古代中国呪術大全 宮本神酒男訳
第1章
19 灰土による鬼の駆除
(1)
『荘子』逸文に「桃の枝を戸に挿す。その下に灰を連ねると、童子は入るのを畏れず、鬼神はこれを畏れる」と。灰塵を用いて鬼怪を寄せ付けない起源は相当古そうである。灰土駆鬼法は単純で、砂埃で目くらまし攻撃をする方法である。
秦簡の『日書』「詰篇」には灰土関連の呪術がたくさん記されている。それは洒(しゃ)法、揚法、濆(ふん)法に分けられる。
「詰篇」に言う、誰かが一人で居室にいるとき、寒風が入ってくることがあるが、これは一種の妖孽(ようげつ)である。砂をふりまくと、寒風は自ら退散する。
部屋のなかでわけもなく傷を負うことがある。これは粲迓(さんが)の鬼の祟りである。「白茅と黄土を取り、それをまきながら部屋の周囲をまわれば、すなわちそれは去る」。
この二つはどちらも「自上而下」(上から下へ)の洒法(ふりまいて撃退する法術)である。ほかの一種は「自下而上」(下から上へ)の揚法(立ち昇らせて撃退する)である、
もし部屋が無人で「丘鬼」が陣取っているなら、荒れた丘の土をこねて土偶の人と犬を作り、塀の上にそれらを五歩間隔で置いていく。部屋のまわりをこのようにして囲んで待つ。丘鬼が出てくると、灰塵を立ち昇らせて、さらにちりとりを叩きながら、大声でわめく。こうすると鬼は二度とやってこない。
「詰篇」のなかでもっとも多く登場するのは濆法である。濆は歕、噴の借字であり、灰土を口で吹いて鬼怪を駆逐することをいう。小さな子供が死んだあと埋葬しないでおくと、裸鬼に変じ、部屋に入ってくるという。しかし灰でもって「濆」すれば、すなわち鬼は来ない。
子供が歩き始める前に死ぬと、部屋の中で「不辜鬼」となって祟るという。庚日の日の出時、門上で灰を吹き、神霊を祭り、十日後、捧げたものを回収し、白茅に包んで野外に埋めると、災厄を除くことができた。鬼はつねに幼児に変身し、「ごはんちょうだい!」と叫んだ。これは「哀乳の鬼」である。
もし部屋の外に骸骨があるなら、黄土でもってこれを「濆」し、怪しげなものは自ら滅す。ある種の虫は人によって体を切断されたあと、自らつながる。その体に灰を「濆」すれば、すなわち二度と自らつながることはない。
漢墓帛書『五十二病方』には呪詛について述べるとき、しばしば「贲」法に触れている。それは「贲」が噴気を指しているからだ。『詰篇』中の「濆」もこの「贲」もこの一種だろう。もしそうなら、灰や黄土を「濆」する駆逐法が灰土の力を利用したものである一方、呪術師が吐き出した特別な法力のある息を利用したものでもあるのだ。
鬼怪が畏れる灰土の観念からさまざまな灰土の使用法が生まれた。『日書』「詰篇」に言う、嬰児が死亡することは多いが、これは水中の精怪「亡傷」(水亡傷)が命を奪って逃げたからである。この場合まず、四面を灰で塗った堅固な灰室を作る。内側に䓛草(ふそう)を掛け、「亡傷」を捕まえる。䓛草でこれを切り殺すのである。よく煮てこれを食い、永遠に禍は除かれる。
また言う、女子が狂者になったわけでも、痴れ者になったわけでもないのに、歌いだしたり、歌曲が聞こえたりする。これは「陽鬼」が附体したせいである。北を向いて成長するある種の植物の花弁十四枚をよく焼いて灰を作る。この灰をご飯に混ぜて食べさせると、陽鬼は去っていく。「詰篇」の記述によると、秦国巫師は、灰土を使った呪術を採用している。しかしこれら灰土を内服する治療は注意をしたほうがいい。
馬王堆から出土した『雑療方』は言及する。井戸の上に五尺(1m半)平方の範囲の泥を塗る。たちの悪い犬の糞尿を避けるためである。戸(玄関)の上に五尺平方の土を塗る。これによって夫婦不仲を改善する。家の正門の左右に五尺平方の泥を塗る。これで貴人に好かれるようになる。床の下に七尺平方の泥を塗る。これで悪夢が除かれる。戸に五尺平方の泥を塗る。これで嫁姑のいさかいを収めることができる。閈(街中の大門)に五尺平方の泥を塗る。子供がよく泣くのを治す。こうした泥塗り法は、古代の呪術や医術に大きな影響を与えてきた。
(3)かまど神
古代の巫医は黄土、とくに竈(かまど)の中の黄土、井戸の底の黄土、春牛の土が多くの疾病を治すことができると信じていた。この類の医術が灰土によって鬼を駆逐するといった伝統を継承してきた。それらは古代の竈井(かまどと井戸)崇拝や春牛崇拝と密接な関係があった。
竈神崇拝の起源は相当古い。春秋時代後期にはすでに流行していて、「与其媚于奥、寧媚于竈」(奥の偉い神のご機嫌をとるより、身近なかまどの神のご機嫌をとれ)ということわざが生まれたほどである。
戦国時代には、かまど神は「五祀」の一つに列せられていた。戦国時代以降、人格化が進み、炎帝だとか、黄帝だ、祝融だ、と言う人が現れた。
民間ではかまど神はたくさんの名前で呼ばれた。「髻」(もとどり)もその一つある。それは「赤い衣を着て、美女のごときさま」と言われた[かまどが、髻を持つ女神のように見えた]。
ある人は(かまど神の)「名は禅、字(あざな)は子郭、黄色い衣を着る」と表した。[禅は蝉(せみ)の通仮字。黄色いセミのように見えた。神を虫で表すのははばかられたのだろう]
また「姓は蘇、名は吉利」とも言われた」。[『史記』や『三国志』では宋無忌と呼ばれている。蘇吉利は『荊楚歳時記』中の名。女神ではなく、竈王、すなわちかまどの王]
唐代以前、かまどを祀る期日は固定されていなかった。『礼記』「月令」は毎年夏の四、五、六月にかまどを祭ると規定している。『荊楚歳時記』に言う、梁人は臘月八日を祀竈(かまどを祀る)日とすると。唐代以降は臘月二十三あるいは二十四日を祀竈節に固定した。
かまどの中に神霊が存在するとしても、かまどの中の土や関連した灰土が通常の土とは異なることになるのだろうか。古代の医家はかまどの中の土を「伏竜肝」とみなした。梁人陶弘景の解釈によれば、「この竈(かまど)の釜月(釜臍)の下の黄土が伏竜肝である[釜月、あるいは釜臍は、鍋底灰とも呼ばれる]。かまどに神があり、ゆえに伏竜肝と号す。その名を隠すためである」。
孫思邈(そんしばく)は言う、「鬼魘不語」(きえんふご)[夢中で叫ぶこと、金縛りに遭うことなどを鬼魘と呼ぶ。そのために話せなくなる]を治すために、伏竜肝を粉末にして、吹きかけて病人の鼻の中に入れる。
中邪[神がかりになったり、あらぬことを口走ったりする状態]や蠱毒を治すために「冷水といっしょに鶏卵の大きさの伏竜肝を服用し、かならず吐く。
狂癲謬乱(きょうてんびゅうらん)を治すために、毎日三度、「水といっしょに方寸匕(薬さじ)の伏竜肝を服用する」。たちまち治る。
その他の医書には「竈突(かまどの煙管)の弾丸のごとき煤を取り、水に溶いて飲む。三、四回服用する」ことで、猝死(突然死)を治す医方が述べられている。[突然死を治すというのは奇妙な言い方だが、脳卒中などで意識不明になった患者を治療するという意味だろう。実際私(訳者)はナシ族の村に滞在中、脳卒中で倒れた49歳の男性をトンバ(祭司)が儀礼によって治療するのを目撃したことがある]
夢魘(むえん)、瘋癲(ふうてん)、猝死(そつし)などの症状の多くが鬼魅に祟られた結果とみなされている。かまどの土を用いてこれらの疾病を治療するというのは、かまどの土で鬼怪を駆除するということである。
かまどの土灰は難産の治療にも用いられる。「竈屋(厨房のこと)の煤を取って一両(50グラム)ほど酒で煮る。その汁を服用する」。それによって逆子を治すことができるが、胎児は出てこない。「竈突(煙管)の煤を三つまみほど取り、水と若干の酒とともにこれを服用する」。腹中の子の死を治すことができるが、胞衣は出てこない。一部の医書が言うには、かまどの黄土を取り出し、産婦のへその中に押し当てると、胞衣が出てくるという。
かまどの黄土は虎や狼に咬まれた傷や子供の夜泣きを治すのに用いられるという。また男子の陰嚢が腫れたときに塗布して治療する。「かまどの黄土を酒に入れて混ぜ、(陰嚢に)塗れば効果あって治る」。
こういった奇怪な治療法は呪術とみなすことができる。一部の医書が言うように、「かまどの黄土を取り、にかわの汁と混ぜ、屋上に五日間置く。心を寄せる人の衣にこれを塗ると、相思相愛になる」。これも巫術的な性質を持っているのはあきらかである。
(4)
古代において、井戸は神聖さにおいてかまどに劣らない。「井社を跨がず」(井戸や祭祀をおこなう場所を跨いではいけない)は儒者によって訓として奉られた。民間には「千里不唾井」(千里離れていたとしても、唾を吐いてはいけない)ということわざもあった。井戸は聖地の侮辱を許さない。汚濁は許されない。井戸の底の泥土は自然と霊物となる。
『淮南万畢術』に言う。「東に行く馬の馬蹄についた土は病人を回復させない」。注に言う。「東に行く白馬の馬蹄の土を取って、三家の井戸のなかの泥と土をこれと混ぜ、横になっている人のへそのうえに置く。すると起き上がることができない」。これはつまり、馬蹄についた土と井戸の底の土を混ぜ合わせると、他人をコントロールできるということである。
医家によると、井戸の底の泥土の効用は、かまどの灰土と似たところがある。井戸底の泥土によって、突然死を「治す」ことができる。もしある人が眠ったまま醒めないときも、「火で照らしてはいけない。その踵(かかと)や足親指の爪を齧り、顔にたくさん唾(つば)をかける。井戸底の泥を目に塗る。人に頭を垂れたまま井戸に入って姓名を呼んでもらう。そうすればすぐに目覚める。
また難産を治すことができる。井戸底の黄土を鶏卵の大きさほど取って、井華水と混ぜ、これを服用する。(胞衣は)すぐ出てくる。
井戸の黄土を取り、梧桐(アオギリ)の種の大きさに丸め、呑むと、(胞衣は)すぐに出てくる。赤子が出てこない場合も「治す」ことができる。
頭風熱痛、小児熱癤(せつ)、蜈蚣螫人なども治すことができる。[頭風熱痛は頭痛と高熱を伴うひどい風邪。小児熱癤は、せつ(ファランクル)と呼ばれる病気で、毛嚢(もうのう)の感染症。私(訳者)はこれをネパール・ヒマラヤ山中の村でよく見かけた。蜈蚣螫人はムカデに咬まれること]
秦代から前漢時代にかけて、季冬の月(十二月)、「土牛を出して寒気を送る」習俗があった。後漢の時代、臘月の「土牛を立てて……大寒を送る」儀礼がおこなわれ、同時に、立春日に土牛と土人が塑(つく)られ、耕作を奨励する儀式が挙行された。
「立春の日、夜漏(ろう)の五刻、京師の百官はみな青衣を着た。郡、国、県、道の官下から斗食、令史まで、みな青い頭巾を被った。青幡を立て、門の外に土牛、耕人を置いた。兆民(天子の民)であることを示し、立夏に至った」
[立春と春節は同じではない。春節は旧暦の一月一日。立春は太陽暦の2月3日か4日]
このあと春耕開始を象徴する立春牛儀式をおこなった。春牛と耕作は収穫祈願に欠かせないものであり、春牛の土は一種の縁起物となった。
宋代、「立春の五日前、都では、大門の外の東に作った土牛、耕夫、犂を置いた」。立春の日の夜明け、役人がまず壇上で農神を祭った。各自が彩杖を持ち、春牛を三度打った。これは耕作の奨励を表した。役人が春牛を打ち終えるのを待っていた民衆は、押し寄せて、春牛の土を少しでも得ようと争奪戦になった。殴り合いが発生し、けが人が多数出るあるさまだった。当時の人は「牛肉(春牛土のこと)を得た者の家の蚕のできはよく、病気も癒えた」と認識していた。春牛の角についた土を戸の上に置くと、田(農作物)のできがよかったという。
(5)
唐代医士陳蔵器の『本草拾遺』には大量に灰土治病の医方が収録されている。名目は雑多で内容は怪異だが、呪術的灰土医方の集大成といえるだろう。陳は以下のように灰土の名目を列挙している。
<甘土>
陳氏は言う、「甘土は安西および東京(洛陽)竜門から出る[安西は安西都護府のこと。現在の甘粛省酒泉市]。「熱湯に入れてよく混ぜ、服用する」。「草薬や諸菌毒」を解毒することができる。
<黄土>
「土気[泥土の中の上昇する気体]に長く触れると、顔が黄色くなる。土を掘って地脈を犯すと、人は上気し[呼吸が速くなる症状]、全身に浮腫が出る。土を掘って神を殺すと、人は腫毒を生み出す」。
この一節は、黄土には霊性があり、冒涜することはできないと強調する。ゆえに黄土は病を治す力があるとする。たとえば「下痢をして、熱いものと冷たいものが混じり、赤と白の斑になるとき、腹の中は熱い毒のため絞るような痛みが走り、下血する。乾いた土を取り、水に入れてそれを三五十五回沸騰させ、絞った滓を一、二升、服用する。また諸薬毒、中肉毒、合口椒毒、野菌毒を解毒する」。
呪術の側から見ると、これらの方法は充分に徹底されているとは言い難い。一部の医士から見ると、黄土には疫病も対応する不思議な力があるという。
たとえば『医心方』巻十四が引用する「霊奇方」が言うには、正月一日寅時に「黄土を門扉に、二寸四方ほど塗る」。これで疫病を避けることができる。
<東壁土>
陽に向かって長らく干すことによって、下痢や霍乱(激しい胃腸疾患、コレラ)、煩悶を止めることができる。
<天子藉田(せきでん)三推犁に着いた土>
古代の天子は毎年春に百官を率いて自ら耕す「藉田」(公田)儀式を挙行した。親耕(自ら耕す)といっても、それは象徴的なものであり、天子はただ耒耜(るいし)と呼ばれる(鋤や鍬など)農具を持って形式的に三推(耕しながら三往復すること)するだけでよかった。天子は竜種だったので、それらしくふるまえばよく、自ら掘った泥土は医家に渡され、宝物となった。
陳蔵器が言うには、この土を水とともに服用すれば、動悸、精神錯乱を治すことができる。また安神(精神の安定)、定魄(心の落ち着き、神智の回復)、強志(意志を強く持った状態)を得ることができる。
土によって役人になることを恐れなくなり、高官に会うことができるようになり、よい結婚もできて、市での売買もうまくいくようになる。
陳氏はまた言う。王者は封禅大礼を挙行するとき、五色土を用いるが、治病効果はわずかの差しかない。これと関連するものとして、社稷壇の土があるが、これは百官を保護するだけの力を持っている。「牧宰(州長官)は勢力を広げるとき、自ら門に(社稷の土を)塗り、盗賊に侵入させない」。[封禅の封は祭天、禅は祭地を意味する。太平隆盛のとき、あるいは瑞祥が見られたとき、古代帝王は、天地祭祀の典礼を開いた。泰山で挙行することが多かった]
<道中熱土>
夏に熱射病になって倒れた者があると、病人のみぞおちにこの「道の真ん中の熱い土」を積み上げる。だんだんと土が冷却したあと、土を払い落し、また積み上げる。病人は気息が通じ、死んでいたとしても蘇る。
<車輦(しゃれん)土>
これは車輪上に附着した塵土を指す。病人の「悪瘡(できもの)から黄色い汁が出るとき、塩車(塩を運ぶ車)の側面の脂角上の土を(悪瘡に)塗る。そうするとすぐに癒える」。
<市門土>
市場の門の柵付近の塵土のこと。女性がお産のとき、この土を持ち、酒といっしょに服用すると、難産の心配はない。
<戸限下土>
門檻の下の塵土のこと。女性がお産のあと腹痛を覚えたとき、熱い酒といっしょにこの土を服用する。産婦が吹乳(乳腺炎)になったとき、戸限下土と雄雀の糞を混ぜ合わせ、暖酒とともに計量さじ一杯ほど服用する。
<靴底下土>
住まいを換えて、「水」や「土」に適応しないとき、靴底から泥をえぐって取り出し、水といっしょに服用する。すると平静を回復する。
<柱下土>
「ひどい腹痛に襲われたとき、柱下土を方寸匕(計量さじ一杯)、水といっしょに服用する」。孫思邈『千金方』に言う、これで胞衣が降りてこないのを治すことができると。
<床脚下土>
狂犬に咬まれたとき、この寝台の下の土と水を(咬まれた傷に)塗る。そしてお灸を七壮据える。一灼を一壮とする。すなわち七壮はお灸七度ということ。これで完全に治る。
<塚上土>
主に疫病、流行伝染病を治療する。毎年五月一日、墳墓の上の土、あるいはレンガ、石を瓦器に入れる。そして門の外の階段の下に埋める。家族全員が時気病(季節ごとの病気)を患うことがない。
<桑根下土>
悪い風気、悪い水気にあたったため、筋肉が腫れたとき、(桑根下の土を)水と混ぜて塗る。お灸を二三十回据えて熱気を体内に入れる。するとたちまち平静になる。
<胡燕巣土>
湿疹悪瘡(できもの)が全身を覆ったとき、ツバメの巣の土と水を塗ると、二三日のうちに完全に癒える。陳蔵器自身がこの説の情報源である。
陶弘景『名医別録』に言う。燕巣土と燕屎煮湯を用いて子供を沐浴し、驚邪を除去する。陳氏はまた言う。百舌鳥(もず)の巣の土を「蚯蚓(ミミズ)や諸悪虫が咬んでできたできもの」に塗って治すことができる。
<蜣螂転丸(フンコロガシ)>
「この蜣螂(クソムシ)は丸いもの(糞)を押す。土の中に隠れ、地を掘ってこれを得る。人がこねて作ったかのように丸く、満ち足りたかのようである」「絞り汁を濾過したものを服用する。傷寒、時気、黄疸、煩熱、霍乱、吐瀉を治療するのに用いられる」
ほかにも項癭を治すことができる。すべての瘘瘡にこれを塗る、これらの方法と濊物駆邪術とは共通するものがある。
<鼠壌土>
これはネズミが咬んで砕いた細土である。これを取ったあと、日干しにし、熱で蒸して、袋の中に入れ、「中風による体の麻痺から冷痺骨節疼、手足痙攣、神経痛、半身不随壊死」などを熨療法で治す[熨療法とは熨燙のことで、熱した薬材を入れた袋を患部にあてがう療法]。この方法は起源をさかのぼるとかなり古く、前漢の『五十二病方』にはすでに「鼠壌」が漆鬼を脅かした方法として記されている。
<屋内堧(らん)下虫塵土>
堧(らん)は川辺や壁の隅などの湿った場所を指す。この種の土が悪瘡(できもの)を治す。ほかにも蟻の巣の上の土は「蟻垤(てつ)土」と呼ばれた。この土を狐尿瘡に塗って治した。また難産を治した。
「腹の中の死胎や胞衣が下りてこないとき、この土を三升ほど炒り、袋に入れ、心臓の下に置くと、自ら出てくる」。
蚯蚓(ミミズ)が引き出された泥土は痢疾に効く。
<豬槽上垢土>(ブタ小屋の桶の上の汚れた土)
主に難産を治療する。この土を一合取り、面(小麦粉)半升、烏豆二十個と混ぜ、煮汁を服用する。
<寡婦床頭塵土>(未亡人の寝床の傍らの土)
外耳炎には、この土を油といっしょに塗る。寡婦(未亡人)と外耳炎の間に関係があるとするのは突拍子がなく、稀少な考え方だ。
陳蔵器は、「弾丸土」が難産を治すとも述べている。瓷瓯(しおう 磁器の酒器)の中の白灰が腫れを抑えるという奇異な療法である。その他の医家も陳氏が記す基本的な情報を補充している。李時珍の『本草綱目』巻七「土部」は、陳氏の医方の拡充版である。
これらの医方は薬典にも記載されているが、すでに存在している基礎的なものと比較し、つけ足したり、連想したり、巫術的なものであったり、灰土で鬼を駆逐する巫術の変種である。医方の創造者の本意を歪曲したものではない。