古代中国呪術大全 宮本神酒男訳 

第1章 
 蘭湯の魔除けとみそぎの儀礼の変遷 

(1)
 李時珍『本草綱目』巻十四「蘭草」の項に言う。「蘭の香草、不吉なものを避けることができる」。李氏が言うこの観念の起源はずいぶんと早いようだ。遅くとも春秋時代、蘭草を用いた辟除邪祟の呪術があった。蘭草を煮たお湯で沐浴をした、あるいは蘭草を手に持って川の中で沐浴をした。当時これらの呪法はすでにかなり流行していた。

 ここまでの分析から、ある植物が霊物(霊験あらたかなるもの)とみなされるには、二つの条件がある。一つは、特殊な性能を持っていること。あるいは重要な実用的価値があること。また一つは、祭神活動や祭祀制度、神話伝説、重大な歴史的事件と関連があること。われわれは蘭草、蘭湯が霊妙なものとなった原因をこの二つから探ることができる。

 蘭草には香気を放つという特徴がある。春秋の人々は蘭草の香りを香りの最たるもの、一国の冠とした。鄭ではそれを「国香」とみなしたほどである。古代民間では蘭草を「香水蘭」「燕尾香」あるいはそのものずばり「香草」と呼んだ。蘭草にはすぐれた点があったので、古代人はつねに上質の化粧品として使用した。

 『左伝』「宣公三年」神の口ぶりで言う。「蘭に国香あり。人これを服媚する(愛する)」。その意味は香りがすぐれて清らかな蘭草を身につけると、他者はそれを愛さざるをえない、ということだ。

 屈原『離騒』は詠唱する。「江離(香草)と辟芷(香草)を帯て、秋蘭を綴って身につけるなり」。この詩は楚人が蘭を身につけることが美しいという気持ちを持っていたことを反映している。

 『大戴礼記』「夏小正」は夏代の暦書を伝えるが、その中に夏暦(陰暦)五月に蘭草を貯蓄すべきだと述べている。それは「沐浴をするためなり」という。蘭湯に沐浴する習慣ははるか昔からあった。美容、化粧のためでもあり、女性は喜んで香物を使ったことだろう。古代の女性と蘭草は密接な関係があった。

 漢代には「男子が植えた蘭は、美しくも芳しからず」ということわざがあった。これは女人が植えた蘭草のみが香気を持つという意味である。もし女性が用いる蘭草が多くなければ、このようなことわざは生まれなかったはずである。古代の蘭湯辟邪術は巫女(女性のシャーマン)が用いていた。女性が主に蘭草を利用してきた伝統と関係があるだろう。

(2)

 蘭草を身につけ、蘭湯で沐浴するのは、はじめは日常生活の一部にすぎなかった。身を香らせ、美容と清潔さを求めただけで、巫術的な意味あいはなかった。のちに蘭湯は邪祟を洗い流すことができるとか、蘭草は不吉なことを避けることができるとかいった俗信が出現した。蘭湯の沐浴による斎戒にはじまり、連想が連想を生んで、習俗が作られていったのである。

 

 秦代以前の貴族は重要な祭神儀式を挙行するとき、先だって斎戒をしなければならなかった。斎戒には飲酒をしないこと、葷菜(くんさい。ニラ、ニンニク、ネギなど刺激が強い食べ物)を食べないこと、沐浴・衣替え、部屋にひとり籠ること、意識を集中することなどが含まれる。斎戒は自浄自律の儀式である。その目的は神霊を侮辱することを免れ、神霊の喜びを乞うことである。これにより斎戒は沐浴と違いものになり、斎戒をする者は、当時もっとも好まれた沐浴方式、すなわち蘭湯沐浴をおこなったのである。

 戦国時代、雲神[雲中君]を祭祀する楚国の巫女は蘭湯で沐浴したあと、美しく絢爛なさまで現れる。

「芳しい蘭湯で沐浴したあと、五彩の衣をまとい、やまなしの若い花をつけた霊[巫女のこと]は、身をねじらせながら舞うが、神霊は身から離れない。その身から何という爛々たる神々しい光が放たれることよ」

 神を祭るには斎戒をする必要があり、斎戒には沐浴が必須で、沐浴には蘭湯が用いられる。ここにおいて蘭湯と蘭草は、神霊の発生と関係がある、[蘭草は霊物であり、儀式をおこなうことで神霊が生まれる]

 神霊に仕える人は、祭神活動に関するすべてのものが神秘的な意味を持っていることを認識している。もしある人が神を祭ったあと願いがかなったなら、蘭湯で沐浴したことを思い出し、祭祀の効果があったのは、蘭湯のおかげと考えるだろう。白茅は白く清潔なので、祭祀に用いられる。祭祀に用いられると、神を招き、邪を駆逐する霊物とみなされる。蘭草が霊的なものとみなされるようになった過程とよく似ている。異なる点があるとすれば、蘭草にほかにすぐれた点があることである。

 

 『周礼』に女巫という官職名が載っている。「祓除衅浴」(ふつじょきんよく)などの巫術活動の挙行を命じることもある。「衅浴とは、香りでいぶしたり、草薬で沐浴したりすることである。そのなかには蘭湯沐浴法術も含まれる。蘭湯沐浴が辟邪法術として成立するには、専門の女巫が組織立てて沐浴を実施しなければならない。

 春秋時代、斉桓公は「天下の才」管仲への敬意を示すために、「三衅(薫)三浴」の儀式でもって接待することに決めた。この「浴」は普通の沐浴とは異なっていた。管仲を何度もいぶらせ、何度も沐浴させた。というのも彼は身に灰垢が特に多く、臭気を発していたので、この才能ある人間に危害を加えかねないすべての汚濊、邪悪をきれいさっぱり洗い流し、絶対的な安全を保障した。当時の巫術の様子を見ると、管仲が(おこなうことを)受け入れた特殊な沐浴とは、蘭湯の浴だった。

 

 戦国時代に流行した笑い話がある。燕の人李季はよく遠くに遊びに行くことがあった。李の妻はこの機に乗じてある貴族の若だんなと私通した。ある日、李季が突然家に戻ると、部屋の中で妻と若だんなはイチャイチャして楽しんでいるところで、下僕の報告を聞いたときはどうしたらいいかわからなかった。妻が老いた下女に身を寄せていると、いい考えがひらめいた。若だんなを裸にし、髪をぼさぼさにしたあと、門から外に走らせた。李季は裸の男がいきなり飛び出してきたので、驚いてたずねた。「いったい誰なんだ?」

 あらかじめ妻と結託していた家人たちはみな、口をそろえて「門から出ていった人などおりませぬ」「李季さまの心の中の邪鬼でしょう。白日に鬼を見られたのです」などと言う。

 李季は話を真に受け、妻に彼のために駆邪をするよう頼んだ。李の妻はどうやって駆邪しただろうか。一説には、李季に「五牲の矢(屎)」を浴びさせたという。また一説には、蘭湯を浴びさせたという。このどちらにせよ、当時の風俗と合致している。蘭湯と五牲の矢は、清らかな香りがするものと、臭くて汚いものとの違いがあるが、戦国時代の人にとって馴染み深い巫術霊物という点ではおなじである。

 

 唐代に至っても女巫は蘭湯沐浴法術を重視していた。唐人薛漁思(せつぎょし)は『河東記』に述べる。士人韋浦(いほ)は赴任先へ行く途中、まちがって客鬼が変じた男子を下僕にしてしまった。ふたりは潼関(どうかん)に至り一家で営んでいる旅店に宿泊した。下僕は門のそばで遊ぶ店主の子供の姿を見た。近づいて子供の背中をぽんと軽くたたくと、子供は意識を失い、そのまま死んでしまった。店主は子供が邪鬼の祟りによって死んだことがわかり、緊急で二娘と呼ばれる女巫のもとに人を派遣し、助けを求めた。二娘が旅店にやってくると、まず琵琶を弾いて神霊を迎え、つづけざまにくしゃみやあくびをしたかと思うと、神霊の口ぶりで語りだす。

「金天神三郎が来たぞ! 我に替わって店主が語ろう。これは客鬼のなせる祟りである。我金天神がこの名の客鬼を捉えよう」

 こうして客鬼の相貌や服装を描く。そばに立って聞いていた韋浦は、自分の下僕がもともと客鬼であったことを知る。

 最後に二娘が言う。「蘭湯を用いて子供を洗う。これで患いを除く」。店主が方術によって治療すると、子供はすみやかに目を覚ます。韋浦は首を回して(あちこち見て)下僕を探すが、客鬼はすでに跡形もなく消え去っていた。

 

(3)

 古代に行われていた大規模な節日活動を起源から見ると、蘭湯辟邪術(魔除け)と密接な関係がある。これは春の終わりの三月、川辺に行って邪悪でけがれたものを洗い流す「祓禊」(ふつけい)、すなわち祓いとみそぎの習俗のことである。

蘭湯沐浴の多くは室内で行われ、祓禊は河浜で行われる。蘭湯沐浴はいつでも実施できるのに対し、河浜の祓禊は定期的に挙行される。蘭湯沐浴は個人の行為だが、河浜の祓禊は集団の行為である。巫術中の蘭湯沐浴は妖邪を駆逐するのが基本で変わることはなかったが、河浜祓禊はさまざまな方向に変化し、発展してきた。しかし違いがあるとはいえ、初期の河浜祓禊習俗と蘭湯辟邪術はおなじ巫術体系上にあった。そのどちらも蘭草で縁起の悪いものを避けるという観念が基礎にあるのだ。

 

 春秋時代の鄭国の祓禊(ふつけい)、祓いやみそぎがもっとも典型である。干支記日法によれば、一か月に二つ、あるいは三つの巳日があり、最初の巳日は「上巳(じょうし)」と呼ばれる[上巳が三月三日に固定されたのは魏晋以降]。

 鄭国の大規模な祓禊は三月の上巳に挙行された。毎年この日がやってくると、鄭国の男女すべてが外に出て、群衆が溱水(しんすい)や水(いすい)の浜に殺到した。手に蘭草を持って体を洗濯し、魂魄を取り戻し、不吉なものを祓除した。

 祓禊礼では、若い男女は自由に意中の人に愛を打ち明けることができ、互いに贈り物をかわす。

 『詩経』「溱洧」は言う。「溱水と洧水には雪解け水が滔々と流れている。士(男)と女、蘭草)を持つ」「士(男)と女は仲睦まじく、シャクヤクを贈りあう」。まさにその情景の描写である。

 この「(かん)」は不吉なものを祓除する蘭草のことであり、シャクヤクの花は恋人同士が贈りあう愛のしるしである。

 「蘭に国香あり」という言葉のもとは鄭国の伝説である。李季が蘭湯で浴せられたという笑い話は韓国の韓非の口から出たものである。それは鄭国と関係があったということである(鄭国は韓によって滅ぼされたが、韓は鄭国を滅ぼしたあと、鄭に都を移した)。

 ふたたび『鄭風』「溱洧」の詩と関連づけると、鄭人の蘭草に対する特殊な感情が理解できるだろう。鄭国の祓禊のために国を挙げて赴く盛況ぶりから、蘭草に対する信仰が発達してきたのはあきらかである。

 

 春秋時代、ほかの地区にも河浜の祓禊の習俗があった。『論語』「先進」に曽点[孔門七十二賢の一人]が自ら祓禊の場に出向いたと述べている。

「暮春の頃、春の衣を着て、私とおとな五六人、子供六七人とで水(ぎすい)に水浴びに行ったところ、雨乞いの祭祀の台で風が吹いてきたので、歌いながら家に帰った」。暮春の三月は北方では水遊びをする季節ではないが、曽点は沂水で水浴びをするために三月に川辺に行き、邪祟を祓除した。魯国でも祓禊が流行していたことがうかがえる。

 『周礼』「女巫」に「歳時祓除」とある。鄭玄によると、漢代の「三月上巳(三月三日)に水辺に行って沐浴や洗濯を行う」に相当するという。『礼記』「月令」に言う、季春三月「天子舟に乗り始める」。後漢学者蔡邕(さいよう)は「舟に乗り始める」とは「名川(大きな川の流れ)で禊(みそぎ)をすること」だと認識している。

 これらのどれも周王室を含む各国で、暮春時に水辺で祓禊を行なったことが証明される。

 清代の一部の経学家は水辺の祓禊は鄭国の淫俗だと断じているが、この説は信じるに及ばない。

 

(4)

 秦代以前の水辺の祓除は上巳節の雛型だった。漢代に到り、三月上巳に固定された節日となった。漢の高祖劉邦と戚夫人は「三月上巳に川のほとりで音楽を演奏させた」。

呂后は晩年、三月の間、自ら灞水の水辺に行き、祓除儀式を挙行した。

 漢武帝は長年子宝に恵まれなかったために、灞水の水辺に行って祓禊活動に参加した。

 『続漢書』「礼儀志」に言う、毎年三月上巳の日、上は貴族から下は平民まで、みな東流の水辺にやってきて思うままに沐浴し、一切の汚濊、いっさいの疾病をこれで洗い流せると認識した。当時の人はこうした活動を「大潔」と呼んだ。

 張衡『南都賦』は文学的な言葉によって南陽・宛邑の禊礼の様子を描写した。

「暮春の禊において、元巳[三月三日]の辰時に[午前七時から九時]、みな一様に陽浜[川の北岸。祓禊をする場所]で祓禊をする。浜辺は赤いとばりや仕切りで埋め尽くされ、野や雲が照り輝いている。きらびやかな衣を着た男女が入り乱れるさまは美しく……」このように盛況な様子がうかがい知れる。

 漢代の学者は文字から禊礼の解釈をしようとする。応劭『風俗通義』「祀典」は、禊の意味は「潔」であるとする。春は陽気が「蠢蠢揺動(しゅんしゅんようどう)」(うごめきだす)する季節。人は病気になりやすいので、水辺に行って自らを浄めるべきである。しかしなぜ巳日に祓禊するのだろうか。応劭は言う、「巳(し)とは祉(し)である」と。[祉は福気のこと]

 すなわち巳日とは福祉の降臨を意味する。漢代は、祓禊という言葉にはまだ巫術的な色彩が濃かったが、蘭草という言葉はしだいに使われなくなっていた。応劭は祓禊がもともと蘭湯辟邪法と関係があったことを知らなかったようである。応劭の禊という文字の解釈には疑いはなかった。

 秦代以前、古書に禊の文字は見えない。『説文』にも見当たらず、漢代にはあまりこの文字は用いられなかったようだ。三月上巳に川辺に到り、洗うのは、邪穢(邪悪と汚濊)を取り除き、清潔を求める活動である。「禊」の字が現れる前、人は「潔」か「絜」の文字によってこの行為を表していた。後代の人は「潔」の音義(音と意味)を根拠に、声符をなす「契」を取り、「示」を加えて神事と関連付け、「禊」という文字を作り出した。禊、潔、絜の三文字の音は同音であり、意味も通じる。巳日に禊をするのは巳(し)と祉(し)が同音だからであり、秦代以前の観念と符合する必要はない。

 

(5)

 三国時代になると、祓禊の礼は大きな変化が生まれた。

 第一の変化は、日時である。秦代以前、秦漢時代の禊礼は一般的に上巳に挙行された。上巳に対応するのは一、二、三日、あるいは十二日以前のどの日も可能性があった。曹魏以来、三月三日を祓禊の避とし、巳日に限らなくてもよくなった。魏晋以降は三月三日を上巳節とし、旧名を踏襲した。

 

 第二の変化は沐浴がしだいに「流觴曲水(りゅうしょうきょくすい)」(曲水の宴)に取って代わったことだ。「流觴曲水」あるいは「流杯曲水」は飲宴活動である。ぐるりと循環する水渠のほとりにみな車座に坐り、ゆるやかな「曲水」に酒杯を流す。この酒杯が流れてくると、そこにいた人が杯を取り、酒を飲む。そしてみな満足したところでやめる。

 

 流(酒杯流し)の俗について、晋の人たちは激しく論争した。晋の武帝は尚書の摯虞(しつぐ)に尋ねた。

「三月三日の曲水の飲酒(の宴)の由来は何なのかね」

 摯虞は答えた。

「後漢の章帝のとき、平原[現在の山東省平原県]の人徐肇(じょけい)の妻妾が三月三日に三人の女児を生みましたが、その月のうちにみな死んでしまいました。村人らはこれを怪事といぶかりました。そこでみな酒を持って東に流れる川のほとりに行って災厄を洗い流したのです。そして流水に酒杯を浮かべ、お酒を飲みました。曲水の俗はこれに始まったと言われております」

 晋の武帝は言った。

「その説の通りだとすると、曲水流觴はよくないことだな」

 尚書郎の束皙(そくせき)[216300]は武帝の言葉を聞いてあわてて言った。

「摯虞はその時代の人ではありませんから、曲水の意味はわかりませぬ。周公旦[周武帝の弟]が洛邑(洛陽)を建設していた頃、流水に酒を浮かべました。散逸した詩に、「羽觴[鳥の翼に見える酒器]、波のままに流れる」という句があります。秦の昭王は三月上巳に河辺に酒を置くと、金人が東方から現れ、<水心剣>を献上しました。そしておまえは西方の夏を征服することになるだろう、と予言しました。のちに秦国は覇を称え、昭王の故地に曲水を設立しました。前漢はこの制度を踏襲し、非常に栄えました」。

 晋の武帝はこの言葉を聞いて称賛し、束皙に黄金三十斤を与えた。同時に媚びへつらうことのできなかった摯虞は陽城の県令に左遷させられた。束皙が曲水流觴の俗の起源を西周に求めたのは滑稽というほかない。かえって摯虞の川浜で邪祟を祓除したという説のほうが事実に近かったと思われる。

 

(6)

 後漢時代に現れた曲水流觴(きょくすいりゅうしょう)は、魏晋時代に至って上層社会の普遍的な習俗となった。『宋書』「礼志」には魏の明帝が天淵池の南に群臣や廃帝(海西公)を呼び、流杯曲水の宴を設けたと記されている。鍾山の後ろに流杯曲水を設けたところ百官が集まった。これらは皇帝が流觴宴会を催していたことを示している。

 東晋帝(ぼくてい)永和九年(353年)三月三日、王羲之と当時の名士謝安らが会稽山の陰の蘭亭に集まり、祓禊の礼を行なった。のちに彼らは詩文集をまとめ、王羲之がその序文を書いた。これが有名な『蘭亭集序』である。

 

 南北朝以来、禊礼の享楽的な面が強まっていった。南斉の人は「禊礼の百の芝居や曲芸に用いる道具を彫ったり作ったりする技術に優れていた」。

 梁朝では「三月三日、四民[士(学者)、農、工、商の四大公民]は川や池、沼の畔に出て清流に臨み、曲水の流杯の酒を飲んだ」。

 唐代に至って、毎年上巳の日に長安の水辺に多くの男女が集まり、「いたるところ帳(とばり)や天幕だらけで、馬車があふれて道を止め、きらびやかな衣は光り輝き、芳しい匂いが道に満ちた」。役人や文人はやってくると詩を書いたり文を書いたりした。翌日にはすぐれた詩文は京に伝わった。

 杜甫の名作『麗人行』の冒頭には「三月三日天気もあらたで、長安の水辺には麗人が多い」と書かれている。これは当時の盛況だった上巳節の描写である。宋代以降、上巳節は重要な節日ではあったが、漢魏が勃興すると曲水流觴は衰退していった。

 

 蘭草を持って川の中で沐浴する祓禊礼俗は一変し、蘭草とは無関係な川浜の洗浄[身も心も洗い清めること]だけになってしまった。そして流觴曲水は洗浄とは無関係になった。その呪術的な意味合いは日々薄れていった。魏晋以来の上巳節は純粋に遊興となり、呪術的意味はなくなってしまった。

 

 その上巳節はしだいにありふれた節日となり、娯楽方面で発展していった。その他不定期に水辺でおこなう祓除法術が流行した。秦代以前の祓禊はのちに二つの支系に分かれた。一つは節日(祭りの日)の浜辺の沐浴であり、流觴曲水(酒杯流し)の礼である。そしてもう一つは原始的な巫術である。

 

(7)

 周代の女巫が執り行った「歳時に祓いをし、衅浴(体を清める)をする」が含む内容は広範囲にわたる。三月上巳に挙行する禊礼はそのうちの一項目にすぎない。「歳時……衅浴」は本来季節ごとにおこなう衅浴を用いて邪祟を祓除することを指す。

 漢代末期の劉禎『魯都賦』に言う、「素秋二七(七月十四日)、天漢(銀河)は隅(夜空の南東隅)を指す。群衆が集まってきて祓いや禊をする。民はみな水を喜ぶ。赤黄色のとばりが渡口をふさぎ、赤いとばりが川洲を覆う。日が暮れて宴が終わり、馬車が衢(ちまた)に集まり、翼を広げた鶴のようにふさぎ、泳ぎ回る魚のように(馬車の)馬はうろたえて走り回る」

 素秋二七とは七月十四日のこと。劉禎は漢代の一部の地域では七月十四日に祓禊を行なっていたということである。その規模は三月上巳節にははるかに及ばなかった。

 南北朝の時期の女巫は川を渡るときの辟邪法(魔除け)を持っていた。伝説によると、梁武帝の皇后郗(き)氏は誕生したとき、「室内が赤く照り輝き、器などがことごとく明るくなり、家人はみなこれを怪しんだ」。女巫はこの女(郗氏)が尋常でなく光に包まれるのを認識し、母の安全をも損ねようとしたので、浜辺でこれを祓い、除いた。

 伝説によれば、魏の大将竇泰(とうたい)の出征も同じく非凡だった。彼の母親は夢の中で風が吹き荒れ、雷鳴がとどろくなか、庭に走って出た。そのとき稲光を見た瞬間激しい雨を浴びて濡れそぼった。目覚めたあと、身ごもっていることに気がついた。しかし出産の時期になっても生まれなかったので、母親は女巫にお祓いをしてもらうよう頼んだ。すると女巫は言った。

「川を渡るとき裙(すそ)が少し濡れれば、かならず簡単に子供が生まれる」

 清の人恵士奇のこの伝説と『周礼』「女巫」のいわゆる「歳時に祓除し、衅浴(きんよく)する」との関連から、「度河裙(川を渡って裙を濡らす)」は古代の女巫が代々伝えていた法術であったことがわかる。

 興味深いのは、「度河湔裙(川を渡って裙を濡らす)」法術が、伝統的な祭日の習俗から転じたものであることだ。隋朝の前後、正月に集まって酒を飲み、河を歩いて渡る習俗があった。男女を問わず下衣(ズボンなど)を洗い清め、同時に河辺で死者を弔った。これは「度厄」と呼ばれた。これ以来、人々は正月の最後の日に「臨河解除」(河辺でよごれを取り除くこと)をおこなった。また女性だけが裙裳(はかまなど)を洗い清めた。

 呪術が発展し、人がみな行えるようになると、決まった日に人はそれを実施するようになる。呪術の垣根から流出してしまったのである。呪術の存在の基盤は神秘的であることだ。大衆はそれを経験し、代々伝えることなどできないはずである。呪術がいったん外に出てしまい、巫師だけが知っている秘密が漏れて大衆が知るものになってしまえば、大損害を受けることになる。中身を変えざるをえなくなる。