古代中国呪術大全 宮本神酒男訳
第1章
13 つば吐き呪術
(1)
古代中国の呪医は唾液の超自然的な力を信じていた。彼らが作り出した唾液をかける呪術は応用されて広く浸透し、影響は大きかった。中国巫術体系のなかでも民族色が現れたものといえた。古代医術家は唾液を「霊液」「神泉」「金漿」「醴泉」などと呼んだ。 それは人体の「精気」が醸成して作られたもので、唾液の効能が誇大に終われることが多かったが、古代の呪術師の典型的な見方だった。呪術師は精気が強いことを自認する。人に治療を施すときは、精気を凝縮した唾液を飛ばし、邪気や鬼の祟りを駆逐する。このほか、たとえば虫に刺された場合などには唾液をこすりつけ、痛みを止める。巫術意識はこうして重々しくなり、シンプルな経験は誇大なものになって唾液の神聖化が進んでいくことになる。
唾吐きは、悪鬼を駆逐する呪術でありえる。しかしそれだけではない。世界を見渡すと、東アフリカのチャガ族などが唾吐きで祝福を表わすのを除くと、大多数は極端な嫌悪感や蔑視、憤怒といった感情を表現している。呪術師は悪鬼を退治するのに慣れたもので、高みから見下ろす姿勢で、毒づいた言葉や呪詛を投げかけ、ののしると同時に唾を吐きかける。彼らは悪鬼を放擲し、軽蔑する。呪って唾を噴くのは一種の潜在的な行動だ。唾はしだいに神聖化され、鬼に唾を吐くのは、嫌悪や怒りを表わすだけでなく、悪鬼に打撃を与える直接的な方法でもある。こうして唾吐きと呪いはいわば呪術の小道具になっていく。
唾呪およびそれを行う伝統から見ると、唾吐きはすなわち「祝由術」の一部だ。それは秦代以前の呪医が用いた邪を駆逐して病を治す禁呪の呪術、つまり実践するときに唾を飛ばす呪術である。睡虎地秦簡(秦墓竹簡)「封診式」は、「毒言」の例である。いわゆる毒言とは、口に毒液を含んで他人を殺すことを指す。呪術師がよく用いる呪法である。「封診式」は毒言の実例を教えてくれる。
ある村の公士の甲ら21人は同じ村の役職のない丙を縄で縛って官府へ送った。罪状は、丙は口舌(ことば)の毒を用いて人を害したことだという。丙は弁解した。かつて曾祖母の丁が口舌に毒を有したため、流刑に処せられた。このとき以来甲やほかの村民は丙がこの呪術を行えると勘違いしてしまった。そのため人が集まるときには、だれも丙と飲食をともにしようとしなかった。丙は、毒言の訓練を受けたことはない、そうした犯罪活動にはかかわったことがないと主張した。この案件は大騒ぎの場面で終わっているが、当時の人々がいかに口の中の毒液を恐れていたかがわかる。
(2)
漢代までには、噀唾(そんた)は祝由術の基本技法の一つとなっていた。[噀(そん)という語は厳密には口中の水を吹きかけることを意味する。私がよく訪れた青海省のチベット族の村のハワ(一種のシャーマン。直訳すれば神人)は、口に含んだ聖水を吹き出すと、それが霧状になって拡散した。聖水を浴びると子宝に恵まれると人々は信じていたので、女性は喜んで霧を浴びようとした。これには中国の民間習俗の影響があるかもしれない]
巫医は病を治すのに呪文を唱え、三度唾を吐く。患者が自ら呪文を唱えて治療するときは、男は何回、女が何回唾を噴き、それに対応する規定がある。馬王堆漢墓帛書『五十二病方』には大量の唾呪、あるいはその法術が記されている。以下はその例。
嬰児が発熱し、筋肉がひきつり、眼球がひっくり返り、両あばらに痛みがあり、喘息がひどく、大便が硬く色が青いとき、それは瘛(けい)病である。屋根の雑草を取って灰になるまでよくあぶる。それを湯匙(れんげ)によそう。新しい水を地面の穴に注ぎ、攪拌し、上澄みを盃に入れる。湯匙に向かって唾を吐き、呪詛をおこなう。
「われは今、どうしようもなく唾を噴きたいぞ。天上の彗星よ、人身の壊血よ、よく聞くがいい。われは門の左の警護を殺したい。門の右の警護を殺したい。悪行を改めることはないだろう。われはすぐにおまえの身体を断ち切るだろう。そして死骸(むくろ)を大衆の面前にさらすだろう」
呪文を唱え終わると、湯匙(ちりれんげ)で嬰児のひきつっている腱をマッサージし、湯匙を杯のほうに傾けて、象徴的に、病を起こす悪血を杯に入れる。杯の水の表面にハエの羽根のような血の跡が浮かぶと、それを塀の上にまく。ふたたび水を取ると、また湯匙に唾を吐き、おなじことを繰り返す。効果がなければそれを繰り返し、病状が好転するまでつづける。
身体に悪性の腫物ができたとき、自ら山を探し出すといい。そこで呪文を唱える。「私〇〇は不幸にも、廱(よう 悪性の腫物)ができてしまい、耐えがたい苦痛に見舞われています。今、明月があなたを照らしますように。柞(クヌギ)であなたを射抜きますように。虎の爪であなたを治しますように。あなたの刀を抜き、あなたの尾を切り落とし、あなたの肉をぶった切りますように。もしそれでも逃げないというのなら、あなたの苦しみを食べましょう」。
呪文を唱え終えたら、これに唾を噴く。治療効果を強固なものにするために、翌日は日の出前にある方角に向かって唾を噴き続ける。
漆瘡(漆が引き起こす皮膚病)を治療するためには、まず唾を三度噴き、「ペッ、漆王!」と三度叫ぶ。そのあと呪文を唱える。
「天帝はあなたに漆の弓矢を賜った。それなのにあなたのおかげで体に腫物ができてしまった。いま、あなたにブタの糞尿を塗ろう」。
こう言い終わると、靴底で腫物の上を摩擦する。
ほかの呪法では、まず「天帝に五種の兵器あり。あなたにはない。もし逃げるなら、あなたを刀で切り殺そう」と唱える。そしてすぐこれに唾を噴く。男は七度、女は十四度吐く。
(3)
漢武帝以降、南方越族の巫術、たとえば越祠、鶏卜、厭火術、禁呪法などがぞくぞくと中原に入ってきた。そのなかでも越族の禁呪法は内地での影響がきわめて大きく、「越方」と称された。漢代の人はおおよそ南方の巫師は特別で、越巫の禁呪がもっとも威力があると考えた。彼らの呪文は口の中の毒液と混じり、唾を噴いて人を射止め、木を倒し、鳥を落とすことができた。
後漢の思想家王充は、毒は一種の陽気で、南方の人の陽気は充足していて、ゆえに口には劇毒を含んでいると証明しようとした。『論衡』「言毒」に言う。
「太陽の火気はつねに毒気となる。激しい熱の気である。太陽の照り付ける地は、人を落ち着かなくさせる。落ち着かないので、言葉がトゲとなり、毒となる。ゆえに楚越の人は落ち着きがなく、せっかちだ。人と話しているとき、つばが人に当たる。すると当たったところが腫れたり、傷になったりする。南郡は酷暑の地なので、樹を呪えば樹が枯れ、鳥に唾をかければ鳥が堕ちる。巫咸[ふかん。伝説的な神医]は祈祷によって人の寿命を延ばし、人の災厄を治した。なぜなら江南に生まれ、激しい気を持っていたからである」。
またこうも言っている。
「小人はみな毒気を持っている。陽地の小人の毒は激烈である。ゆえに南越の人が祈祷すればすぐに効果が現れる」。
王充が言おうとしているのは、南方では巫師が人を射る唾をもっているだけでなく、普通の南方人の唾でさえ尋常ではないということである。王充は鬼神も禁忌も信じていなかったが、越巫の唾の呪術は信じていた。越族の噀唾(そんだ)術が後漢の時期に大きな影響力を持っていたことは、このことからも推し量れる。
唾法が伝わってから長い時間がたち、その合理的な根拠を探す人もいた。上述の王充もそのひとりである。王充は陽明学を用いて「唾が人を射る」ことを論証しようとしたが、魏晋の頃には、鬼の立場から説明を試みる人もいた。彼らによると、鬼はほとんどのものを畏れないが、「人の唾だけは嫌い」だという。
この奇妙な論理をはじめに記したのは晋の張華である。『列異伝』の中で枯葉述べる。南陽の宋定伯がある晩歩いていると、一匹の鬼と出会った。鬼は隠そうともせず自分のことを述べ、宋に対して何者なのかたずねてきた。宋はずる賢く「おれも鬼なんだ」と答えた。本物の鬼とにせものの鬼が互いにどこへ行こうとしているかたずねると、両者とも行き先が宛市(いち)であることがわかったので、一緒に向かうことにした。
途中で宋は教えを乞うた。「おれは鬼になったばかりでよくわからないことが多い。鬼って何を畏れるんだい?」。鬼は答えた。「鬼が恐れるって、そりゃ人から顔に唾をかけられることさ」。
宛市の中心に着くと、宋は鬼を地面にねじ伏せた。すると鬼は一匹の羊に変身した。宋定伯は市場で大声を出して羊を売り始めた。鬼がまた姿を変えてはまずいので、宋は羊に唾を吐きかけた。最終的に羊は千五百銭で売れた。当時の人は宋をうらやましく思い、「定伯売鬼、千五を得る」ということわざができたという。
鬼を唾で制圧するのは簡単なことである。自身がなく、疑いを持つ者も、これならできると歓迎しただろう。鬼が唾を畏れるという観念と唾鬼法術はこうして広く流行した。
宋の郭彖(かくたん)『睽車志(きしゃし)』に言う、孫元善が市場を通り過ぎたとき、餅を売っている者が死んだ下僕にそっくりだった。これは鬼に違いないと思い、その餅売りに唾を吐きかけた。
また明の姚旅『露書』には、「鬼は符を畏れず、ただ唾を畏れる。人は辱めを畏れず、ただ妻を畏れる」という詩句がある。
(4)
唐代のはじめ、唾呪(だじゅ)法術は全盛期を迎えてようとしていた。当時の名医がそれを公然と医典に入れるほど一般化していた。唾液の神力は極端に粉飾されたが、奇怪な呪文が疑いの目で見られることはなかった。こうしたことが医学として見られることは、後世の医学界にはなかった。
孫思邈(そんしばく)の『千金要方』と『千金翼方』が当時のその方面の代表作である。『千金要方』巻五の「治客忤法(ちきゃくごほう)」と巻二十五の「治金瘡法」にそれぞれ唾呪法術について書かれている。[客忤とは夜驚症のこと]
そのうちの一つ「治客忤法」とは、かまどの上に置いた刀で、子供の衣服をほどき、心臓のところを露出し、呪文を唱えたり唾を吐いたりしながら、同時に刀を揮って腹部を切り裂く動作をする。
孫氏は、呪文を唱えるとき、「啡啡(フェイフェイ)」という声を伴わなければならないと指摘する。「啡」は「呸(ぺい)」の古文字である。[擬態音で、日本語では「ぺっ」に当たる]呪文が14句あるとすると、「二七啡啡」が配されることになる。[二七は2×7=14]ゆえにこの呪文はつぎのようになる。
「煌煌日は、呸(ぺい)! 東方から出る、呸(ぺい)! 陰を背に、陽に向かって呸(ぺい)! 葛公、葛公、呸(ぺい)! 何公か知らず、呸(ぺい)! 子が来て、子が顧みずに去る、呸(ぺい)!」
14回唾を吐き、呪文を14回念じ、14回切って一遍とする。三遍おこなったあと、豆豉丸で子供の体を三度摩擦する。さらに呪文を唱えること三度、刀でこの団子を開く。
その中に毛が入っていたら、団子を道中に捨てる。客忤[夜泣きなど子供の病気]は癒える」。
治金瘡の唾呪法のために呪文を念じる。
「某甲(患者の名)は、今日の具合はよくない。某所に傷がある。天皇に上告し、地王に下告せよ。清い者は出るなかれ。汚れた血を揚げるなかれ。良薬百袋、熟れた唾には及ばない」。
一日に十四遍念ぜよ。傷口の痛みにはこれしかない。「これに唾をかければ(痛みは)止む」。
唾法の歴史は十分に長いが、巫師は呪文の中で噀唾(そんだ)の威力を無限に誇張する。自分の吐き出した唾は山を崩し、岩を裂き、天地をひっくり返すと豪語する。しかし秦漢の時代はまだそんなに唾の力を見ることはなかった。力を大げさに見せるのは、魏晋以来の巫師と道士の新機軸だった。
唐代の巫道(巫師と道士)は、呪文を丹念に作り上げ、唾液の神化を進めた。そしてそれはかつてない高みに達しようとしていた。
『千金翼方』の末尾の二巻には、唾と関連した代表的な呪文が収録されている。巻二十九の「大総禁法」中の呪文は、つぎのごとき。
「一唾止毒、二唾止瘡、三唾之後、平常如常」(一つば吐いて傷を止め、ふたつば吐いて瘡(はれもの)を止め、三つばを吐いたあと、つねのごとく平常である)。このように比較的つつましやかな方である。
しかし一部の呪文は瘋癲の人のようにたわごとが並ぶ。瘡腫の呪文はつぎのとおり。
吾口如天雷、唾山崩、唾木折、唾金缺、唾水竭、唾火滅、唾鬼殺、唾腫滅。(わが口は雷のようだ。唾は山を崩し、木を折り、金属は破損し、水は涸れ、火は滅し、鬼は殺され、腫物は消えた)
池中大魚化為鱉、雷起西南不聞音。(池の中の大魚はスッポンとなり、雷は西南に見えるが音は聞こえない)
大腫如山、小腫如気、浮遊如米。(大きな腫れは山のごとく、小さな腫れは気のごとく、米のごとく浮遊する)[気はおそらく粟(あわ)]
吾唾一腫、百腫皆死。(わが唾で一腫、百腫でみな死ぬ)
急急如律令!
禁疔瘡の呪文もある。
吾口如天門、不可枉張、唾山崩、唾石裂、唾金缺、唾火滅、唾水竭。(わが口は天門のようだ。捻じ曲げることはない。唾は山を崩し、唾は石を裂き、唾は金属を破損させ、唾は火を滅し、唾は水を涸れさせた)
急急如律令!
(5)
誇張された唾の神威の呪文中、『千金翼方』巻三十に記された禁遁注(邪悪なものを駆除する古い呪文の形式)の伝染病の呪文は、もっとも多く話を織り込んだものといえる。この呪文の前半は以下の通り。
吾従天南来至北、食塩三斛、飲水万千。(私は南方から北方へやってきた。三斛の塩を食べ、大量の水を飲んだ)
経江量海、手捉丘山、口含百毒、心懐蚰蜒。(川や海を経て、山や丘をつかみ、口には百毒を含み、胸には悪虫を抱く)
唾天須転、唾地地穿、唾石砕裂、唾火滅煙、唾鬼即死、唾水竭淵。(唾を吐けば空はひっくり返り、地面はえぐられ、石は粉砕し、火は滅して煙となり、鬼は死に、淵の水は消え失せる)
漢代の神話によれば、共工が帝位をかけて顓頊(せんぎょく)と争ったとき、(共工の)怒りが不周山に触れ「天の支え(柱)が折れ、地の支え(縄)が絶えた」。
しかし後世の巫師は唾を吐きかけただけで天地がひっくり返ったと称した。こういった荒唐無稽な話を作ったのは漢族ではないだろう。[つまり南方の民族]
唐宋の時代、人々は悪鳥を祓除するのに唾法を用いた。王充によれば漢代、南方の巫師は「唾鳥によって鳥を落とす」ことができた。唾によって悪鳥を祓除する習俗はこうして広がっていたのである。
唐の人劉餗(りゅうそ)は『隋唐嘉話』の中で言う。「朝早く、張率更[南北朝時代の有名な詩人]の(家の)庭の木にフクロウがとまって鳴いていた。妻にとって不吉なことであるとして、これ(フクロウ)に何度も唾をかけた」。
宋の人陶谷は術士の話を引用する。
「フクロウは天の毒を持つ。それを見たものは必ず禍に見舞われる」
もしフクロウを見てしまったら、「すかさずフクロウに向かって唾を13回かけねばならない」。そのあと坐って沈思黙考し、心の中に北斗の形を思い描く。一時辰(二時間)後、災禍を祓除することができる。
五代の頃、ひとりの武官が「梟」の字を極端に忌み嫌った。その管轄内の住民はフクロウを十三唾(じゅうさんだ)と呼んだ。「連唾十三口」という祓梟(ふつきゅう)法術を当時の人はみな知っていたようである。
明清の時代、唾で治療する法術はかなり広範囲に見られた。ただ『千金翼方』に記される荒唐無稽な唾呪術はほとんど見られなくなっていた。李時珍は長期にわたって唾液で目をこすれば「頭が明瞭になり、鈍くなることはなかった」。また「雲翳(角膜混濁)のある人がいる。毎日数回(眼球を)なめさせる。長くやっていると真気がしみこみ、自然と毒が散り、翳(かげ)はなくなる」という。
また吐いた唾には起死回生の効能があるという。「人がひどくうなされるとき、そもそも叫ぶことができないが、踵(かかと)や親指の爪を思い切り噛み、たくさんの唾を顔に吐きかければ、わめきながらも徐々に目が醒めてくる」。
長脚ムカデの尿が人影にかかったらできものができると俗にいう。清代に流行した「治長脚ムカデ尿射人影法術」はつぎのようなものである。
地面に長脚ムカデの画を描く。ムカデの腹の部分の土を掘り出し、それに唾を吐きかけ、泥をこね、患部に塗る。
治犬咬法術というのもある。
人を犬に咬ませる。すぎに地面に「虎」という文字を書く。そして呪文を唱える。
一二三四五、金木水火土、凡人被犬咬、請土地掲起土来補。
唱え終わると、よだれを土の上に吐く。その土を患部に広げ、手で塗り込む。これで完治するという。
鬼は唾が嫌い、鬼は唾を畏れる、という言い方は唾を厭う人間の心理の表れである。同じ心理から、鬼魅は唾を吐きかけられて激怒するという観念が生まれた。もし唾を噴くことで鬼怪を消滅することができなければ、鬼に恨みをいだかせて、永遠に安寧が得られないようにしてやるといい。人間の精神の深いところで噀唾法術は作られる。この法術が衰えてなくなると、それ自体が弱点となっていく。