古代中国呪術大全 宮本神酒男訳
第1章
17 汚物魔除け(下)女性の汚物と厭鎮邪術
(1)
古代中国の方士の目には、女性の体は汚物入りの袋のようなものだった。女性に関する汚物は、世間の汚物のなかでももっとも不潔で、接近してはいけないものだった。女性の経血(月経)、経衣(道教の法衣)、ズボンのマチ、肌着、便液、および女性の体本体は力を持つ辟邪の霊物(霊異のあるもの)だった。
古代民族には、月経と分娩のタブーがどこにでもあった。妊娠期間中や出産期の女性は危険人物とみなされ、他人との接触が禁じられていた。また人里離れたところに隔離されることもあった。この種のタブーは長い間各地に残っていた。秦代以前、貴族の妻は妊娠七か月で正室から側室に移された。このときから子供が誕生するまで夫は妻と会うことが許されなかった。もし禁忌にかまわず妻と会いたがっても、彼女は会おうとせず、断固として拒絶した。男が本気で斎戒をするなら、敷居をまたいで側室に入ることは半歩たりとも許されなかった。
漢代の江南人は分娩のことをもっとも忌んでいた。「吉事をおこなうとき、山林に入り、遠出して、川や沢を渡る」。通常は産婦の家に出入りすることはできない。産婦の本家はむやみに家で分娩させることはない。人里離れた空っぽの墓や道端のかやぶきの小屋で出産を待つのである。子供が生まれてひと月たったとき、彼女ははじめて家に入ることが許される。この習俗は王充が漢代の四大忌諱と呼ぶ悪習だ。近代になるとこの習俗はまったくなくなった。
漢代の法律には明確に規定されている。「生理中の者は祠に入ることが許されない」「月経、それは婦人の汚れなり」。「姅」は(生理や出産のことを言うが)ここでは経血を指している。生理中の女性は祭祀への参加が禁じられている。またこの女性と接触してはいけない。このことが神霊を侮辱し、怒らせるのではないかと人々は畏れた。漢代の法律はまた要求する。もし斎戒期間中に家の女性がたまたま生理になったり、他の汚物に触れたりしたら、即刻解斎すべきであると。つまり経血や他の汚物があるだけで、斎戒は完全な失敗とみなされるのである。分娩と月経のタブーは、女性の血の汚れの観念から発している。おなじ観念を基本として、方士(呪術師)らはこの鬼神が極端に嫌う汚物を用いて鬼神を鎮圧するのである。
(2)
古代巫医(シャーマン的な医者)は経血を「月水」「天癸」「紅鉛」と呼んできた。それを用いれば劇毒を解き、妖術を破り、外傷を治し、長生を求めることができると考えられてきた。上述のように、晋代にはすでに、月水を飲めば、交州「俚人」の毒矢の劇毒を解除することができると信じられていた[現在のベトナム、広西、広東あたりの民族を指しているのだろうと考えられている]。
また晋人によると、扶南国の巫師は刀を恐れない奇術を有している。ただしこの奇術をもってしても、月水を恐れる。月水を塗った刀に斬られたら、巫師は死んでしまう[私(宮本)自身、青海省のチベット族のハワ(巫師)やインド・スピティ地方のブチェン(ラマ・マニパ)の刀を恐れぬパフォーマンスを見たことがある]。
どこから霊感を得られるのかわからないが、古代の医家は月水を用いて、馬に関する外傷などに特殊な治療を施していた。
『医心方』巻十八に引く『葛氏方』に言う、人が馬に踏まれた傷、あるいは咬まれた傷は、「月経をその上に敷く(塗る)のが最良の処方である」。
また『医門方』の引用に言う、騎馬によってできた骨棘(こっきょく)は、「婦人の月経血を敷く(塗る)ことによって瘥(さい)となる」。[瘥とは病が癒えること]
『千金方』巻二十五「蛇毒」に言う、馬血が誤ってかさぶたに入ってしまった場合、「婦人の月水を塗れば効果がある」。
術士のなかには、経血、とくに少女の初潮の経血を合わせて作った長生不老の丹薬を喜んで用いる者がいる。月水を「紅鉛」とも呼ぶ由来はここにある。紅鉛術は完全に濊物駆邪の観念から出ているわけではないが、両者は一定の関係がある。古代の血液崇拝には、まったく異なる観念がある。つまり血液を神聖で宝とみなすか、けがれていて、邪悪なものとみなすか、極端に違うのである。大きく異なるが、同源で、本質は同じである。
紅鉛法術は神力を補充するという寓意であり、邪でもって邪を制すという意味がある。その生産は二つの観念の共同作用の結果である。
紅鉛を服用する習俗は明代がもっとも盛んだった。当時、一部の方士は皇帝に紅鉛を献上し、高位に就いた。方士は月水の中の血のかたまりをとくに重視した。彼らは「梅子(梅の実)」「紅梅」(紅色の花の咲いた梅の木)を収集し、保存する方法を参考にしていた。
明人高濂(こうれん)の『遵生八箋』巻十七に詳しく書かれているが、しばしば結びを詩で終えている。汚濊の悪癖で飾るわけではない。紅鉛邪術が猛威を振るった時代、多くの有識者はすでに相当の非難を浴びせていた。陳良謨(ちんりょうぼ)は『見聞紀訓』のなかで実例を挙げて術士の荒唐無稽ぶりを暴露している。
李時珍も指摘している。「今、方士の邪術がある。愚人を励ますようなものだが、童女の初潮の月経水を服食する。これを天紅鉛という。うまく名づけたものだ。いろいろと配合したものを『参同契』は金華と、『悟真篇』は首経と呼ぶ。愚人はこれを信じ、汚濊の滓を飲み込み、秘方とするが、しばしば丹疹が出て、おぞましいこと限りない。蕭了真の『金丹』の詩に言う、一流の通用口は淫靡で、強い陽は陰を採るもの。薬と称す天癸を口に入れたなら、取り返しがつかなくなる。ああ、愚人これを見て、ようやく悟ることになるのだろうか」。
(3)
古代の医家がもっとも常用していた女性の汚穢物は経血がしみ込んだ布巾だ。彼らはそれを「月経衣」「月衣」「月事布」などと呼ぶ。月衣を薬にするとき、血が付いているものがもっともよいとされる。それゆえこの種の療法と直接月水を使用するのとでは、ほとんど区別されない。
漢代『五十二病方』には、月衣と関連する医方が大量に記されている。たとえば女子が最初に使用した月衣を焼いて灰にする。そして沐浴し、男子の癲癇を治す。
月衣を浸した水煮肉を病人に食べさせ、スープを飲ませる。こうして男子の疝気(ヘルニア)陰腫(陰部の腫れ)を治療する。
月衣に火をつけたあと、それを器に放り込む。その煙で痔瘡をいぶす。
月衣を浸した水で火傷の患部を濡らして治療する。
処女の月衣を焼いてその灰を水とともに服用する。こうして蟲毒を治療する。このように例を挙げたらきりがない。
後代の医書は言う、(コレラを含む)ひどい胃腸疾患にかかり、医療が効かず、病人が苦しんでいるとき、「童女の月経の血のついた衣を(燃やして)粉末にして、酒といっしょに服用すれば、たちどころによくなる」。
虎に咬まれたとき、「婦人の月水で汚れた衣を燃やし、粉末にして傷に塗るとよい」。
腸チフスにかかったあと、「豌豆瘡」ができたとき、「婦人の月衣の帛(ぬのぐれ)で患部を拭うといい」。
身体に紅色の毒瘡がたくさんできたとき、「婦人の月布でこれを拭い、またその汁で子供を沐浴した」。
房事のあとしきりに隠卵の腫れが大きくなったり、卵が収縮して腹に入ったりする。「婦人の血の付いた経月布をとり、湯で洗い、その汁を服用する」。
生理期間中の房事によって男子の陽物が潰爛することがある。そういうときは処女の月衣を燃やして灰にし、麻油と混ぜて患部に塗る。
李時珍は紅鉛邪術を激しく排斥したことがある。紅鉛関連の医方を『本草綱目』に納めることはなかった。ただし上述の月事布医方に関しては逆に深く信じていたようである。一つ一つ煩瑣を厭わず、『本草綱目』に入れている。
月事布は女性の行為や感情をコントロールするために術士に用いられてきた。これは典型的な巫術である。それについては第4章で詳しく説明しよう。
(4)
月事布から想像を広げてほしい。古代の術士は褌裆(ふんどし)、汗衫(肌着)といった女性の下着を巫術の霊物とみなしていた。医家の説明によると、「褌」(こん)はとくに内褲(したばき)の類の褻衣(下着)である。彼らは女人の「褌」(こん)を裆部に用いることを強調している。知っておくべきことは、医家が女人の褌裆を薬とするとき、おもにその「穢悪」(よごれ)から取っているのである。
後漢末張仲景『傷寒論』に言う、男女とも傷寒(腸チフス)が癒えたとき、なお熱毒がある。そのときにもし同房(床をともにする)したら、病毒を相手に移してしまう。このように腸チフスから癒えたばかりのときに軽率に同房によって移す病気のことを陰陽易病(男の患者は陰易病、女患者は陽易病)と呼ぶ。
患者の身体が重く、気力に乏しいとき、あるいは「頭が重く、力が出ない。目がかすんでよく見えない」。これを治療するには「隠所の褌(こん)を燃やして灰にして、計量のさじ一杯分を水で服用する。一日三服。小便も効き、陰頭がかすかに腫れていても、たちどころに治る。男は女の褌を用い、女は男の褌を用いる」。
葛洪はこの医方をさらに明瞭に説明する。「近しい婦人の陰上の褌を裂いて取って、燃やして粉末にする。計量さじ一杯分、日に三度、小便すなわちよく効く。陰部がかすかに腫れた者、まさに癒える。童女の褌を得ることができれば、さらによい。もし女が病を得たなら、床の褌を取るといい」。
『千金方』巻十「労復」に記された「人と交わることで病がぶりかえしたとき、陰卵が腫れたり縮んだり、腹中が締め付けられるように痛んだり、通じが悪くなったりした場合の処方がある」。それは「交わった婦人の衣裳で男子を覆うことで、これですぐ治る」。この婦人の衣裳とは、女性の褌のことである。この方法は褌裆(ふんどし)の灰を飲むより簡単ではあるが、巫術的な」ものである。
その他の医書は言う、産婦が胞衣(えな)をなかなか下ろせないとき、この婦人の褌で井戸の上を覆う。あるいは着ていた衣を竈(かまど)の籠の上に置く。
褌を洗った水は月水と同様、矢毒を解く。
褌裆(ふんどし)を用いて中邪を引き起こした卒中を治すことができる。
「手足の拳が冷たく、口や鼻から出血するとき、長く尿で汚れた衣を燃やして灰にし、毎回二銭(10克)ほどの量を飲む。あるいは沸かしてそれを飲む。男は女の褌を用い、女は男の褌を用いる」。
(5)
李時珍『本草綱目』巻三十八には「汗衫」という項目があり、「卒中は性悪な鬼気(奇怪な邪気)によるもの、卒倒や逆冷(手足の冷え)、口や鼻の出血、胸・脇・腹の絞るような痛みは鬼の攻撃のようである。按摩(マッサージ)もできず、吐血し、鼻血が出る。汗と垢がしみついた衫(肌着)を燃やして灰にし、百沸湯(長く沸騰させた湯)、あるいは酒とともに二銭(10克)ほど服用する。男は女の褌を用い、女は男の褌を用いる。内衣でもいいだろう」。この種の療法はあきらかに褌裆治病から派生したものである。
『千金方』巻二十五「火瘡」はきわめて怪異なる説を唱えている。燙傷焼傷(熱湯のやけどと火のやけど)を負ったとき、すぐに「女人の精汁でこれに塗る」と、たちまちよくなる。この方法は前述の『五十二病方』に記された「男子悪」を傷口に塗る療法がもとになっているかもしれない。そこでは男子の精液を塗ったが、それが女精(女子の精汁)にかわったのである。術士がこの方法を考え出したが、実践に移したとは思えない。おおげさに言うことが主要目的であったろうから。
古代の医書にはつぎのような医方がよく書かれていた。蛇に咬まれた傷。「婦人にその傷の上に尿をさせる」。また「婦人に三度またがらせる。あるいは座らせる」。
男子の陰卵入腹[陰卵=睾丸 入腹はおなかに入ること]を治すには、「婦人の陰上の毛二七(十四)本を燃やして灰にし、井戸の華水(毎日最初に汲んだ水)といっしょに服用する」。
「陰易病の者は婦人の陰毛十四本を燃やしてこれを服用する。陽易病の者は丈夫の陰毛十四本を燃やして服用する」。[陰易病とは、健康な男子が傷寒病(腸チフス)あるいは温病(熱病)から癒えたばかりの女性と交わったためにかかる病気。陽易病はその逆]
「病気が癒えたあと交わり、卵(睾丸)が腫れる、あるいは縮み、入腹する。絞るように痛む。こういうときは婦人の陰毛を燃やし、その灰を飲む。また陰部を洗った水を飲む」。
もっとも奇異なやりかたは、牛腹で膨脹して苦しいとき、「婦人の陰毛を取って草にくるみ食べると、たちまちよくなる」。この種の法術はおなじようなものが多く、きりがない。ただすべては穢物駆邪の概念が基本にある。このなかで、婦人の陰毛で陰陽易病を治す方法と、婦人の褌裆(ふんどし)で陰陽易病を治す方法は、あきらかに同源である。
(6)
裸の女人を用いて妖邪を制圧するのも起源の古い巫術である。『国語』「鄭語」や『史記』「周本紀」の列伝にも記されている。
夏代末期のこと、王庭で二匹の神竜が交わっていた。夏人は竜の口から吐き出される涎沫(よだれ)を匣(はこ)に収めた。時は流れ、商朝から周初めの頃、誰もこの匣を開けようとしなかった。周厲王はどうしても匣の中を見たいと思い、大胆にも開けさせたところ、竜沫が四方に飛び散り、掃除しきれなかった。周厲王は宮廷の女性たちに一糸もまとわないよう命じた。取り囲んだ竜沫は大声でわめきちらした。この大声のなかで竜沫は突然巨大なトカゲに変身し、王府深くに逃げ隠れた。逃げる途中、童女の身体に触れてしまったが、彼女は夫もいないのに孕んで、妖女を産んだ。この妖女こそのちに周朝を滅ぼす一因となった褒姒(ほうじ)である。故事中の「厲王は婦人らを裸にして騒ぎ立てさせた」という場面は実際にそういう習俗があったということである。褒姒の神話は西周が滅亡したあとすぎに現れた。ここから推察するに、裸女を用いて妖邪を駆除する方法は、春秋時代の末期には出現していたようである。
裸の女人の威力を術士はひしひしと感じたろう。明清の時代になると、たくさんの人が、裸女が大砲に向かうと大砲の火が消えると信じていた。明清の頃になると、方以智はこの特異な厭勝法を、具体例を挙げて説明した。
「李霖寰(りりんかん)大司馬が播州に攻め入ったとき、楊応竜は囲いの上を逃走した。李公は大砲で攻撃し、楊は裸の女たちに大砲に向かわせた。すると突然大砲は燃えなくなった(使えなくなった)。これは厭(厭勝術)をかけられたためである。
崇禎乙亥[明崇禎乙亥は1635年]、賊軍は桐城を取り囲んだ。城の上から大砲を構えたが、賊軍も人(女性)を裸にして城に向かって立たせた。それに対し、犬の血をぶちまけ、羊の角を焼き、その煙でこれを解いた。ようやく大砲が使えるようになった。剣や鏡を鋳造し、丹薬を合成したが、裙衩(くんさ)の厭を恐れたからである」[裙衩は女性を意味する間接的表現]。
方以智は深い学識があったが、裸婦厭勝の術を信じてしまった。巫術に毒されてしまったのだろうか。
(7)
清乾隆三十九年(1774年)七月下旬、秘密宗教結社清水教(八卦教)教徒が王倫らの統率のもと、反乱を起こした。反乱軍は寿張、堂邑、臨清旧城を攻め、つづいて臨清新城を取り囲んで攻めた。城を守る清朝緑営兵に清水教徒が邪術によってまぎれこんだ。呪文を唱え、彼らは銃砲の攻撃を受けてもよけることができた。世を見聞している知識ある緑営兵頭目は、裸体女人を用い、鶏や犬の糞、犬の血などで清水教徒の妖術を破解するよう命じた。
清の官吏兪蛟(ゆこう)は『臨清寇略』に、目撃した新城の役(えき)について記している。官兵らが銃砲を放っても、城に攻め入る清水教徒を攻撃することがなかなかできないでいた。
「そこに突然ひとりの老武官が現れ、妓女を呼んで城に上げた。そして肌着を脱がせると、陰部を相手に見せた。そのとき(兵士が)大砲に火をつけると、群衆が見ている中で鉛丸が地面に落ちた。と思えば、突然跳ね上がり、人(清水教徒)のお腹に当たった。兵士や民衆の歓声が雷鳴のように轟いた。賊たちはこれでやる気が失せてしまったようだ。相手の巫術をどうすれば破れるか知っていた。老いた弱々しい妓女を裸で城にもたせかけさせ、鶏や犬の糞汁を箒でぶちまけさせた。これで砲弾は不発がなく、すべて敵に当たった。賊の頭は砕け、体は倒れ、胸に穴があき、脇は貫かれた。城の中に遺体の枕が並べられ、その数は千にも及んだ」
清朝大学士舒赫徳(じょかくとく)が乾隆帝に提出した上奏文のなかに描かれている。
「臨清城南西に二つの門があり、それぞれ関聖帝君(関羽)神像が邪術の侵入を防ぐためににらみをきかしている。そして最初から銃砲を放ち、賊は向かってくると、叶信(武将)は黒犬の血が邪を破るという俗諺を思い出し、また女人が陰人であり、これまた邪を破ると聞いていたので、女人を垜口(だこう)[城壁の凹凸の低い壁]に置いて敵方に向かせ、黒犬の血を城中にまいた」
清水教徒は銃砲の攻撃を受けない法術を有していると自認し、緑営兵もこれを信じ、畏れた。しかし緑営兵は裸の女性を用いておこなった厭鎮妖術に成功したと自認し、清水教徒も自分たちが「邪でもって邪を破る」法術に打ち破られたと信じた。この戦いの双方とも巫術を堅く信じていたのである。方以智は裸女を用いて大砲を圧伏した例を挙げている。緑営兵は裸女破解妖術を用い、大砲にあらたに霊性を与えた。二つの法術は区別すべきだが、その性質はまったく同じである。
一世紀のち、類似したドタバタ劇が再上演された。記録によると、義和団と敵対する教会組織は両方とも裸の女人の威力を信じていた。艾声(がいせい)『拳匪紀略』に言う、「昨夜(河北保定の)張登が戦いを始めたとき、教堂の屋上に七台の大砲を置き、それぞれに裸の妊婦を乗せてこれを鎮めた。拳民(義和団団員)は三人の女性をおびき出し、彼女らの腹を裂くと、血が噴き出したが、大砲にはよく火が着き、拳民数十人を爆死させた」。
義和団は「銃砲をよけることができる、火器によって体が傷つくことはない」と豪語した。またまず素食をとる決意をしたが、女人の禁忌をひどく畏れた。いったん傷を負うと、「汚物にけがされてしまった」と自嘲した。義和団と虎神営連合が西什庫(天主堂)を攻撃したとき、一か月たっても攻め落とせなかった。「たぶらかすような言葉や邪を鎮めるようなものがあまりにも多かった。楼上には陰部丸出しの女人がたくさんいた」。
この記述は義和団を敵視する人によるものなので、誇張された面もあるだろう。しかし義和団が裸の女人を忌避し、法術が破解されるのを畏れたのはそのとおりだろう。教堂のほうからしても、大砲が義和団の呪文によって使えなくなるのを畏れ、「裸の妊婦」を、大砲を鎮めるためのものとして用いたのも事実だろう。裸の女人を用いて妖邪を駆逐したのも、二千年以上にわたって流布してきた巫術の一種である。こうした神秘的な意識は浸透して人間の精神の奥深くに入り込む。清水教、義和団、その敵の人々も、歴史や文化の局限を超越することはできなかった。このような見方をすると、彼らが裸女の辟邪の威力を信じたとしてもとくに奇異ということもない。
(8)
漢代以来、巫術の領域には男女交合図像による厭鎮邪崇法があった。漢墓にはこれに類したものの出土がたくさんあった。墓中の死人のためにこの図像を刻んだり、銅と鉄で男根のようなものを作っていれたりした。淫靡な心理や放蕩の習俗があるかのようだった。これらは巫術的な鎮物だった可能性がある。この種のものを使った法術や裸女辟邪術の原理と汚物辟邪の原理は相通じるものがあった。古代の学者によれば、この種の図像はおもに蛟竜や火災を圧伏するために用いられた。実際何のために作られたかは推測の域を出ないが。以下の資料は考古学者の参考になればと考える。
清道光年間に大臣福申が編纂した『俚俗集』巻四十二「春画置墓」が引用する『韵鶴軒筆記』に言う。
『路史』に何俊が記す。我が家に漢代の画がある。絹織物でも紙(こうぞ)でもなく、車螯(しゃごう)の貝殻に描かれたものである[車螯はシャコガイ科の二枚貝]。これは蘇州姑蘇の沈辨之(しんべんし)が山東に来て画を売買して回ったものである。あちこち墓を盗掘して回ったとも聞く。それぞれの塚(つか)の下に数十石あったという。人物が描かれているが、今の春画のようなものである。男色のものもあった。その画は稚拙だった。この車螯とは蜃(はまぐり)のことである。
北斉邢子才『斉宣帝哀冊』に言う、攀蜃絡(輅)、哀泣す。王筠『昭明太子哀冊』に言う、蜃輅峨峨(俄軒)。すなわち知られている帝王の墓はみなこれを用いる。棺の四隅に(春画の貝殻を)置き、狐や兎に穴を穿たれるのを防ぐ。その画を描くのは厭勝に似ている。蛟竜の侵入を恐れるためである。春宮秘儀は最古の伝えであり、衣裳箱の中に入れておけば、虫を避けることができるという。またそれには厭勝の意味もある。
福申はさらに付け加える。「俗に火災を避けることができるという。またこの(厭勝の)意味もある」。
『韵鶴軒筆記』が引用する邢子才、王筠の二つの『哀冊』、『芸文類聚』巻十四、『梁書』巻八「昭明太子伝」(『芸文類聚』巻十六と同じ)にも見られる。ただし二つの『哀冊』中の蜃絡と『韵鶴軒筆記』の作者が言う車螯(しゃごう)とは同じではない。蜃絡、すなわち蜃車とは、霊柩を運ぶ喪車である。
『周礼』「遂師」に蜃車の名が見える。鄭玄は注に言う。「蜃車、柩路(輅)なり。柩路載柳、四輪が地に迫り行く。蜃に似ているのでその名を取った」。
蜃車と蜃蛤は関係ない。『筆記』の作者が蜃輅という言葉を挙げ、古代の帝王が葬送のとき副葬として蜃殻を入れると説明するが、これは誤りである。また副葬の蜃殻は「狐兎穿孔」を防止するためのものであり、蜃殻の春宮秘儀の画は蛟竜の侵犯を防ぐためのものである。どれも怪しい点があるのか、『筆記』にも「おそらく」「のよう」といった言葉が散見される。とはいえ『筆記』は当時春画癖虫の習俗があると述べ、福申も清人に春画避火の俗があると述べ、古代民間ではこの法術が広く使われていたと説明している。