草がどうやって駆邪できるのだろうか、と問うているのだ。手に白茅を持って声を張り上げるだけでは、巫師の能力が低いことしかわからない。とんだ笑い話である。
荘子のように白茅を蔑視する人はそんなに多くない。秦簡『日書』「詰篇」に関する記載を見ると、戦国時代の術士は白茅の駆邪の威力をまったく疑っていない。「詰篇」に言う、人がたくさんいる家の中で、原因不明の怪我をしたら、それは「粲迓(さんが)の鬼」のなせるわざと考えられる。黄土に白茅を加えて周囲にたらすと、鬼は逃亡する。
「詰篇」は白茅で包むものが必要だと強調する。たとえば子供が「不辜鬼」に命を奪われると、庚(かのえ)の日の日の出のとき、門の上で灰を吹き、そのあと鬼神を祀る。十日後に祭品を収集し、白茅で包んで野外に埋めると、災厄が除去される。
漢代はさまざまな呪術が混じりあい、しのぎを削った時代。白茅辟邪術も巫術のなかで発展してきた。馬王堆帛書『五十二病方』が記録する疝気治療の医方の最後に、「茅を県(懸)けるのはここであり、寿(祷)を塞ぐ」などの文字が見える。欠落部分が多く、医方の全容を知ることはできないが、当時の人が「懸茅」という言葉を使い、巫医が薬物治療をおこない、同時に白茅を掛け、駆除邪祟をおこなった。
漢武帝は方士欒大のでたらめな言葉や神奇な異術を信じ、「五利将軍」に封じた。のちには「天道将軍」の玉印を授与した。授与儀式は夜おこなわれた。武帝の使者は羽衣を着て、白茅の上に立った。欒大もまた羽衣を着て白茅の上に立ち、玉印を受けとった。あたかも白茅の承諾を得ているかのようだった、授与儀式は神聖なものだった。
葛洪『抱朴子』「登渉」は、つぎのような法術を伝えている。「山中でたまたま召喚した鬼怪に出くわしたとする。それが食べ物を要求しておとなしくならなかったら、白茅を投げつけたらいい。すると死んでしまう」。この種の撃鬼法は、白茅辟邪術のなかでも典型的とされるものである。葛洪は多くの術士からこれらを学び、受け継いできた。白茅撃鬼法の源は自身の伝統のなかにあったのである。
『周礼』には男巫の白茅招神法や柏常騫[はくじょうけん。諸子百家のひとり]の白茅禳梟法、葛洪の白茅撃鬼法は、手法に違いはあるものの、本質は同じである。ただ巫術を信仰する者は、白茅に神力があると信じ、白茅を用いた法術を自ら作り出せばいい。巫術が生産されるときには、すでにいろいろな形に分化しているだろう。複雑な条件が必要となるわけではない。転化が実現するには、時間が解決してくれるだろう。