古代中国呪術大全 宮本神酒男訳

第1章 
8 ヨモギとグミ 

(1)

 古代の呪術と医術は互いに排斥し合うと同時に相互が影響し合い、浸透し合い、転化し合うとう面があった。医術は少なからず呪術から発生していて、今まで述べたように桃木、桑木の医術にはあきらかに呪術のあとが残っているのである。同時に一部の医術は人が神格化され、最終的に医学体系から離脱し、幽鬼や魔物を超自然的な力で制圧する呪術行為に変成している。ヨモギや茱萸(しゅゆ)、すなわちグミを用いて除鬼辟邪をするのはその典型だろう。

 中国の伝統的な鍼灸法の灸法は、ずっと乾燥したヨモギの葉をよって作ったもぐさを基本材料としてきた。秦代以前にすでにヨモギの灸法は広く用いられていた。『詩経』「采葛」には「かの艾(ヨモギ)をとった少女よ、一日会わなかっただけで、三年がたったかのようではないか」という詩句がある。ヨモギを摂取すれば病に効果があるのだ。

 『孟子』「離類上」には「七年の疾病」を治すには「三年のヨモギ」を服用すべきであると書かれている。古代の医術士を見るに、すべての疾病が灸法で治療できるとし、ヨモギは『神農本草経』などの書においても「医草」と称されている。このことから導き出されるのは、ヨモギが疾病に立ち向かうという観念があり、その観念は巫術とあまり変わらないということである。

 『荊楚歳時記(けいそさいじき)』注釈の隋代の文学者、杜公瞻(とこうせん)が引用する「師曠占(しこうせん)」に言う。「病の多い年、病草は先に生えるなり」。杜氏は 病草が艾蒿(ヨモギ)と認定している。毎年病気が流行する前、治療効果のあるヨモギが成長し、繁茂している。この一節が意味するのは、天から病気が降ってくる前に、すでに病気に対してヨモギの灸を用いて準備を整えるということである。ヨモギの成長が天意と関連があるのは明らかだった。ヨモギには人類を保護し、救済する重要な使命を背負っているのだった。[師曠占は春秋時代に晋の平公に仕えた盲目の楽師、師曠(しこう)が唱えた占い」 

 ヨモギは神のような力を持ち、普通の草ではなかった。杜公瞻は言う。ある姓、宗(同族)の人々は「つねに五月五日の朝、ニワトリが鳴く前にヨモギを採り、人の形に似るように重ね、束ねて、それで炙(あぶ)れば効能がある。唐人韓鄂(かんがく)は「(端午の時)ヨモギを採り、百病をこれで治した」と言っている。特定の時期に採取する特殊な形状をしたヨモギは特殊な効能を持っていた。しかしヨモギも聖化はそれだけではなかった。

 古代方士の間では、三年置いたヨモギを燃やしたあと「津液(唾液)を流すと鉛や錫(すず)に成る」という怪説があった。晋人の張華は自ら似たものを作ってみた。こうした神秘的な色彩を帯びた怪説によってヨモギは呪術には欠かせない霊的な道具となっていった。

(2)

 晋代初め以来、ヨモギ(艾蒿)は中国の伝統的な祭日である端午節と密接な関係があると考えられてきた。艾人(ヨモギ人形)を掛け、艾虎(ヨモギで作った虎)を載せ、ヨモギの葉を挿すなど、ヨモギと関連する活動は端午節でも重要なものとされた。晋の人は、五月五日、ヨモギやニンニクで人形を作り、門の上に置く習慣があった。そうすれば瘟疫を避け、駆逐できると考えられたのである。

 このヨモギ人形と晋代以前の辟邪桃梗(魔除けの桃人形)とは共通点が多い。『荊楚歳時記』には、南朝の人も同様に五月五日に「艾(ヨモギ)を採って人となし(人形を作って)門の上に掛ける。よって毒気を祓う」と記している。

 五世紀のちの北宋の時代、状況はそれほど変わっていなかった。五月に入ると汴梁(べんりょう)市民は桃柳[桃枝と柳枝。駆邪避凶を象徴]、葵花[家の中に飾る。家庭円満の象徴]、蒲葉[がまの葉と菖蒲をいっしょに門口に挿す。平安と健康の祈り]、艾(よもぎ)[駆邪避凶を象徴]などを買いそろえるのに忙しかった。端午の日、家という家は、門前に艾を置き、「門にヨモギ人形を釘付けにした」。

 いつからそうなったか不明だが、人々はヨモギ人形といっしょに道教祖師張陵[張道陵(34156)。五斗米道、あるいは天師道を創設、張天師と呼ばれた]の像を置いた。

 宋代の端午節で、「泥を捏ねて張天師像の元を作り、ヨモギの頭とニンニクの拳を足した。それを門の上に置いた」。これはよく見られる光景だ。

 これだけの霊物が集まれば大きな威力を発揮するだろうが、そこへさらに「横眉怒目」の張天師がヨモギの虎に乗って登場する。当時の詩にも詠まれる。「張天師、生け捕りにしたヨモギの虎に乗ってにらみをきかす。さすらう邪悪な閑神も野鬼も、驚かせば遠くへ逃げてしまうだろう。遠方の恐れを知らない鬼たちだけが貧乏人の家庭にも入ってくるだろう」

 

 宋代の女性は五月五日にヨモギで作った虎の形の頭飾を着けるのが好きだった。この虎形頭飾には、直接ヨモギから作ったものもあれば、五色の絹布を切り取って合わせて作った虎形の上にヨモギの葉を貼り付けたものもあった。頭飾のヨモギ虎のなかには黒豆ほどの大きさのものもあった。精巧な工芸品を作ることができたのである。

 

 ある地区では端午節に艾葉泡酒(あいようほうしゅ)[ヨモギの葉と白酒から作る発泡酒。薬効が大きく、香りがよい]を飲む習慣があった。『歳時広記』巻二十一には「洛陽の人の家では端午(の日)に術羹[しゅこう。白術(オオバナオケラ)や蒼術(ホソバオケラ)のスープ]、艾酒を作り、色とりどりの花飾りを鬢(びん)に挿し、辟邪(魔除け)の扇と櫛(くし)を賜う」という引用が一例である。これと元旦に桃湯、お屠蘇を飲むはよく似ている。それらは巫術的性質を持ち、一般的な健康のための飲み物とは同じではない。

 

 ヨモギから辟邪(魔除け)霊物が作られるが、ヨモギの医療効果に関していえば誇大気味である。ヨモギの辟邪法(魔除け法)によるパワーは、はじめ、それほど強烈ではない。五月五日のヨモギを挿すといった活動は巫師から遠くなり、普通の民衆との距離が近くなった。それ以来、次第にヨモギを挿して邪悪を避ける巫術的意味合いは薄れていくばかりだった。

 宋代の端午節において下女が簪(かんざし)に載せるヨモギの葉のかわりに帛(はく)や紙を切って作ったものを象徴的なヨモギの葉とみなすようになった。ここにおいてヨモギの葉は純粋な装飾となった。[帛や紙というのは、布切れの余りや紙を作るときのコウゾの木の皮の余りのこと] 

 

(3)

 ヨモギと比べても、茱萸(しゅゆ。ぐみのこと)が辟邪霊物として用いられてきた歴史ははるかに長い。『神農本草経』に言う。「夏至の日、ブタの頭、山茱萸、牡蠣(かき)と烏喙(ウカイ。附子のこと)を用いて四肢や二十三骨格を治す」。

 茱萸の薬用価値が高いとして、多くの医家の注目を集めてきた。茱萸の実には濃い香りがあった。

 晋の人孫楚は『茱萸賦』の中で言う。「細かい枝の中に紫色の房がある。赤い実が成っていて、激烈な匂いがつんとくる。神農の本草に照らして、人々の発疹の病を治療する」。この激烈なつんとくる匂いとは、茱萸の実(グミ)の鼻に刺すような強い香りのことである。古代の民間では、たとえばニンニクのような刺激のある植物が、つねに鬼怪に対する武器として用いられてきた。茱萸は早くから辟邪霊物とみなされてきたが、それは薬用として効能があっただけでなく、その香りが激烈であったからである。

 

 漢代の人は茱萸の辟邪(魔除け)の威力を信じていた。『淮南万畢術』は「井戸の上に

茱萸があり、その葉が井戸に落ちると、水を飲んだ人は瘟疫にかかることはない。その種が家に垂れ下がると、鬼魅はここを避ける」と述べる。

 古書『五行志』に言う。「建物の東に白楊、すると寿命が延び、禍や害が取り除かれる」。

 

 ヨモギと端午節は密接な関係がある。茱萸は古代重陽節に欠かせない霊物である。前漢の宮廷の貴族は九月九日に「茱萸を身体に着け、蓬餌[ヨモギケーキ]を食べ、菊花酒を飲む」習慣があった。皇帝はこの日百官に向かって邪気を避けるようにと茱萸を下賜した。

 南北朝の頃、伝説になっていたのだが、重陽節に茱萸を着ける習慣は後漢末期の著名な術士、費長房と関係があるようだ。

 梁の人呉均は『続斉諧記』に言う。汝南郡の桓景は費長房のもとで法術を学んでいた。あるとき費長房は桓景に語った。

「九月九日、おまえの家に災厄がやってくるでしょう。(それに備えて)家人に袋を縫ってもらいなさい。そしてその袋を茱萸で満たすのです。茱萸袋は腕に縛りつけてください。九日になったら山に登って菊花酒を飲んでください。そうしたら災禍は消えてなくなるでしょう」

 桓景は師に言われたとおり準備万端整え、九月九日に一家総出で山に登った。晩になって家に戻ると、飼育していた鶏、犬、牛、羊、みな病死していた。費長房は解説する。

「まさに家畜が人間の身代わりになって死んだのです」

 このとき以来、各地で、九月九日に高い山に登って酒を飲み、女性は茱萸を身につけるという習俗がまねされるようになったという。呉均によれば、茱萸辟邪法が費長房から始まったという主張をするのは小説家だけだという[小説は現代の小説とは異なり、志怪小説などの短い物語のこと]。ただし二つの点では事実であったと確信が持てる。

 九月九日に茱萸を身につける習俗の存在が確認できるもっとも遅い時期は後漢時代である。茱萸袋を身につけるとなると、それは巫師が邪気を制御しようと法術を用いたということである。巫師を経て、そこから民間に拡散した。

 

(4)

 重陽節中の各地の茱萸の用い方は異なっていた。三国時代、茱萸を頭に挿す人もいた。『歳時広記』巻三十四は『風土記』を引用して言う。「九月九日は人気があり、上九と呼ばれた。茱萸(ぐみ)はこの日までによく熟れ、はちきれそうで、色は赤身を帯びた。人々は争って房を折り、髪に挿した。悪気を取り除き、初寒(最初の寒気)を乗り切ろうとした」。のちに流行した、九月九日に茱萸を髪に挿して高山に登る法術は、これが発展したものと考えられる。

 

 茱萸は辟邪の力を持っているので、茱萸酒を飲むだけで自然と辟邪の力が得られる。南朝の小説家劉敬叔は書いている。

晋の人庚紹は湘東[江西省の一部]の太守の任に就くために向かっているときに死んだ。ある日、人の形を取って(亡霊になって)表弟[父の姉妹の息子または母の兄弟姉妹の息子で自分より年下のいとこ]の宋協のもとを訪ねた。時候のあいさつのあと、庚紹は酒を飲みながら話をしようと提案した。宋協は発泡して飲み頃の茱萸を持って庚紹を招いた。

 庚紹が酒杯を飲み干していくと、次第に眉が険しくなり、言った。「この酒には茱萸の気がありますぞ」。すなわち酒杯を置き、それ以上飲まなかった。

 宋協は聞いた。「お兄さんはこの酒が恐いんですか」


 

 庚紹は上ずった声で答えた。「鬼どもの役人はみな怖がるかもしれないが、おれは怖がらないよ」。大衆が茱萸酒の鬼を制圧する力を信じていなかったら、劉敬叔はこの物語を(編集の際)選んでいなかっただろう。

 『歳時広記』巻三十四に引用する『提要録』に言う。「北方の人は九月九日に酒を研ぎ、門の間に垂らして邪悪を避ける。また塩を少し入れて飲む人もいる」。

また男女がそれぞれ18粒、9粒の茱萸の実を酒といっしょに丸のみする。これで「邪悪を避けることができる」。

茱萸酒は内服として用いられるだけでなく、桃湯と同様にさらして用いることもできる。九月九日に飲むのはもちろんだが、普段から邪悪なものを避けることのできる神秘的な薬物でもあるのだ。

 

 茱萸を着け、茱萸を髪に挿し、茱萸酒を飲むという習俗は唐代に至って隆盛を極めた。漢代とよく似て、唐朝も九月九日に官僚に茱萸を下賜する制度があった。唐代の詩人が茱萸を着け、あるいは挿すさまを歌った例を挙げたらきりがないくらいだ。そのなかでももっとも広く詠唱されたのは、王維の『九月九日憶山東兄弟』と杜甫の『九日藍田会飲』だろう。

異郷の地にいた王維が、重陽節の日、故郷の家族・親戚が髪に茱萸を挿し、山に登る情景を思い浮かべて詠んだ詩が前者。重陽節の日の邪鬼を祓う茱萸でさえ、何ら根本的な解決法になるわけでなく、人は老いやすく、はかないものであると嘆いたのが後者の杜甫の詩である。これらの詩に重陽節の巫術的な意味あいが見え隠れするものの、かなり薄まってきている。

 重陽節のときに茱萸を用いる習俗は宋代にはじまったが、次第に衰微していった。宋代の詩に茱萸を詠んだ詩はたくさんあるが、孟元老『東京夢華録』や周密『武林旧事』などの宋代の風俗を描いた書のなかではこれの記述が少なくなっている。ヨモギと同様、茱萸は中国人の観念の中で薬物から呪術霊物になったが、霊物からまた薬物に戻ったように見受けられる。