古代中国呪術大全 第1章11 

(1) 

 衅礼の衅(きん)の字は、古書では「釁」と書かれる。これは血を塗りつける儀礼のことをいう。

 古代社会の人間はすでに血液と生命の密接な関係について認識していた。その頃人は生命を霊魂の活動ととらえていた。血液は生命の源泉であり、血液の流失が生命の喪失をもたらすことは事実として認識していた。彼らから見ると、霊魂と密接な関係にある血液はさまざまな神秘的な力を持った霊異なるものだった。中国の古代民族や世界中の多くの民族は血液の禁忌(タブー)を持っていた。彼らは血液が人類に災難をもたらすのではないかと恐れ、血液と接触しないようにこころがけた。この禁忌は血液崇拝を反映していた。血液に対する畏敬の念と血液の生み出す神秘的な観念から、衅儀礼が含む各種の血の呪術が形成されたのである。

衅礼が含む意味と性質に関しては古代の学者はさまざまな意見を持っていた。ある意見によれば、衅礼とは、血祭り儀式、あるいは祭祀行為を伴う血塗り儀式のことである。許慎(きょしん)いわく、「釁とは血祭りなり。(字形は)祭竈(かまど)なり」と。高誘は言う、「殺牲祭、血塗りをもって釁という」と。衅の鐘に対する趙岐の解釈は「あたらしく鐘を鋳造する。生贄を殺し、その血を隙に塗る。これを祭ることを衅という」となっている。応劭(おうしょう)、顔師古(がんしこ)、司馬貞はこの説に賛成している。

別の意見によれば、衅鐘、衅鼓は祭祀と無関係である。純粋に血のパワーを器物に伝えるのが呪術である。『司馬法』に言う、「太鼓をたたく者にとっての血は、神の器である」。鄭玄いわく、「衅、生贄を殺し、その血を用いる、これは神なり」。臣瓚はさらに明確にいう。「『礼記』や『大戴礼』から考えるに衅廟の礼は、みな祭亊と無関係なり」。晋の杜預(とよ)、清の孫詒譲(そんいじょう)らは、衅礼と祭祀は異なる儀式に属すると認識している。

 

(2)

 上述の二つの説のうち前者は後世への影響が大きい。現代人はよく「血で旗を祭る」「血で太鼓を祭る」と口にするが、これはその語源である。[日本語の「血祭りにあげる」の語源。出陣の際に生き物を殺して神霊にささげ、神霊の保護を受けること]

 しかし衅礼(きんれい)の起源から見ると、後者のほうが正確である。呪術と祭祀は関連があるけれど、結局、違いは大きい。祭祀が神霊に気に入られようとすることに重きを置くのに対し、呪術は神秘的手段を用いて対象をコントロールしようとする。衅礼と祭祀が混じりあうのは新しい現象である。それは衅礼のもともとの意味を表していない。

臣瓉(しんさん)が言うように、周代の衅廟礼はただ血を塗るだけで、祭祀と結合することはなかった。釁(きん)という字は隙を縫うという意味の舋(きん)や裂けた文様の意味の璺(もん)と読みが同じであるか、意味が似ていた。塗血術は衅(きん)と呼ばれた。すなわち器物の隙間に(動物の)血液を塗る習慣からその名を得ているのであり、もともと祭祀とは無関係である。

応劭は「衅(きん)と呼んで舋(きん)となす」と述べて衅礼の本質に近づいている。周代にはたしかに神霊に向かって薦血の儀というのがあり、こういった血祭は衅と呼ばれた。ただしこれは衅鐘衅鼓の見解の側から借用した衅の名称である。それと典型的な衅礼、すなわち塗血儀式は同一である。

清の焦循(しょうじゅん)は大量の文献を根拠に結論を出している、「すなわち血祭の衅と衅器の衅は、二つのことである」と。たしかにもっともである。施術者は血液を霊物とみなす。血を塗られたものは霊気を獲得したとみなす。塗った廟は壊さない。塗った太鼓は破壊しない。塗った旗は折らない。塗った鐘の音は清らかである。塗った亀の亀卜の霊験はあらたかである。しかしすべての重要な道具は血を塗られることによって「神聖なもの」とはならない。

血祭とは神霊に向かって食べ物を提供し、神霊の喜びを得ることである。衅礼とは物体に血液を塗布することによって神力を注ぎ込むことである。両者ははっきりと区別される。

 

 典型的な衅礼は秦代以前から一般的に存在した。秦代以前の衅礼は豚血、羊血、鶏血を使用したが、特別な状況下では牛血や俘虜の血が用いられた。生贄の血を使用するにあたっては、さまざまな具体的な規定があった。たとえば衅宗廟の正室では羊血が用いられ、門戸の夾室(きょうしつ)では鶏血が用いられ、衅礼器にはオスの豚の血が用いられた。

 

(3)

 衅礼を施す場合の対象は人々がとくに重視する、あるいは特殊用途に使う建築物や器物だった。衅礼の対象となるのは以下の通り。

 

<衅宗廟(きんそうびょう)> 

『礼記』「雑記下」『大戴礼記』「諸侯衅廟」に対衅廟儀式が詳細に記録されている。周人は普通の家が完成したあと、飲食の宴を中心とした「考」という儀式をおこなう。

 宗廟の落成儀式は考礼ではなく、衅礼である。衅廟では当日、国君が黒い礼服に身を包み、居室の入り口の前に立ち、衅廟礼に参加する祝官(祭祀祝祷担当の官員)、宗人、宰夫、雍人など官員も礼服を着てそばに侍した。

宗族事務を担当する宗人は命令を出すよう請願した。「衅礼を挙行するよう命令をお出しください」、国君は答えた。「よかろう。やりたまえ」。このあと平時に国君の食事を担当する雍人が羊牲(ひつじのいけにえ)や鶏牲(にわとりのいけにえ)を擦拭し(殺すこと)、宗人や祝官が一通りの祝辞を念じる。いっさいの準備が完了すると、官員(役人)たちは羊や鶏を持って宗廟に入る。宗廟の庭の中央には「碑」があり、犠牲の家畜(羊、鶏)はそれに結び付けられる。儀礼の責任者である宰夫は碑の南に立ち衅礼の進行を監督する。その他の官員たちは北を向いて一列に並んで立つ。雍人は両手で羊を持ち上げ、宗廟の正面から登って屋根の上に上がる。屋上の中央で南方を向いて羊を刺す。羊の血が堂の前に滴り落ちるのを待って、雍人は下に降りる[訳者注:私自身が雲南省のイ族の村で見た生贄の羊を殺す場面では、祭司が羊の喉を刃物で切り、そこから流れる血を器に受け止めた。羊はしばらくの間、鳴き続けた]。

 ついですぐに「衅門戸」「衅挟室」儀式をおこなう。この儀礼でも鶏の血を用いる。雍人は分かれて廟門の中間と挟室中央で鶏を割き[おそらく首を切って]鶏血が地面に流れるままにする[鶏を殺す場合、首をひねって殺すか、刃物で首をスパッと切るかの二つのやりかたがある。私は食堂の裏で首なしの鶏が走り回っているのを目撃したことがある]。塗衅が終わると、結果を国君に報告し、衅廟儀式は結束する。

 『礼記』「雑記下」によると、屋内で鶏を割くことを衈(じ)と呼ぶ。鄭玄は「衈、衅(きん)でもって動物を割くことをいう。まず耳のそばの毛をなくす(剃る)」と述べている。この説は信じるほどではない。

動物の血を集めるには、耳を刺して取るのが簡単である。血をすすって盟約を誓うときに用いる血は、牛の耳から取ったものだ。「」ははじめ、耳を刺して取った血のことを指していた。のちに衅の字と同様に、塗血法術の通称となった。礼書が言う衈は、実際衅であることが多かった。耳のそばの毛を剃るのは、神霊とは無関係だった。

 

(4)

<衅社稷>

 新しく建設した社稷壇には塗血が必要とされる。特殊な状況下では「社主」やその他の神霊の位牌に血を塗る。

『周礼』「小子」に「常に社稷にて(衈)する」とあるが、社稷壇が落成したときに小子の主持で衅礼をおこなうことを指している。

 『周礼』「大司馬」に言う、「大師よ、(王が出征するさいに)師や執事は戦いに臨み()、社主や軍器(兵器)に衅の儀礼をおこなう」。すなわち大規模な出征の前、宗廟と社壇内の祖先の位牌と社神の位牌に動物の血を塗る。そのあと祝官が神を保護し、軍に従って参戦する。

 『左伝』「定公四年」の「君、軍を率いて出征する際、社神に祷告して除災し、殺牲して得た血を鼓に塗り込む儀礼(衅礼)をおこなう。太祝は社主と廟主を持ち、随行する」は「周礼」の記載と一致する。「祓社」とは、衅(きん)礼をおこなって社主を祓うということである。動物の血を社主に塗るのは、社神の威力を増すこと、社神の邪崇を祓除することの二重の意味を含んでいる。

社神は国家を代表する。すなわち「祓社」によって国家の邪崇を祓除する。その直接的な目的は、戦争の勝利を保証することである。

 『春秋』「僖公十九年」の記載によると、子(そうし)は盟会に参加するため(しゅ)国にやってきたが、邾の人によって拘束され、衅社に用いられた。『公羊伝』『穀梁伝』の解釈によると、この衅礼は「衈社でもってその鼻を叩く」ということである。一般的に、戦争捕虜は衅礼によって殺される。子は国君である。鼻を打って血を得るというのは、彼が特別待遇を受けていたということ。

 

(5)

<衅厩蔵>

 『周礼』「圉(ぎょ)師」に言う、新しく馬小屋が完成したあとおこなわれる衅礼を主持するのは、養馬担当の圉師である[圉は馬養を意味する]。『周礼』はまた言う、契約を管轄する官員である「司約」は、契約を結んだ両者の間にいさかいが生じたとき、契約原文の照合が必要となる。契約文保管室の扉を開けるとき、まず鶏の血を扉に塗りこまなければならない。

 

<衅軍器>

 軍器とは旗、鼓、甲兵(鎧兜や兵器)など軍事用品を指す。周代、大規模遠征に行く前に、国君のもと最高軍事長官である大司馬は自ら衅社主と衅軍器の儀式に参加しなければならなかった。春秋時代、衅鼓はきわめて一般的だった。「師の耳目、旗鼓にあり」[軍隊で号令を発し、指令を出すのは実際旗と太鼓だった]。戦鼓は戦いに臨んで役立つのではなく、戦果を得るわけではなかった。しかし当時の人は、戦争俘虜の血液を用いて軍鼓にこすりつけるものとして、衅鼓を格別に重視した。

 前537年、呉と楚が交戦し、呉人は楚軍を撃破した。呉君は弟の蹶由(けつゆ)を楚軍のもとに派遣したが、「師」[酒食や財物で慰労すること]をさせることで楚人を辱めた。傷ついて苛立った楚の霊王は蹶由を殺して衅鼓としようとした[蹶由の血を太鼓にこすりつけようとした]。しかし蹶由はその多弁の才能によって殺されずにすんだ。

 秦国大将孟明は晋国の俘虜となったが、放還(国に戻された)された。晋国将領知罃(ちよう)は楚の俘虜となったが、のちに釈放された。彼らは自分が衅鼓にされなかったことを感謝している。衅鼓と俘虜が殺されることとは同義語だったのである。

 前209年、劉邦は沛県で反秦の群衆を集めた。最初にやったことは、「沛庭で衅鼓旗のもと、黄帝を祀り、蚩尤を祭ることだった」。黄帝を祀るのは世の人に向かって自分が華夏族の代表であることを宣言し、蚩尤を祭るのは戦神の助けを求めることであり、衅鼓旗は血をこすりつけることで、重要な軍器を手にし、屈強な、敵を震え上がらせる神力を得たことを示している。

 

(6)

<衅礼器> 

 『礼記』「雑記下」に言う、「宗廟の器、その名が成る、すなわちこれを衅(きん)するに豚(ぶた)をもってする」。宗廟の礼器というのは名目上のものにすぎない。これを作ったあと、オス豚の血を塗りこまなければならない(それではじめて礼器となる)。

 『周礼』の記載によると、祭祀の雑務を担当する小子は「衅邦器および軍器」いわゆる「邦器」すなわち礼器楽器の類を掌る。宝物を収蔵する天府を掌り、毎年の開春にあたって鎮国のために宝物と宝器の衅礼をおこなう。

 『礼記』「文王世子」に言う、周代の貴族教育の中で教学用具としての礼器楽器をなし、作ったあとに動物の血を塗りこむ。

 

 『孟子』「梁恵王上」は斉宣王の衅錘のとき、牛に代えて羊を用いたと言及している。斉宣王がこのようにしたのは、衅錘のために一頭の牛を殺すのが惜しかったからである。しかし孟子は独自の見解を持っていた。斉宣王は「良知不泯」(良心が完全に失われたわけではないこと)で、仁政を発揮することができた。斉宣王が羊を牛に代えたのは、衅礼に対してあまり敬虔でないことを反映していた。これは衅礼が没落の兆候であるとみなされたからである。

 

<衅亀策>

 亀策とは、占い用の亀甲(甲羅)、蓍草(めどぎ)、筮竹のこと。亀甲、蓍草は本来、予知や吉凶の霊物だった。それに血を塗ることは、結果を予測し、さらに霊験を加えるということだった。

周人の習慣では、毎年正月には新しい亀甲に血を塗った。秦人は毎年十月に亀策をなし、亀卜・繇辞(ちゅうじ)の経書を記録し、衅礼をおこなった。秦人は十月を年のはじめとした。周、秦の礼俗は実際異なるものではなかった。いずれも衅亀策を新年の重要な活動とみなしていた。

 

(7)

 血液によって邪祟を駆除し、妖術を破解するのは、衅礼から派生した呪術である。すでに述べたように鶏血や犬血を用いて辟邪する呪術は、衅礼の一つといっても差し支えない。たんなる血液ではなく、その血液が鶏や犬であるのは、それらが霊物だからである。鶏血や犬血は一般的な家畜の血液と比べ、霊異があると考えられている。

 このほか、豚の血によって妖怪を滅ぼす話がよく見られる。『太平広記』巻七十三「鄭君」に言う、唐代貞元末年、信州に塩鉄を管理する官員の鄭某という男がいた。一方背中を鞭打たれるのも、首を斬られるのも恐れない、何をしでかすかわからない「莽夫(ぼうふ)」[荒くれ者]が騒ぎを起こしていた。鄭某はこの莽夫を捕えさせ、「まず足を折って死ぬまで鞭打て。豕(ぶた)の血を浴びせ、獄中に埋めよ」と命じた。この「沃以豕血」(ブタの血を浴びせ)は、破解妖術の一種である。

 宋代の筆記に、神宗がある日後苑に出ると、オスブタの群れを放牧する人がいたと書かれている[訳者:今もイ族の地域ではブタの放牧を見ることができる]。なぜブタの放牧をしているのかと問うと、牧人は太祖がはじめたことなのでそれに従っているだけで、何のためにそうしているかわからない、と答えた。神宗は禁中(宮廷内)でブタを飼うことにたいした意味はないと思い、この慣習を排除するよう命じた。

 それから一か月余りのち、突然妖人[妖術を駆使する人]が宮中に入ってきた。大慶殿の屋上に登り、宮中は大混乱に陥った。禁中の衛士(警備兵)が妖人を捕えたが、破解妖術をおこなうためにはブタの血液が必要だった。しかし禁中ではブタを飼うことが禁止されていて、すぐに豚血を用意することはできなかった。このときはじめて神宗は太祖がなぜ苑中にブタを飼うよう命じたか、心の底から理解できた。この話を信じるかどうかは問題ではない。実際にあったとしても不思議ではない。犠牲の血を妖人に浴びせるのは、破解法術であり、これは長期にわたって流行した信仰だった。

 

 赤い色は呪術師(術士)が好きな色である。この嗜好は太鼓の昔の衅礼に始まっている。血液崇拝は赤色から血液を連想したことからきていて、それが神秘化されたものである。巫師およびその信徒は、日食から救うため社主を赤い糸でぐるぐる巻きにし、五月五日に邪崇を辟除するため赤い糸を腕につけ、九月九日に災禍を除くため茱萸(しゅゆ)がいっぱい入った深紅の袋を持ち、疫病を防ぐため深紅の帽子をかぶった。また喜んで朱砂で霊符を書いた。それらは秦代以前の塗血呪術と密接な関係があった。