古代中国呪術大全 宮本神酒男訳  
第1章
20 新布、朱糸、五彩糸の呪術的用途 

(1)

 新しい布が呪術の霊物、すなわち霊妙なものになっていく過程は、白茅が神異なるものになっていく過程とよく似ている。織りたての麻布は比較的清浄で、祭祀、葬送儀礼の際の神霊と関係のある活動に用いられた。また織りたての布はつねに神の発生と関係があり、祭祀者はそれが神性を帯びることで邪悪なるものを取り除く効能を身につけていくことを認識する。のちにすべての新しい布が神事に関連するわけではないが、それは邪悪を避ける霊物とみなされるようになった。

 

周代の比較的規模の大きい祭礼では、供え物が置かれた机の上に三尺(90センチ)ほどの新しい布がかけられた。これは当時道布と呼ばれた。周代の祭祀の慣例から考えるに、祭祖のとき、同姓族の祖先の代表を探す必要があり、直接供え物を捧げてもてなさなければならなかった。

かつては箸を使って食べる習慣がなく、祖先に扮した人は手を使って食べなければならなかった。油まみれの手で食べる「神」は手拭いでいちいちこすらねばならなかった。「道布」は「神巾」となったのである。神をただ喜ばすために、清潔な新しい布が求められ、神巾が作られた。

 

(2)

 周代の葬礼のなかで使用する麻布は斬衰、斉衰、大功、小功、緦麻(しま)などの等級に分けられた。そのなかの大功、あるいは功布は七升から九升の麻糸(八十縷で一升)で織ったものだ。『周礼』中の道布はその質から功布に属すると言われる。功布が巫術的に用いられていたのは、当時の葬礼の表現から明らかである[功布は竿の先に白い布をつけた旗のようなものと考えればわかりやすい]。

 『儀礼』「既夕」によれば、納棺したあと霊柩(ひつぎ)を半ば埋めた状態で一定時間置く。殯(ひん)の時期が終わると商礼(商代の礼儀)を熟知する「商祝」が「啓殯」儀式を掌る。商祝は手に功布を持ち、霊柩(ひつぎ)の前にやってきて、大きな声で呼ぶ。

「イー()、イー、イー、チー(啓)、チー、チー」

 そうして功布を用いて霊柩(ひつぎ)上の塵土を払う。「三声三啓」は死者を覚醒させ、通知する役目を持つ。功布を用いるのは、神霊を迎え、邪悪な気を祓うという意味合いが含まれる。正式に出棺するとき、商祝は手に功布を持って、霊車の前で行進の指揮を執る。もし道に高低があれば、布を左右、上下に動かして知らせ、後ろで霊車を牽く人は前方の地形を理解する。

このように、功布は高官の葬礼で茅旌(ぼうせい 旗)として使われる。すでに述べたように、旗はシグナルを送る道具であるだけでなく、辟邪し、露払いする巫術的な役割を持つ。すなわち商祝が手に持つ功布は、霊車を引導する旗であると同時に、邪悪なものを排除する、整然と進む葬送隊の巫術的な武器となっている。

 

 漢の時代、新しく織った布帛によって辟邪を行う呪法は民間に広く行きわたっていた。彼らはつねに新しい布切れを襟に縫い付けたり、門上に掛けたりした。これによって疫病や武器による傷害が避けられると考えていた。

 『淮南子』「説林訓」に言う、「曹氏の布切れ、を貴いとする」。

 高誘は注に書く。「楚人布を曹と名づける。今、俗世界で、布を織り、(机の)傍らにそれを掛ける。これが曹布と呼ばれる。さまざまなを焼いて塗り込むと、癒える。ゆえには貴いとする」。高誘は明確当時の人がなぜ新布を掛けるのか説明していない。ただしその他の記述から曹布を治療に用いていることがわかる。曹布を身につけるのは一種の辟邪法術なのである。桃符や桃橛のように、辟邪したり、薬として使われたりして、曹布に虫の灰を塗って瘡蓋を治療する方法も、曹布辟邪法から派生したのである。

新布を掛ける巫術性に対し説明するのが、後漢の学者応劭である。応劭によれば、漢代の人は「あらたに取った切れた織物を戸に掛ける」。この五色の絹の布で癘鬼(らいき)や五兵を駆逐する。応氏はまた言う、疫病が流行しているとき、人はしばしば新しく織った絹の最後の一切れを用いて災禍を駆除する。「今、家人は新しい縑(かとり)を織っている。皆それを取ったあと、嫌(縑)絹二寸ほど戸の上に掛ける。霊験あらたかなり」。

 

 漢代の学者は非信仰の角度からこの巫術現象の解釈を試みている。絹織物を織ったあと、衣服上にその一部を縫い込み、紡織(糸を紡ぎ、機を織る)の作業が完成したことを表示する。応劭が指摘するように、新帛(新しい絹織物)には辟邪の意味があり、同時に「織ったあと二、三寸の帛(絹織物)を切り、衣の襟に縫い付ける。これで諸姑(父の姉妹たち)に紡績が完了したことを告げたことになる」。

応劭の説には矛盾がある。応氏自身によると、後者は服虔(後漢の学者)から出た説である。本人は服虔の説に賛同しているように見える。実際、服虔説は信じるに足りない。女たちは姑らに向かって、織物が完了したことを告げたり、実証したりする必要があるだろうか。新帛を縫い込むといった稚拙なことをする必要はないだろう。彼女が話すことができないとか、「諸姑」が年を取り過ぎて歩けないのでない限り、新帛に何らかの効果を求めても意味がないだろう。

 

(3)

 上述のように道布、功布、曹布、縑布(かとり)などは、どれも染色していない生(き)の布帛である。それらを用いて神と接し邪を駆逐するのは、新布駆邪法術の原始的な方式である。これを一歩進めて変化し発展したのが、染色した朱糸、五彩絹、五彩糸などを用いて邪祟を辟除する法術である。

 応劭[後漢の学者]は新帛辟邪法術の推移について語るとき、「時間がたつにしたがい、(素朴な糸の帛は)色とりどり(の帛)に変わりやすい」と述べている。

 五彩辟兵術は(新帛辟邪法術から)転化したようである。事実はそう簡単ではないだろうが。新白辟邪法術が流行した頃、朱糸、朱縄を用いて悪神、悪気を制御する法術もまた盛んだった。論理的に物事を考えるなら、素帛(白帛)駆邪と五彩駆邪の法術の間には、いわゆる「承前啓後」(前人の事業を継承するので、後人が道を切り開きやすいこと)の法則があるといえるだろう。

 朱糸駆邪術は中国の伝統的な法術である。鬼が赤色および赤い縄を畏れると一般的に認められている。これは古代中国の民衆の感覚である。またこの信仰風習は仏教起源ともいう。しかしどちらも史実とは符合しない。

春秋時代、晋国大臣荀偃(じゅんえん)は朱糸で結んだ双玉を捧げて、河神に対し祈った。春秋の人々は朱糸に神秘的な意味を持たせていたのである。

 『春秋』「荘公三十五年」には、この年六月に日食が発生したと記載されている。魯国の君主と臣下は社壇の上で太陽を救うため、太鼓を叩き、犠牲を捧げた。

 『公羊伝』には別の太陽を救う方法が記載されている。すなわち朱糸によって社神位牌をひとまとめにして縛り上げる。後漢の何休はこの意味をつぎのように解釈している。

「あるいは言う、これを威嚇すると責めたてるのは同じ意味であると。社とは、土地の主である。月とは、土地の精であり、天にぶら下がって太陽を犯す。ゆえに太鼓を打ち鳴らしてこれ(社)を攻める。その本体を威嚇するのである。朱糸で社壇を囲い、陽が陰を抑えるのを助ける」

 赤は陽に属する。赤い糸で陰気の社主をくるんでいき、陽気が陰気を撃退するのを助ける。そして陰物に取り囲まれた太陽を救出する。『公羊伝』の最後は前漢の初年度で、そのときにはこの書が成立している。これはすなわち朱糸駆邪法術は漢代はじめにはあったということである。これでは仏教と関係がある習俗とは言えないだろう。

 

 後漢時代、毎年五月五日になると、「彩色模様の赤い帯を門に飾り、悪気を止めた」。『続漢書』「礼儀志」は解説する。「仲夏(農暦五月)、万物は盛んに茂り、夏至になると陰気の兆しが見え始め、ものが繁茂しないことを恐れるようになる」。

このように陽気を代表する赤い帯で陰気を制御しなければならない。そのときからたまたま赤い帯を飾る時期が五月五日に固定されるまで、長い年月が流れている。後漢の時代の赤い帯を飾る習俗は突然現れたわけではなく、前漢、あるいはさらに古く、秦代以前に起源を遡ることができるかもしれない。

 

(4)

 朱糸駆邪術は古い小説にも登場する。既述の『録異伝』に秦文公伐樹の故事が収録されているが、そのなかで朱糸に言及している。いま、もう一度この故事について考えよう。原文はつぎのようになっている。

秦文公のとき、雍南山[の怒特祠廟]に大きな梓の樹が生えていた。文公が[兵士を派遣して]これを伐らせると、そのたびに大風雨が起こり、傷口(切断面)もすぐに癒えるのだった。ときにひとりの病人[けがをした兵士]がいた。

彼が夜、山中に入ると[樹の根元に倒れ込むと]、鬼と樹神が語っているのが聞こえた。「秦国が髪を振り乱した兵士たちを送ってきたらどうする。樹の幹に赤い糸をぐるぐる巻かれて伐られたらどうする。巻かれることはないと思っているのか」

 樹神は何も言えなかった。

 翌日、病人の話を聞いて文公はそのことばどおりに樹を伐った。すると中から青牛が出てきて、走って豊水に飛び込んだ。

 伐ってもまた生えてくる神樹も朱糸を飾られると、抵抗力を失ってしまった。朱糸の威力をまざまざと思い知らされることになったのだ。鬼が朱糸について話すのを聞いたが、そのことを話さなかった。こういった描写はまさに現実生活における朱糸駆邪術のありかたを示している。

 

 朱糸辟邪の法術はかなり長い間伝わってきた。これを簡単に行うこともできた。清代の石成金は『幸運宝典』(原書は『伝家宝』で、現代の選集)に言う。

「家に目の病気の患者がいた。厨房のかまどの上の箸置きに赤い糸がくくられていたので、病気が伝染することはなかった」。

 この秘術の遠祖はまちがいなく先秦(秦代以前)、秦、漢代の朱糸縈社(しゅしえいしゃ)法術[赤い糸で社壇を囲うこと]である。

 

 朱糸駆邪法術の影響を受けて、後世の巫師はいつも赤い布を辟邪霊物(魔除け)とした。一定の時間、方位に赤い布切れをつるすのは、現代にいたるまで民間の術士の魔除け法として残っている。明代の一部の少数民族には、男の子であろうと女の子であろうと、子供が生まれれば門の上に赤い切れと腰刀を掛ける習俗があった。この赤い布切れは、外の人に子宝を授かったことを知らせると同時に、駆邪辟災(邪悪を駆逐し、災いを避ける)の意味があった。

 

 巫術観念の発展にしたがって、とくに五行学が隆盛をきわめたあと、単独で赤い色を使用しても施術者の心理を満足させることはできなかった。朱糸と比べてもっと複雑な威力ある辟邪霊物(魔除け)が必要だった。ここに朱糸駆邪法の基礎の上に五彩の絹織物、五彩糸を用いた駆邪法術が生まれたのである。

 霊物としての性質を持った五彩の絹織物、五彩の糸が朱糸のバリエーションとされるのは、基本的につぎのような理由がある。

 まず、五月五日、「朱索(赤い帯)に五彩印を押して、門の飾りにする」。そして五月五日に「五彩の絹を集めて辟兵(武器の災いを防ぐ)とする」。これらは漢代の風俗である。巫術の儀法(礼儀法度)の簡単なものが複雑なものになるという一般的な法則により、前者が変化して後者になったことはあきらかである。具体的に言えば、五彩の絹織物を使用するとは、実際朱索(赤い帯)と五彩印を一つに合わせた結果である。

つぎに、応劭は『風俗通義』で指摘する。「五月五日に五彩糸を腕につるす。それを長命縷(ろう)、一名続命縷、一名辟兵布、一名五色縷、一名朱索(赤い切れ)という」。

「朱索という呼称には味わいがある。五彩糸は青、黄、赤、白、黒の五色の糸のことだが、なぜ朱索(赤い切れ)と呼ぶのだろうか」。

 あきらかなのは、五彩糸は朱糸の変化形、あるいは代替ということだ。その効用は朱糸と同じということである。人は朱糸という古い名称で五彩糸を呼ぶ。後世の人が紙で作った春聯を桃符と呼ぶのと同じ。両者の間に深淵なる関係があるのだ。

 

(5)

 漢代の人が用いた五彩絹布にはつねに鬼神の名称が題目としてついていた。『太平御覧』巻二十三に引用する『風俗通義』に言う。「夏至に五彩辟兵(の絹の飾り)を着ける。題は遊光(あるいは)知られているように厲鬼である。これで温病(うんびょう)にかかることはない。五彩とは五兵を避けるということである」。

 「題は……厲鬼である」は、五彩繒(きぬ)の上に遊光、あるいは世の人が知る別の厲鬼の名を書くという意味である。

 また応劭によると、後漢順帝永建年間に洛陽一帯で疫病が大流行した。民間では大騒ぎのなかで疫鬼の名が「野重遊光」と伝えられた。だれも実際にこの疫鬼を見たことがなかったので、流言飛語が飛び交ったが、信じないわけにはいかなかった。

「その後何年にもわたって疫病は消えなかった。人は恐れ、憂いはなくならず、題を増して禍から脱することを願った」。この「題を増す」とは、「遊光」の二字に「野重」の二字を足すことによって鬼名が完成したことを指す。

 

 応劭は「五月五日に五色絹布を集め、兵を避ける」に関する問題点について教えるよう当時の大学者服虔に乞うた。服虔は巧妙な答えを示した。彼は言う。赤、青、白、黒は四方を象徴する。黄色は中央を代表する。この雑多な色の絹布を「襞にして」(折りたたんで)四角い形にし、胸の前に縫って綴じる。「これによって女性の養蚕の功を示す」。

 当時の農民が用いた麦わらを織って作った簾(すだれ)を門に掛けるのも、同様に「これによって農民の功を示した」のである。

 のちにこの伝説は誤って伝わり、折りたたむという意味の「襞」が辟兵の「辟」と誤解された。五色絹布辟兵のことと考えられたのである。服虔は五色絹布を着けることによって武器による傷害を避けられるとは考えなかった。ただその理性的なふるまいには敬服した。彼はことばが伝播するなかで間違いが出てくることを認識していた。しかし道布、曹布から朱糸、そして五色絹布へと変化していったことに関して詳細に考えたようには見えず、結論は不正確だった。

 

 応劭が書き記したものを分析すると、漢代の五色絹布と五色糸の使用法と効能には区別があった。胸の前の襟に綴じ込んだ五色絹布は、おもに武器の傷害を免れるためのものだった。「五彩とは、五兵(兵器)を避けるということである」との意味だった。五色糸を腕にかければ、延年益寿、長命無災、辟兵がもたらされる。ゆえに五彩糸は「長命縷」「続命縷」と呼ばれる。

 

 後世の道士は五色絹布辟兵術を継承し、発展させた。葛洪『抱朴子』「登渉」に言う。

「名山に入り、甲子の日を開除日[開始あるいは結束の吉日]とし、[神霊と通じるために]五色絹布各5寸を大石に掛けると、必ず求めるものが得られる」。

 「開除日」とは、古代の「建除」信仰(原著は迷信と呼んでいる)の専門の述語である。子(ね)の日から亥(い)の日までを建、除、盈、平、定、執、破、危、成、收、開、閉の12の名目に分け、毎月建・除の日に組み合わせを確かめる。毎日組み合わせが異なる。たとえば「正月建寅除卯」「二月建卯除辰」といったぐあいに。〇月△日、建に属す、△日、除に属す、などなど。表を見て組み合わせを確認することもできる。睡虎地秦簡『日書』には、組み合わせの表を列挙している。

 葛洪の言う開除日とは、この月の開日と除日のことである。つまり、甲子日や開日、除日に当たるたび、五寸の長さの五色の絹布を巨石に掛ける。すると「必ず求めるものが得られる」という神効がもたらされた。

 

(6)

 五月五日は詩人屈原を記念する伝統的な祭日だ。漢代には五月五日に長命絹布を掛ける習慣があった。五彩糸駆邪法は屈原の伝説が生まれたのと関係があった。応劭は指摘する。

「五月五日に五彩糸を腕にまとえば、武器や鬼を避け、温病にかからずにすむという。これも屈原による」。

 五彩糸と屈原にどういう関係があるのか応劭はあきらかにしていない。南朝の頃、小説家の呉均は神話の形式でその間の関連性を補った。

 呉均は『続斉諧記』のなかで、屈原は五月五日、自ら汨羅(べきら)に入水して死んだという。それ以来楚人はこの日、米を盛った竹筒を水に投げ、屈原を弔うようになった。

 後漢建武年間、長沙人区曲は屈原と名乗る人物と出くわした。その人物は言った。

「聞くところによると、あなたはいつも祭に来てわたしを弔ってくれるそうですね。とてもすばらしいことです。ただいつも投げ込む食べ物は蛟竜に盗られてしまうのですが。できるならば、食べ物を栴檀(せんだん)の葉でくるみ、彩糸を巻いてくださらないでしょうか。この二つを蛟竜は忌み嫌うのです」

 区曲は言われたとおりにした。最後に呉均は結論を述べる。「今、五月五日に粽(ちまき)を作り、栴檀の葉にくるみ、五花糸を巻くのは、その名残である」。[『続斉諧記』の異本は多く、言葉も大きく異なる。たとえば区曲が区回になっている。ただし故事の中身はほぼ同じである。どれも彩糸や五色糸に言及している]

 

 南朝の宋文帝元嘉四年(427)三月、文帝劉義隆は冨陽県令諸葛闡(しょかつせん)の建議を取り入れて、夏至の日の五糸命縷(五彩の布切れ)を禁じた。このような禁令が出される理由はわからないが、実際このような禁令が出されても影響は少なかった。このような例外はあるものの、漢代から明清代に至るまで、五彩糸を飾るのは、端午節に欠かせない要素だった。

 『荊楚歳時記』に言う、「(五月五日に)五彩糸を腕に掛けることを辟兵(武器によるケガを避ける)という。それによって人は温病にかからない」と。これは南朝の気風を表す風習と言えるだろう。

 『酉陽雑俎』「礼異」は指摘する。北朝の女性は五月五日に「長命縷(布切れ)、宛転縄(腕に巻き、人形に結び付ける縄)を買い、皆人形に結んでこれを身につける」習わしがあった。長命縷を人形に結ぶのは北朝の特長的な習俗だった。

 唐宋の時期には、長命縷を掛ける習俗はすでに古臭くなり、変化が見られた。たとえば宋代の「結百索」はそうした古い習俗が変化した新しい方式だった。

 当時の学者は指摘する。

「端五百索、長命縷などの遺風は廃れて長く……しかしその習俗はさまざまな形でつづいている」「百索すなわち朱索の名残である。もともと門に飾っていたが、今は腕に飾っている」。

 清代の人は五月五日に「五色糸を結んで索(縄)とし、子供の腕に掛ける。男の子なら左手に、女の子なら右手に」。また新しい名称「長寿線」が生まれた。

 

 応劭(おうしょう)、宗(そうりん)らは長縷褸に関する論述で両者とも条達[五月五日に贈り合う絹織物の装飾品]に言及している。文献によっては「条脱」ともいう。これは現代のブレスレットである。ブレスレットをするのと五彩糸を着けるのは同じことである。はじめは呪術的な意味が大きかった。そのうち装飾品となっていくのだが、風俗はこのように変化していくものだ。