古代中国呪術大全 宮本神酒男訳
第1章
16 汚物魔除け(中)人の汚物
(1)
人の糞尿を用いて災難を除き、罪を消すのと、牲矢駆邪法(せいしくじゃほう)は同一の原理によるものである。可能性の話でいえば、戦国時代にはすでに犬矢を浴びせるのが流行っていたのではないか。すなわち犬矢丸、つまり犬の糞尿のつぶてを大神に投げつけるような呪術が。すると人糞スープを鬼怪に浴びせつける呪法の起源も古そうである。
清代の小説に人の糞尿を投げつけて鬼を攻撃する場面は多い。これは当時の人が現実的にこの呪術をおこなっていたことを反映している。清代の李王逋(りおうほ)は『蚓庵瑣(いんあんさ)』のなかで、木炭精が変じた少年が毎日きれいな農婦のもとにやってきてまといついたと述べている。このとき以来農婦の家の中は怪異現象が絶えることがなかった。のちに農婦に何が起こったか、姑が語っている。
「あたしゃ、妖邪汚物を恐れるって聞きましたよ。翌日妖怪がまたやってくると、そいつを尿桶に押し込んだんです。あたしと家族の者はそれを家の外の地面に埋めました。なかで何かがじたばたしているのがわかりましたので、それを救いだしたのです」
この農婦のはかりごとは成功した。尿桶に押し込められていた少年は全身汚物だらけになりながら叫びつづけた。「きたない、きたない」と。そう叫びながらだんだん小さくなっていった。家族の男たちはしばらく待って、そいつにつかみかかると、あらたに桶に入れ、蓋をした。桶から声が聞こえなくなると、人々はそれを家から離れたところに持っていった。そして妖怪が焼け焦げたただの野桑の木にすぎないことがわかった。
(2)
『聊斎志異』中に「雷公」という一篇がある。この故事で雷神は人の糞尿によって制圧される。亳(はく)州の王従簡の母が家の中でぼんやりすごしていると、外で小雨が降り始めたと思うと、大槌を持った雷公が門を破って入ってきた。王の母はとっさに知恵を働かせて、糞桶をすぐに持ってきて、糞便を雷公に振りかけた。雷公は汚物でびっしょり濡れると、刀や斧で斬られたかのように、よろめきながら、つまずきながら家を囲む塀まで歩いていき、そこで牛のように鳴いた。しばらくするとお盆をひっくり返したかのような大雨が降り、雷公は雨できれいに洗浄されると、霹靂にはさまれて天空高く飛んでいった。
興味深いことに、それから七十数年後、袁枚が類似した故事を収録している。『子不語』巻二十三「雷公汚れる」は同時代の人沈雨潭の話を伝えている。ある年、「淮安に雷がとどろくと、家の中にいた孤独で貧しい老婦のところに落ちた。老婦はあせってズボンを下ろして小便をし、馬桶でそれ(雷神)にかけた。すると金の鎧を着た者が屋根を伝って降りてきた。しばらくの間雷神は老婦の傍らでうずくまっていた。口はとがり、体は黒く、身長は二尺ばかりで、腰の下は黒皮の裙(スカート)で覆っていた。目をみはったまま、何もしゃべらなかった。二つの翼はきらめいていて、ぶるぶる震えていた。住民が山陽県の官吏に知らせると、官吏はすぐに道士を派遣した。道士は符を描き、醮(祭壇を設け、行う儀式)を建てた。十余石の清水でその頭を濡らした。翌日また雨が降り、それは飛び去った」。
この故事のロケーション、人物、雷公の外見など多くの点で『聊斎志異』とは異なっている。蒲氏の旧作をそのまま収録したとは思えない。ただ人の糞尿で雷公を攻撃した点では完全に一致している。
袁枚は他の一篇中に、糞汁をかけるという方法で白蓮教の妖術を打ち砕いたと述べている。原文は平易に書かれている。
「京山の富者、許翁は代々桑湖畔に住んでいた。新婦を娶ったが、その嫁入り道具は巨大なものだった。楊三という名の盗人は一年以上うらやましいと思っていた。
そんなおり翁が子を送るために京へ赴き、妊娠している新婦と下女二人だけが残されていると聞いた。夜、彼は屋敷に忍び込み、暗がりに潜んだ。
三更が過ぎた頃、灯光のもとに一人の姿があった。目が深くくぼみ、虬(みずち)のような鬚(ひげ)を生やしていた。その人は黄色い布袋を背負い、窓から這って入ってきた。楊は見つからないことを願い、息をひそめて様子をうかがった。
その人は袖からお香を取り出し、灯の火で燃やし、二人の下女のところに置いた。そして寝ている婦人のもとで呪文を唱えると、婦人はがばっと体を起こし、素っ裸でその人の前にひざまずいた。その人は袋から小刀を取り出し、婦人の腹から胎児をえぐり出すと、それを壺の中に入れ、袋を背負って出ていった。婦人の遺体は転がったままだった。
楊は驚き、その人のあとをつけていった。村の入り口にある旅籠に着くと、それを持ったまま大声で言った。「主人よ、早く来てくれ。われは妖賊を捕えたぞ」。近所の人がみな集まってきて、それが血まみれの胎児であることを知った。大衆は怒り、持っていた鉄の農具でこれを叩きまくった。しかし損傷を与えたようには見えなかった。糞まみれで何もできなかったのだ」。
この話は、白蓮教徒が凶悪な輩であると言いたいのだろう。しかしそれ以外にも糞濊が妖術を打ち破ったことも言いたいのだ。作者は、これは虚構ではないと強調している。古代の術士(呪術師)は人の糞尿が妖術を打破できると信じていた。この種の呪術の観念はつねに実践的だった。
(3)
人糞尿をぶっかける法術と比べると、その内服の法術が出現したのは早かったと考えられる。張華『博物誌』によると、交州地区[交趾刺史部。現在のベトナム北部]の少数民族俚子(りし)は毒矢を用いた。「弓の長さは数尺、矢の長さは一尺余り、銅を焼いて鏃(やじり)とし、その先に毒を塗る。当たった人はすなわち死ぬ」。矢が当たった者は、はじめ身体が膨張し、ついで肌の肉が腐乱し、あっという間に骨の塊になってしまう。俚子の間には厳格な規定があり、解毒の秘法が外部に漏れることはない。中原人(漢族)は毒矢が当たった場合、「婦人の月水(生理)あるいは糞汁を飲む。時に瘥(治癒)することあり」。ときにまた人は言う。家畜の中の豚や犬は毒矢で射られても毒にあたることはない。なぜなら彼らは日ごろから糞を食べているので、天然の免疫力を持っているからである。[訳注:チベットの寺院に行くと、百匹以上の犬が境内に棲んでいることがある。彼らに餌が与えられることはなく、巡礼者用のトイレの下で糞尿を食べているのを見かける。豚もそうだが、人糞は彼らにとって立派な食事なのである]
晋代の伝説によれば、糞汁を飲んだあと「時に瘥(治癒)することあり」という。すなわちこの方法の効果が実証されていない時期があったということである。ただし後代の医書では、糞汁を飲むことが矢の毒を解く普遍的な神の処方であると誇大に考えられた。
隋代の医書に言う、「毒矢には三種ある。嶺南夷俚が銅を焦がして作った鏃。嶺北のいたるところで、蛇虫毒螫[蛇や木喰い虫、刺す毒虫]の汁を管に入れ、鏃(やじり)を濡らした。この二種の毒矢によって肌は傷つき、腫物ができ、ただれた。豚、犬だけは射られても弱ったとしても生きていられるが、それも糞を食っているからだった。もし人に毒矢が当たっても、糞を食べ、あるいは糞汁を飲めば、そして傷口にそれらを塗れば、たちどころに癒えた」。
こうした内容と晋代の伝説は基本的に一致する。ただしもともと「時に瘥(治癒)することあり」といった特称判断は、「即癒(たちどころにいえる)」といった全称判断の上に置かれるが、その意味は大きく異なっていた。[ここでは論理学の話をしている。特称判断とは、主語の外延の一部に論及する判断のこと。全称判断とは、主語の外延全体に論及する判断のこと]
(4)
古代医家は糞汁、糞清を「黄竜湯」「還元水」「人中黄」と呼んだ。またいろんな製造法を考え出し、霊液を抽出した。黄竜湯は高熱や発狂、猝死(突然死)などを治すのに用いられる。巫術と親戚関係にあると考えられている。
葛洪は言う、六七日発熱がつづいてもだえ苦しみ、「狂言(たわごとを言い)見鬼(幽霊を見る)」ならば、「糞汁数合から一升を飲ませる。世の人はこれを黄竜湯と呼ぶ。年数を経たものがもっともよい」。
葛氏はこの処方に関してさらに細かく加工している。「発狂者のように、鬼神を見たかのごとく走り回り、汗をだらだら流し、まわりのことが認識できない。そんな場合、人中黄を甕の中に入れ、泥で固め、半日煅(だん 長時間焼く)して、火毒を除き、細かく砕き、新しく汲んだ水三銭(15克)とともに服用する。効かなければさらに服用する」。
またある人によれば、猝死を治すには、死者の鼻に糞汁を注ぎ込む。疔瘡で死んだ者を治すには、「大黄竜湯を一升取り、これを温める」。棍棒で死者の口を開け、それを注げば生き返る。
晋人の間では、糞汁が矢毒を解くということが広まったが、のちにすべての毒に効く良薬ということになった。たとえば蛇に噛まれたら、「人屎を厚く塗り、帛で覆えばたちまち癒える」。
蟲毒百毒を治し、「人屎七枚を焼いて灰にし、水といっしょに服用する。覆って温めて汗を流せばたちまち癒える」。
この処方をとくに提供する者は強調する。「この処方を軽んずるなかれ。神の験があるなり」。
狂犬に咬まれたときも「人屎をこれに塗る。おおいによし」。
こういった医方は、糞濊駆邪巫術が医学の領域に浸透した結果生まれたものと言えるだろう。
指摘しなければならないのは、糞汁解毒は特殊な状況下では道理がないこともない。葛洪が『肘後方』で言うように、野生の葛芋を誤食したり、毒キノコを食べて中毒になったりした場合、「糞汁を一升飲めばたちまち生き返る」。この糞汁は吐瀉薬だろう。しかしここでは巫医は何か特別なものを用意するわけではない。糞汁解毒法の呪術的性質を変えるほどのまぐれあたりの医方はないのである。[医方とは、医者と方士、あるいは医術と方術のこと]
(5)
人屎は古代には「輪回酒」「還元湯」と呼ばれ、医家はつねに中邪(鬼神にとりつかれた病)、難産、打撲鬱血、蛇・犬の咬傷など多くの疾病・怪我の治療や怪我に用いた。方士らはこれら小便を飲んで寿命をのばした。たとえば後漢の「甘始(かんし)、東郭延年(とうかくえんねん)、封君達(ほうくんたつ)の三人はみな方士だった。御婦人の術をよくし、小便を飲み、逆さになり、精気を惜しみ、大言を慎んだ。三人とも百歳以上生きた。
小便を服用することが、信じている人たちが言うようにとても優れた方法といえるのかどうか、はっきりしない。この方法の起源から考えるに、濊物駆邪法を神秘的なものと考えていたことと関係はありそうである。
葛洪は言った、猝死射を治すには、「人の小便を(猝死者の)顔に数回そそぐ。するとすぐに話し始める。これは扁鵲の法である」。また言う、腹中の胎死(胎児の死亡)を治すには、「夫の小便を一升飲む」。死んだ胎児はすぐに下る。
別の医書に言う、女性が出産後気絶したまま醒めない場合、「男子の小便を口に注ぎ、腹に一升入れたら、おおいによろしい」。専門家の研究によると、古代の術士は尿液中から「返老還童」(若返って子供のようになること)の宝丹「秋石」を精製することができた。それは即効性のある性刺激剤だった。ただし「秋石」を精製するのは容易ではなく、ほとんどの方士はそれを得ることができず、精製したものは実際普通の無機塩にすぎなかった。
もし甘始らの言う服尿法が少しでも理にかなっているなら、葛洪らが言及した上述の医方はなぜ巫術扱いされねばならなかったのだろうか。
(6)
『五十二病方』は精液を「男子悪」と称す。本書でも二度にわたって「男子悪」を傷口に塗ることによって痘痕(あばた)が残らないように予防することについて言及した。
葛洪『肘後方』に言う、人精(精液)、鷹尿白を火傷(火によるやけど)や燙傷(熱によるやけど)に塗れば、痛みを止めるだけでなく、治ったあと、傷跡もなくす。精液の神秘的な観念から後代の悪性の腫れまで、方士はつねにこれを霊異なるものととらえ、それから神丹を製造した。
李時珍『本草綱目』巻五十二は批判的に言う、「妖術家は愚人を惑わし、童女とまぐわい、女の精液(体液)を飲む。精(精液)と天癸(月経)を食べ、飲む。それを鉛汞(えんこう)と呼ぶ[鉛汞とは鉛と水銀。性命を意味する]。もって秘方となす。貪欲淫乱をほしいままにし、汚濊をおいしくいただき、天年(天が決めた寿命)に近づく。ああ、愚の骨頂である。誰が憂慮するだろうか」。
妖術家は人精(精液)を神化する。外側だけ見ると、伝統的な糞濊駆邪法術と異なっているようだが、歴史から見ると、結局もとは同じである。
古代の医家は奇妙なことを言う。「男子の陰毛によって蛇に咬まれた傷を治すことができる。口に二十本の陰毛を含み、唾液が浸透したところで飲み込む。蛇の毒が腹に入らないように気をつける」。
逆さになったり、横になって出てきたりした場合(手足が見えるとき)、治すには「夫の陰毛二十七本を焼き、大豆のような豬膏丸を呑む[豬=豚]。子供の手が丸薬を持って出てくる。すばらしい効き目である」。
(7)
厠籌(そくちゅう)、古厠木、馬桶(マートン)は駆邪治病に用いられる。これは人糞尿駆邪法術から派生した支系。厠籌とは排便したあと、残りの汚れを取るための竹木筒である。
唐人陳蔵器が『本草拾遺』で言う、難産および霍乱が引き起こすひきつけを治すには、床下で厠籌を燃やす。熱気を床席(簡易ベッド)に通すようにする。
また厠籌は「中悪鬼気」を治療する。「これはわずかなもので功が得られる」。別の医書が言うには、子供がひどく驚き、うつむいて視線を上げることができないときには、皂角(そうかく)を焼いて灰にする。児童の尿を「刮屎柴竹」(すなわち厠籌)に浸し、火で炒めて細かく砕く。そして皂角の灰と厠籌の粉末を合わせて子供の頭骨の割れ目(囟門、ひよめき)に貼り、魂を取り戻すことができる。
古厠木は使われなくなった厠所(トイレ)の中の樹木や丸太のことである。『本草綱目』巻三十七が引く陳蔵器は言う、古厠木は鬼病と外傷によく効くと。「鬼魅伝屍(肺結核)、疫病、魍魎神祟、太歳による所在地、日時、当の家をくすべて、また杖瘡をくすべる。冷たい風は入れさせない」。
馬桶(マートン)駆邪術は明清の時代に広く見られるようになった。『本草綱目』巻三十八に言う、尿桶旧板を煎じて水と飲めば、霍乱を治すことができた。尿桶旧箍(たが)を焼いて作った灰を足の掻痒や流血の傷口に塗る。これと上述の厠籌医方や古厠木医方はよく似ている。産婦馬桶をとくに汚濊として、術士は重視する。
袁枚は短文のなかで述べている。「湖広竹山県に老祖邪教があった。ただひとりが伝え、もっぱら客から物を盗っていた。その教派は二分したので、破頭老祖と呼ばれた。すなわち竹山子弟である。この法を学ぶ者はかならず雷撃に遭った。法を学ぶ者はまず老祖のまえで誓いを立てた。七世の人身と授法が無事であることに甘んじた。雷霆(激しい雷鳴)を避けるために、産婦は馬桶を七個用意せねばならなかった。除夜の日、孝麻の衣を着て、三年内に銀を運んで並べた。
叩頭を終えると、馬桶(マートン)に三度入る。それで天神に圧力をかける。袁枚は記録と誇張の間にあって、産婦が馬桶に孔を開けて雷撃を避けようとした話は信用できるだろう。
アヘン戦争が始まった1841年3月、数次にわたって白蓮教を攻めた楊芳は清朝政府によって広州へ送られ、英軍と戦うことになった。楊芳は英国戦艦が横行するのを阻止することができず、邪術で対抗するしかないと考えるようになった。ここに伝統的な「邪をもって邪を制する」法術を行うことにし、地方の保甲に[保甲制度とは10戸で甲、10甲で保を編成する制度]民間の馬桶を集めるよう命令した。それらを木の筏の上に載せ、烏涌砲台に出征した。当時の人は軽蔑をこめた詩を詠んでいる。
「楊枝無力で南風を愛す 参事官はいかに功を立てるのか 糞桶とはなんと巧妙な計略であることよ 汚れた声が粤(えつ)城中に響き渡るのだから」
南方人は巫鬼、蔚成風気(さかんになって好ましい風潮になること)を尊ぶ。詩の中の「南風」は呪術や巫のことばを指す。楊芳は貴州松桃の生まれだが、このあたりは呪術がさかんな地域だった。楊芳が生まれ育った環境と特殊な経歴を見ると、彼が近代文明に対して馬桶戦術を用いたのは偶然ではなかった。馬桶戦は楊芳個人の恥というより、このような高級将校の作る呪術の伝統と神秘的な文化の恥だった。立ち遅れた一面を見ることで、我々はさらにこうした事例から多くの啓示を得ることができるだろう。