古代中国呪術大全 宮本神酒男訳 
第1章
18 埋石鎮宅と石人魔除け 

 

(1)

 石が辟邪の霊物とみなされることから、鎮宅に巨石が用いられてきた。古い巨石崇拝とそれは関係がある。江蘇省の銅山丘湾の商代の遺跡や連雲港将軍崖古代遺跡に巨石崇拝の痕が見つかっている。丘湾遺跡の中心に四つの巨石がそびえたっていた。巨石の周囲には20の人骨、2つの人頭骨、犬の12匹の骨が埋められていた。これは巨石周辺で祭祀が行われていたことを示している。

 将軍崖遺跡の中心に三つの巨石が立っている。巨石周辺の平地の岩面上に人面、獣面、星辰などの岩画が描かれている。これらは祭祀と関係があると見られている。考古学者は『淮南子』「斉俗訓」の「殷人の礼、その社、石を用いる」という記述があることから、二つの遺跡は古代社祀遺跡と見られている。古代人は巨石の圧倒的に大きい姿におそれおののき、それが神の意思のあらわれとみた。すなわち巨石を土地神と考えたか、その他の神の霊的な化身とみなした。

 巨石崇拝の観念が発展するにしたがい、普通の石ころまで神秘的な意味が賦されるようになった。『淮南子』「覧冥訓」に「女媧、五色石を練って蒼天を補う」という神話がつづられている。そこから石が霊異なるものという観念が生まれている。特殊な石が霊異なるものとみなされるとき、人はそれによって邪悪なるものを制圧しようとする。

 「睡虎地秦簡」の『日書』「詰篇」によれば、居所の定まらない「遽鬼(きょき)」はつねに外にいて、「召人出宮」(召還されて知府に入る)と聞くと遽鬼は邪魔をしようとした。白石を投擲するとこの鬼は二度とたたろうとはしなかった。鬼の白石撃退法は晋代まで道士が活用した。[『日書』には状鬼、哀鬼、凶鬼、暴鬼、遊鬼、丘鬼、刺鬼、餓鬼、夭鬼、爰鬼、厲鬼などの鬼の名が見える] 

 『抱朴子』「登渉」に言う。山中で官吏のような人に遭遇した。ずっと人の姓名を連呼している。その声が聞こえなくなると、姿形も見えなくなった。これは鬼魅の幻影である。「白石を投擲すると、すなわちやむ」という。白石は非常事態用のものではなかった。しかし随時鬼魅を遠ざけるために、この種の石を携帯しなければならなかった。白石撃退法を知っている人は保存する準備もまたよくできるのだった。

 

(2)

 石を地面に埋める、あるいは地面に挿して妖邪を鎮めるのは、石の辟邪法の基本といえる。漢代、つねに鎮宅に用いるのは石だった。『淮南万術記』には「四隅に石を埋めれば鬼なし」の法術が記される。「蒼石四つ、桃枝七本を取り、桃の弓でこれを射る、また取り戻す。四隅に弓矢を埋める、ゆえに鬼の禍なし」。

 のちに類書がこの条を引用して証明するが、文において違いがあった。「四隅に丸石を埋め、桃の弓七本を混ぜる。すなわち鬼の禍なし、今、これだけにあらず」。あるいは「年の瀬に、家の隅に丸石を埋め、桃の弓七本を混ぜる。すなわち鬼の役なし」。バリエーションもある。「家の四隅に丸石を埋め、桃の種七つを置く。すなわち鬼の禍はなし」。

 全体的に見ると、この種の鎮宅術の基本内容には二つの項目が含まれる。まず四個の丸い青い石を用意する。そして七つの桃弓を用いて七本の桃枝から作った矢を象徴的に地から放つ。それを取り戻したあと、弓矢と青い石をいっしょに住宅の四隅に埋める。七組の弓矢と四個の青石を均等に組み合わせる。それゆえ原文は「桃弓七本を混ぜる」と述べている。すなわち桃、石とも自由に組み合わせることができるということだ。桃木はもともと辟邪霊物。桃木と青石を埋めることによって、鬼を制圧する鎮宅石の力をさらにパワーアップするのである。

 

 漢代以降、埋石鎮宅はかなり流行した。『荊楚歳時記』は言う、「十二月の終わり、鎮宅のため、家の四隅を掘り、それぞれに大石を埋める」。

北周庾信(ゆしん)の『小園賦』に「宅神を鎮めるため、石を(埋)める。山精を厭い、鏡で照らす」の一節がある。

 『医心方』巻二十六に引く『如意方』に言う、「黄石六十斤を亥子の間の地、および鶏の巣の下に置けば、六畜が栄える」。亥子の間とは西北と北の間の方角である。この種の法術は六畜繁栄を目的としていて、そのために鎮宅術を行う。後世の道士は符籙を用いて鎮宅を行うことが多いが、術士には古銭を用いて鎮宅を行う者もいた。これら種々さまざまな鎮宅術は、青石鎮宅術から派生したと考えられる。

 

(3)

唐代に始まり、その後盛んになったのが石敢當の習俗である。宋人王象之『與地碑目記』によると、宋仁宗慶歴年間、張緯は県令に任じられ、福建莆田に派遣された。県府を再建しているときに地中から石碑が出てきた。その表面に「石敢当、百鬼を鎮め、災禍を厭う。役人は福利を得て、庶民はすこやかになる。風俗は教化され、礼楽はさかんになる。唐大歴五年県令鄭押字記」と刻まれていた。この発見から、唐代にはすでに石碑に「石敢当」の文字を刻んでいたのは明らかである。

 元、明、清代、家の正門の道路側、橋梁、大道など要衝の地に石人や石碑を立て、禍邪を鎮圧するため、表面に石敢当の文字を刻んだ。なぜこの文字を入れたのだろうか。当時の学者にもさまざまな意見があった。陶宗儀らは、石敢当の名は前漢元帝のときの黄門令史遊(前48~後33)が著した『急就章』から借りてきたものだと認識している。『急就章』と『千字文』『百家姓』などの書はよく似ていて、学童を啓蒙するための識字課本である。書中に「宋延年、鄭子方、衛益寿、史歩昌」「朱交便、孔何傷、師猛虎、石敢当」などと人名に似たものが並ぶ。ここに石敢当という姓名が出てくるが、漢代以前、漢代に石姓が多く、敢当には「当たるところ無敵」という意味が含まれていた。

 石敢当のうちの石敢が五代劉知遠の部下の勇士の名とする説がある。『新五代史』「漢本記」によると、劉知遠は石敢に鉄槌を袖に隠し、唐愍帝も役人の石敬瑭を保護させた。最後に石敢は愍帝の側近と格闘して死んでしまう。のちに人々を保護するために、門前に石敢当が立てられるようになるが、これは五代の石敢を象徴している。「それは当の者(石敢その人)である。甚だしく勇あるのは石敢のみである」。

この説は五代勇士の名を出して、さも根拠があるかのように言っているが、実際は牽強付会にすぎない。唐大歴年間に石敢当が立てられているが、当時の人々は百数十年後の石敢のことを知っていただろうか。また「石敢」と「当」を結び付け、「石敢当」という三文字を無理に作っているが、こじつけにすぎない。唐代以前の多くの大書法家、たとえば皇象、鐘繇(しょうよう)、衛婦人、王羲之、索靖らはみな『急就章』を書写した。これによってこの書は大きな影響力を持つにいたったのである。

 唐代になって『急就章』はさらに広まり、著名な学者顔師古もこの書に注をつけている。この書を読んで誰が霊感を得たのかわからないが、書中の石敢当の石と鎮石の石を関連づけるようになり、輝く名称を借りて鎮邪の小石人や小石碑を呼ぶようになったのである。この巧妙に切り貼りされた名が確立されると、大衆が認識するようになり、ますます広く流布し、代々伝わって衰えることがなかった。もちに鎮邪の石を「泰山石敢当」と呼ぶようになった。五岳の泰山上の神石に由来すると強調したのである。こうして一歩ずつ鎮石は鬼魅邪崇に対する力を増強していく。

 

(4)

 後世の巫師は古い石碑に鎮邪作用があると考えた。元代の陸友は『研北雑志』巻上で言う。元の恵宗至元年間、「句容県西五里石門村に呉の太守葛府君の碑が立っていたが、田野に倒れてしまった。それから一年、ある村で疫病が発生した。巫が言うには石碑を立て直せば平安になるという。民は助言を聞き入れて共同でこれを立てた」。

 碑を立てて疫病を駆逐し、除去して碑主を崇拝することのほか、石碑自体を聖化する要因があった。

 

 古代にはほかにも石で作ったものによって水害を鎮圧する習俗があった。古代の小説の描写によると、大禹が治水事業を手掛けていたとき、荊州でつねに氾濫を起こす「海眼」という穴が発見された。「禹は石を刻み、竜の宮室を造り、穴の中に置くと、水脈をふさぐことができた」。

 また伝説によると、秦国蜀郡守李氷は石を彫って作った犀牛(サイ)で水怪を鎮圧した[犀牛は牛ではなく文字通りサイ]。

 『芸文類聚』巻九十五に引用する『蜀王本紀』は言う。「江、水害をなす。蜀守李氷は石犀を5つ作り、そのうち2つを官府に、1つを市(いち)の橋の下に、2つを水中に置き、水精を制圧した」。

 こうした伝説は直接的ではないにせよ、古代の治水工事ではつねに石で作ったものを利用して水の災害を鎮めてきたことが反映されている。そのなかでも李氷伝説は実際にあったことと近いのではないかと思われる。

 漢代にはすでに李氷を青牛の神とする伝説があった[青牛の青は黒のこと。なお青牛は板角青牛のことで、太上老君が乗っていた牛]。青牛と犀はよく似ていて、李氷が石の犀牛を用いて水怪を鎮圧したことを背景に作った話と考えられる。当時の多くの人にとって、李氷が治理水患に成功したのは、石牛鎮水法によって力を得たからである。李氷は凡人ではなく、神か巫だった。

 宋代の黄休復[北宋の画家]は言う。「(李)公は道法によって鬼神を役使し、水怪を捕獲した。これによって川の氾濫をとめることができた」と十分にこの観念を反映している。神巫と神巫が用いる手段はしばしば同一視される。これによって神話作者は李氷が変成して石犀と同類の青牛になったとみなすのである。

 

 住居を鎮め、門を守り、水怪を制圧するなど、それぞれの及ぶ範囲は小さく狭いが、一部の官吏は石で作ったものによって町を整えてきた。唐の大暦五年、田県の県令鄭某(なにがし)が立てた石敢当と、後世の人が門を鎮めるために用いた石敢当とでは、厳密に言えば異なるものだった。それというのも石敢当は「百鬼を鎮め災厄を防ぐ」だけでなく、「官員(役人)には福利を、百姓(民衆)には安寧と健康をもたらし、社会の雰囲気がよくなることを、礼楽制度が発展することを」願った。その職責は、県令の職責をまねたものだった。つまり某家、某村のために存在するのではなく、田県のために邪悪なるものを鎮める任務を持っていた。

 伝説によれば唐の憲宗元和年間、(はいちゅう)が荊州に駐在しているとき、地面を掘ると、六尺の地下から石製の模型の城市がでてきた。楼台(テラス)や詰め所など、すべてが江陵城をまねて彫られたものだった。裴宙は一般的なオモチャだと思い、籬(まがき)の近くに持って行った。

 この年、新年が明けて以来長雨が連綿とつづき、四月になっても雨がやむ気配がなかった。江陵城内は海のようだった。このとき「洛中においてもっとも道学に通じているとされる」欧献が近くの楚山に居住していた。裴宙は馬に乗って馳せて欧献に対策について聞いた。

 欧献は答えた。現在、情勢が緊迫している。ここは石材を切り出し、細かく刻んで、五銖銭の陶范を焼いて、江陵城の模型を作るのがいいだろう。模型には城壁や門楼まである。これらはすべて江陵城に似せて作られたものだ。

 鋳造後南門の外に六尺ほど掘ってそれを埋めた。すると大雨はやんだ。裴宙はこれを聞いて、掘り出した石城が、先人が水患を鎮めるために用いた鎮物であったことを理解した。

 

(5)

 古代小説には妖石を鎮めて、人を移したところ、妖怪が逃げ出し、天下は大混乱に陥ったという描写がたくさんある。この「発石走妖」(石から妖怪が逃げる)という一節は、当時、妖石を用いて鎮める巫術がさかんに行われていたことの反映である。

 

 白石に近い玉は古代において巫術のために用いられた。新石器時代の玉でできた佩物(帯飾り)、たとえば形(八角形の円柱)の玉管などは辟邪霊物として用いられた可能性がある。

 殷代卜辞中の玉や(かく)を用いて神を祭るのはその一例である[は二つの玉を合わせたもの]。

 春秋の頃、玉壁の類の宝物は河水に沈んでいると、同時に神霊に向かって誓いを立て、祈祷するのが慣例だった。

 玉はきめこまかく、やわらかく、つやがある。霊的な状態になりやすく、鬼神と接触するさいに用いられる。春秋時代の楚の人王孫圉(おうそんぎょ)は言う。

「玉は五穀を守る、なぜなら水害や旱害を防いでいるから」と。

 「火災(火の災害)を御す」ことのできる珠[珍珠、すなわち真珠]と同様、玉は国家六宝の一つである。

 戦国時代には、陽明学から珠、玉の御災能力を説明する人がいた。

「珠とは陰の陽である。ゆえに火に勝つ。玉とは陰の陰である。ゆえに水に勝つ。神のごとく化し、ゆえに天子蔵珠玉という」。

 戦国時代もっとも有名な宝玉は、和氏璧だろう。この宝石によって和氏は二度、冤罪事件が降りかかり、両足を失った。その波乱に満ちた由来は、さまざまな学者が取り上げている。

 戦国時代、和氏璧は趙国の恵文の手元にあった。秦の昭王はどうしてもそれが欲しく、十五の城と和氏璧とを交換できないものかと考えた。これが藺相如(りんしょうじょ)完璧帰趙の故事である。[時の権力者、秦の昭王が趙の恵文の持つ和氏璧を欲し、十五の城と交換しないかともちかける。恵文がどうすればいいのかと考えあぐねていると、賢人の藺相如にアドバイスを求めてはどうかという声が上がった]

 もし和氏璧がたんなる高級の鑑賞品であるなら、十五の城の価値があるとは思わないだろう。戦国時代の人がいかに玉の価値を高く評価したか、「玉は五穀を守る、なぜなら水害や旱害を防いでいるから」という考え方を知ってはじめて理解できるのである。

 

 古代の道士はまた、玉を仙薬とみなした。「金を服用する者の寿命は黄金のごとく長い、玉を服用する者は玉のごとく長い」と。道士は玉を「玄真」と呼び、「玄真を服用する者はその命に限りはない」と宣した。

 葛洪は玉の服用の仕方を紹介している。

「玉は烏米酒(黒米を原料とする米酒)や地楡酒(漢方でもあるバラ科の植物地楡の酒)に溶かしたり、葱汁によって飴にしたり、餌(餅菓子)状にして丸薬にしたり、焼いて粉にしたりして服用する。一年以上服用すれば、水に入ってもぬれず、火に入っても焼けず、切っても傷つかず、百毒に負けない」。

 葛氏はまた言う。玉を服用するのに「すでに器となっているものを用いてはいけない」。人を傷つけるのに用いるときは「まず原石の玉を得れば、用いてもいい」。于闐(うてん)すなわちホータンから産出される白玉がもっとも効力があるとされる。

 また言う、昔の神仙赤松子によれば「玄虫の血を玉の上ですりつぶした水(液体)を服用する。それゆえ煙に乗って自在に飛ぶことができる。玉の削り屑を水と混ぜてかたまりにして服用すればその人は死なない。

 玉を服用して長寿を得る方法は後世に多大な影響を与えた。李時珍『本草綱目』巻八の条には、古代の道士が玉を服用することに対しどんな見方をしていたかが詳しく書かれている。李時珍は指摘する。

「漢武帝が金茎露を取り、玉屑を服用することで長寿をまっとうしたというのは、まさにこのことである。ただ玉が生者を死なせなかったことはなく、死者を腐敗させなかっただけである」。

 李時珍は玉を服用して長寿を得るとする説は誤謬であると批判した。しかし玉を服用すれば死体が腐らないことは信じていた。玉石を神秘的とみなしたことは古代の医家に多大な影響を与えた。