古代中国呪術大全 宮本神酒男訳 
第1章
21 剛卯と印章鎮圧術 

(1)

 剛卯(ごうぼう)とは、桃木、玉石その他を使って制作した立体的な佩帯呪飾である。小型の立方体の剛卯は後世の博徒が用いた骰子(サイコロ)のようだ。やや大きな長方形の剛卯の上面には呪文が刻まれている。この種の剛卯は印章とよく似ているのでこの「桃卯」を「桃印」と呼ぶ人もいた。印章の一種とみなされたのである。

 湖北省随県擂鼓墩の戦国時代初期の墓(曽侯乙墓)から六つの完全な状態の白藍色玉剛卯が出土している。それぞれの剛卯の中央に対になった穴がある。これは佩帯するときに使う縄を通すためのものだろう。六つの剛卯は三対(三つのペア)である。そのうちの一対は、縦1・1センチ、横0・95センチ、幅1・5センチという大きさで、穴の直径は0・35センチとなっている。ほかの二対も大きさはほぼ同じだ。曽侯乙が埋葬された前433年頃は、孔子が世を去ってから四十年のことだった。墓中の剛卯が、曽侯乙が生前に身につけていたものだとすると、実際春秋時代の末期ということになる。

 剛卯辟邪法は漢代になって隆盛をきわめた。「剛卯」という名称自体は漢代にはじめて見えるのである。「剛卯」の「卯」は製作されるのが正月の卯日だからだという。「剛」もまた堅固なものであることから名づけられたもので、「剛強不屈」であることを示している。先秦(秦代以前)、秦漢(秦代と漢代)の時期、子、卯日は忌日とし、これらの日は楽(音楽)や生臭いものを食べるのを禁忌とした。毎年最初の卯日から剛卯を製作し、佩帯した。これによって卯日にもたらされる処刑、疾病などの災禍を厭勝する(避ける)ことができた。

 

(2)

 剛卯(ごうぼう)は一般的に一対の言葉のひとつである。すなわち「剛卯」と「厳卯」の一つである。剛、厳卯の上には呪詛の言葉が刻まれ、厳めしい「疫鬼」という言葉が刻まれている。字数は最多で六十六字だ。

剛卯の上に刻まれているのは三十四字。「正月剛卯既央、霊(しょ)四方赤青白黃、四色是当。帝令祝融、以教夔(き)竜。庶疫(だん)、莫我敢当」。この銘文の意味は、「正月卯日に剛卯を作る。この神聖な霊殳(しょ)は四面の立方形で、各面の赤青白黃の色が代表する四方の鬼を駆逐する。上帝が祝融に命令し、夔(き)竜がふたたび害をなさないように教えさとす。あまたの疫鬼は頑強で制御しがたいが、我には抵抗しようとしない」ということである。

 剛厳卯銘文は整然と韻が踏まれていて、決まり文句が使われ、内容が固定されている。漢代の剛厳卯銘文は、出土したものであれ、伝えられたものであれ、どれも決まりきったものである。ただ多少使われる文字が違う場合がある。安徽省亳(はく)県漢墓出土の剛卯は、現時点で唯一学術的にしっかりした発見とされる二枚の剛卯である。この銘文は璽をもって爾に代え、命をもって令に代え、厈蠖、赤疫をもって庶疫に代える。

 『東京賦』李善の注に言う、「赤疫、疫鬼悪者なり」。厈蠖はべつの疫鬼の可能性がある。あるいは赤疫の別名の可能性もある。漢代の剛卯の銘文の語法は『詩経』に近い。たとえば「順爾固伏」は『詩経』の「謹爾侯度」「慎爾出話」「敬爾威儀」に近い。「既正既直、既觚既方」は『詩経』の「既方既阜、既堅既好」に近い。銘文の作者は意図的に『詩経』を模倣したのだろう。

 

 剛卯銘文の「夔(き)竜」と「」は人に害をもたらす精怪である。しかし『尚書』「堯典」の楽正夔とは違う。張衡『東京賦』は大儺儀式を描写する。「飛礫雨散、剛(だん)必斃。煌火馳而星流、逐赤疫于四裔……残夔魖(きょ)と網像、野仲而殲遊光」。文中の剛、赤疫、夔と漢代の剛卯銘文は符合する。つまり剛卯銘文中の夔竜は人々が戦い、征服し、馴化しなければならない対象ということだ。

 『国語』「魯語下」に言う、「木石の怪いわく夔、蜽」。

 『東京賦』李善注に言う、夔の形状は「竜のごとく角あり」。ほかの人は、形状は牛のよう、鼓のよう、独脚(一本足)などと言う。どれも怪異なる悪しき虫(蛇の類)で、一種の精怪である。

 

(3)

 漢代の剛卯(ごうぼう)の大きさや銘文の文字数は統一されていない。服虔が言うには、「長さ三寸、幅一寸」とのこと。晋灼(しんしゃく)は「長さ一寸、幅一分」とする。司馬彪(しばひょう)は『続漢書』「與服志」の中で剛卯は「長さ寸二分、方六分」と述べている。[1尺は33センチ、1寸は3.3センチ、1分は0.33センチ]

 後世の学者は出土した剛卯、代々伝わる剛卯と上記の三つの説明を比べて、ほぼ正確であることを確認した。唐代の顔師古は言う、「最近よく土中から玉剛卯が見つかる。これらの大きさや文字の数は服(虔)が言った通りである」。

 清代の呉大澂(澄)は『古玉図考』の中で服(虔)説は間違いと述べている。現代の人陳直は剛卯が出土することそのものが証拠であり、晋灼説と符合すると考える。

 実際、司馬彪が言うように、官方の規定で作られた剛卯はみな同じだった。それ以外の民間で使用される剛卯は、その大きさも銘文の字数も、ことごとくすべて少しずつ違っていた。

 『説文解字』に言う、「亥殳巳攵、大剛卯である。もって精魅を逐う」。[「亥殳「巳攵」という組み文字]

『急就篇』に「(き)を射て、邪を避け、群凶を除く」の一節がある。顔師古の注は以下の通り。

を射るとは、大剛卯のことである。金玉と桃木を刻んでこれを成す。一名「亥殳」「巳攵」(上と同じ)、上に銘がある。傍らに孔があり、彩糸を通し、腕に吊るす。これによって精魅を駆逐することができる」。

 大剛卯があるなら、かならず小剛卯がある。つまり漢代の民間では剛卯を用いるとき、その寸法の統一規格はなかった。

 

 前漢、後漢の時代、高官貴人であろうと、庶民であろうと、みな剛卯を身につけていれば疫鬼や精魅を駆逐できると考えた。王莽は王朝を簒奪したあと、民衆が劉の時代をなつかしむことをとくに恐れ、劉字と関係する風俗や制度を一掃した。西暦9年、王莽は正式に皇帝と称し、命令を発布した。民衆が剛卯を佩帯することを禁じたのである。また同時に刀の形をした貨幣を禁止した。

 なぜなら、劉という字が卯、金、刀から成り立ち、「正月の剛卯、金刀の利」が劉字と関連づけられ、劉姓皇帝をなつかしむ気持ちが誘発されると考えられたからである。王莽の禁令は剛卯の辟邪法が広く流行していたことの証しとなった。漢代の辺境守備の軍人も、剛卯を佩帯していたことが、『居延漢簡』に「木剛卯二品」という記述があることからもうかがえる。

 後漢の頃、朝廷は役人の等級に応じて剛卯と縄の素材を明確に規定していた。すなわち皇帝、諸侯王、公、列侯は白玉、二千石から四百石の官吏は黒犀、二百石と私学の弟子は象牙を用いた。皇帝が剛卯に結んだのは玉糸であり、玉糸には白珠を連ねた。また赤いフェルトの飾りをつけた。諸侯以下の功臣や官吏は赤い糸を用いた飾り物をつけた。剛卯の素材はどれもほぼ同じだった。

 

 漢代以降、剛卯を身につける習俗はしだいに衰えていった。ただし剛卯の偽造をしようとする者が減ることはなかった。彼らは漢代の剛卯の銘文の意味を理解せず、「修爾国紀、惟兹霊式、既彜既勅、処陵煙癉」といった意味不明の文を刻んだ。

 陶宗儀『輟耕録』巻二十四に「剛卯」の条があり、ある人が収蔵する厳卯につぎのような文字が刻まれていた。

「制日厳卯、帝令莫忘、日資唯是、黑青白黄」。漢代の厳卯の銘文とはなはだしく異なっている。後人の偽造とみなされる。[剛卯と厳卯は、形状は同じだが銘文が異なっている。どちらもお守りであり、魔除けである]

 

 漢代には夏、門の上に辟邪気のため桃木の剛卯を門に掛ける習俗があった。『後漢書』「礼儀志」に言う、夏至の日に発せられたばかりの陰気を制御するために、長さ六寸、方三寸の桃印に五色の銘文を書く。よって門に施す。ここに言う桃印とはその他の文献では桃卯とされている。すなわち桃剛卯である。その大きさは佩帯する剛卯より大きく「亥殳」「巳攵」に属する大剛卯である。桃印を掛ける制度は三国時代までには公的に排除されている。ただし宋代までは民間で細々と古代流が生きながらえていた。

 

(4)

 剛卯の起源は探索すべき価値がある。実際、剛卯には鈐署(けんしょ)をすることができない。もともと印章とは別物である[鈐署とは公式文書や書画の捺印のこと]。

 最近の一部の学者は「漢代の剛卯は東周、西周、商の方柱形玉管が退化したもの。しかし商周の方柱形玉管は疑いなく良渚文化[長江下流の新石器時代文化。前35002200年頃]の琮形管[琮は古代の方柱形の玉器]が直接変化したものである」と認識している。

 もしこの説の通りなら剛卯の起源は歴史以前にさかのぼることができる。しかしまだ十分にこの説に確信を持つには至らない。材質や外形が同じでも用途や性質が同じかどうかはわからない。

このほか漢代の剛卯には重要な特質があった。それは二つのものが対を成していることである。この特質は深遠な宗教に根を張るものである。もし琮形管の大きさがばらばらなら、方柱管と剛卯の外形が似ていたとしても、それが剛卯の起源だと結論づけることはできない。

 

 現在の巫術資料を見ると、剛卯の直接的な起源は春秋時代に辟邪(魔除け)のために携えた(とうしゅ)という桃木の杖である。『韓詩外伝』巻十につぎのような記載がある。

 

 斉桓公が出遊すると、たまたまひとりの老人と出会った。ぼろぼろの服を着て、足を引きずって歩いていたが、桃木の杖をついていた。桓公はいぶかしく思いたずねた。

「(桃の杖の)名は何というのか。どの経典の何篇に書かれているのか。何を追い払うのか。何を避けるのか」。

老人は答える。「名は二桃と申します。桃は亡を意味します。そもそも日々桃杖を大事にすれば、何を憂えることがありましょうか」。桓公はことばを聞いて喜び、老人を車に乗せた。翌年正月、庶民はみな(桃の杖を)佩帯した。

 

 文中の「二桃」に注目したい。男子が佩帯するのが二つの桃殳なのである。これと漢代の対の制作物、つまり佩帯する対の剛厳卯と一致する。

 斉桓公の問いから察するに、桃殳は「追い払う」と「避ける」ために用いられる。これと漢代の剛卯の性質はまったくおなじである。桃杖や桃殳によって鬼魅を駆除するのは、古代より伝えられてきた巫術の手段である。象徴的な桃殳を佩帯するのは巫術のあらたな表現法といえるだろう。対になった桃殳の起源は、神荼・鬱塁の二兄弟が桃樹のもとで悪鬼を捉えたという神話である。一双桃殳(対になった桃殳)は、すなわち鬼神を取るのに用いられるのだ。

 

(5)

 漢代の人は剛卯が桃殳から派生したことを知っていた。剛厳卯の銘文に「霊殳四方(れいしゅしほう)」「化兹霊殳(かじれいしゅ)」とあり、剛卯の旧名あるいは雅名が霊殳であることがわかる。これは剛卯が桃殳から変化してきた証拠である。霊殳はまた、桃殳の別称である。大剛卯は「亥殳」「巳攵」と称す。「亥殳」字は、殳から「亥殳」の字を作り出すとき、剛卯に殳を刻むことになる。

 漢代の人は剛卯を霊卯と称した。後漢の人は五彩長命縷を朱索と呼んだ。明代、清代の人は春聯を桃符と同様とみている。というのも起源においてはあきらかに関係があるからだ。

 剛卯の起源が桃殳であるかどうか、学者が言う。「漢代の儒者は剛卯を霊殳と見立てた。殺すという意味があったからである」「もともと漢代の人は、剛卯を霊殳に見立て、そのような威力を持つものと考えた」

 この見立てる(比作)という言葉は難解だ。剛卯の銘文は、明確に剛卯は霊殳だと述べている。剛卯と霊殳は、漢代の人の考えでは同じ意味を含んでいた。それらはあえて見立てる必要がなかった。もし剛卯、あるいは霊殳の「その主な意味が殺すこと」であるなら、漢代の儒者がなぜそれらを霊刀、霊剣と呼ばず、わざわざ霊殳と呼んだのか。

 春秋時代の斉国人は桃殳を佩帯し、二桃と呼んだ。桃は辟邪(魔除け)霊物であり、それゆえ桃殳は霊殳と呼ばれた。漢代の人は霊殳の特性と製作時間からそれを剛卯と呼んだ。この変化には脈絡があり、明解である。この桃殳を剛卯の発展史から取り出して巫術史にあてはめようとすると、混乱が生じ、曖昧になるだけである。桃殳が剛卯の起源の一つということを玉剛卯に注意を向ける考古学者が認めなかったとしても、実際漢代のほとんどの剛卯は桃木から作られていた。

白玉、黑犀、象牙などは貴重で得難く、庶民の大半は剛卯に桃木を使っていた。しかし、出土した、あるいは代々伝わる漢代の剛卯には桃木でできたものはない。桃木は玉石と違って保存も、流伝も容易ではないのだ。

 

 『説文解字』「叙」は「秦書八体」中で「殳書(しゅしょ)」を紹介する。古代文字の学者は、殳書を武器関連の文字と認識している。最近になってこの説を唱える人がいるようである。しかしどうして武器を表す特殊な書体が必要なのだろうか。もし殳書が比較的投げやりな篆体(てんたい)あるいは六国文字なら[斉、楚、燕、韓、趙、魏の六か国の文字の総称]、秦朝廷は特殊な書体として並べる理由があるだろうか。もし武器に入れた銘文を殳書と称すなら、銘文の入った矛や戟の代わりに秦人はなぜ殳を用いる必要があるだろうか。

 殳書の性質に関して言えば、清の段玉裁の説明が比較的納得がいく。彼は剛卯、または霊殳を根拠に、秦代の殳書が剛卯の銘文のなかにあることを認めた。

現代の唐蘭はさらに一歩踏み出て「漢代の剛卯はあきらかに霊殳を示している。われわれはそれが殳書の名残であると見ている」と指摘している。

 司馬彪『続漢書』「與服志下」に言う。「漢は秦の制度を大幅に改めることなく受け継いだ。しかし(権威を示すために)、双印や佩刀で飾るようになった」。

 秦代の頃、佩帯する双印、すなわち霊殳(れいしゅ)は等級の規定があった。霊殳によって役人の身分が表されたのである。その銘文の字体には一種独特の風格があった。それゆえ朝廷は霊殳の銘文を殳書と呼んだ。その他、朝廷が使う物に使用される刻符、摹印(もいん)、署書などの字体で身分が識別されるようになった。

 

 殳(しゅ)が特別なのは、殳が截段(せつだん)することである。剛卯の形状と構造はそれに近い。[截も段も切るという意味を含んでいる。段という文字は殳を含む]

 『説文』の解釈よると、「殳は竹を積み重ねて作る。八觚(こ)で長さは一丈二尺である」。

 竹を積み重ねるとは、竹片を合わせて竹杖となすことを言う。八觚とは、殳が八棱(八角)あるということ。許慎の殳の作りの説明は考古学的発見によって証明されている。

 曽侯乙墓から出土した殳(この酒器上に殳という銘が見える)はひとしく竹木を合わせて作ったもので、八棱形である。これにより桃殳が桃木を合わせて作った八棱(八角)の木杖であったことがわかる。睡虎地秦簡『日書』「詰篇」が記す「飄風の気」を撃退する桃杖とは、あるいはこの種の特製の八棱桃殳のことだったかもしれない。

 『韓詩外伝』に言う斉国男子は二本の殳を佩帯するという場合の殳は、当然一丈以上の長さの桃殳ではなく、桃殳を象徴するもの、すなわち桃木から作った小型の八棱殳であったはずである。

 八棱体と四方体(立方体)には共通する特長があり、それは「正でかつ直であり、觚でかつ方である」[直線的でたわんでいないこと。四角、八角など規則があることなど、建築物に見られる特長。人格に対する形容でもある]ということだ。ミニチュアの八棱(八角)の桃殳は容易に四角四方の桃剛卯に変化するだろう。これがまた剛卯に霊殳の別名が付いた由来である。

 玉器を佩帯して不吉なものを御するのは古い習俗である。ただ玉石、黑犀、象牙などから霊殳を作ると、かえって桃殳辟邪術の影響を受けやすいかもしれない。

 

(6)

 剛卯と少し似たもの(どちらも文字が彫られている)に、おなじ辟邪(魔除け)霊物で印章がある。辟邪用の印章には二種類ある。一つは実用的な官印で、もとは官吏の身分と朝廷の権威の目印だった。のちに巫師によって転用され、鬼神と妖人を厭勝するために用いられた。もう一つは神印とか法印と呼ばれるもので、巫師や道士が法術を実施するために特別に作ったものである。

 

 印章は、官印およびそれと関連した長官の権威を崇拝する人々の間で辟邪(魔除け)霊物となった。春秋後期以降、璽印の使用は頻繁になり、国家文書レベルになると、璽印が押されたもののみが有効とされるようになった。官吏の任命罷免は璽印の交付と接受に頼ることになる。「印把子(ハンコ)を掌握する」とは当家の主となって養う者となり、威厳を示すことを意味する。

 歴代の新王朝建立を試みた人たちはまず旧朝廷を攻めたあと、第一にやることは国に伝わる玉璽を奪うことだった。彼らはこれを得れば、未来の政権が「名正言順」(名分が正しければことばも理にかなっている)であると信じていた。

西楚覇王項羽が諸侯に封土を授けていた頃、(そのたびに印を授けることが)我慢できなくなり、印章を手にもってなでまわした。そのため印章の角が取れ、摩滅した。印章がひとたび用いられるようになると、それが自己の権力を生み出すことを彼は知った。

 各地に遊説に出るものの、うまくいかず、戻ってくる蘇秦[?-284BC]に対し家族は礼遇するのが常だったが、彼が六国相印を身につけて帰郷すると、いつも白眼視していた兄弟や妻、嫂(あによめ)までもが仰ぎ見ることさえできず、ひれ伏すしかなかった。

 漢代の朱買臣は一介の平民から会稽太守に登りつめた人物である。会稽郡の役所の昔からいる役人たちは、ボロボロの服を着た彼を見て、頭からばかにした。しかししばらくして彼が会稽太守章(印章)を懐に持っていることを知り、恐れ、色を失い、ひれ伏して叩頭した。

 皇帝の時代、璽印が入った貨幣の権威は大きかった。銭の影響力は大きく、「危険を安全に変えることができる。死亡を生存に変えることができる。富貴を卑賎に変えることができる。生を死に変えることができる」のである。その超自然的な力は、印章を用いることで、駆鬼辟邪をおこなった。これは璽印のフェティシズムが生み出した当然の帰結である。

 

(7)

 まず官印の使用法を見てみよう。一部の術士は辟杖、寄杖といった術(妖術)を使った。それによって杖(つえほこ)による攻撃をさけることができた。あるいは杖の攻撃を受けても、痛みをほかの人の体に移すことができた。

 古人がこの種の妖術に対抗する武器としたのが官印である。方以智、周亮工らはこれらの方法を紹介している。たとえば

「遁形[形跡を消すこと]のできる妖人に対し、犬や(ぶた)の血を使って祭り、邪を祓い、二度と遁形させないようにした。辟杖(杖の攻撃を避けること)、寄杖(杖の攻撃による痛みを他者に転移すること)をよくするものに対しては、官印で攻撃し、痛みを与えて屈服させた」

「役人が妖人および寄杖することのできる者を捕らえても、役人には処刑する権限がないので、その背中に印を押すか、それに向かって印を振りかざすか、犬や豕(ぶた)の血を浴びせるしかなかった。そうすれば妖術が施されることはなかった」

 人獲[163582]は、官印を用いて妖術を破解した実例を収録している。

わが郡の尤定中(ゆうていちゅう)は、康煕乙卯(1685年)の挙人(科挙合格者)であるが、神水県の県令に選ばれた。あるとき奸計に問われた道士の審問を行なうさい、残酷な体罰を加えてもどれだけ痛みを与えても、口を割らなかった。しかしある役人に教わって、貯水槽の清水を口に含んで道士に吹きかけ、県印を取り出して照らすと、一気呵成に真相をしゃべりだした」。

 

 小説家は官印の辟邪法術に関して生き生きと描写している。袁牧『子不語』巻九「呂道人駆竜」に書く。河南帰徳府呂道人は法術がたくみで、歳は百を超えていた。雍正年間、王朝恩(おうちょうおん)は黄河の治水工事をせよとの命を受けた。もとの計画では張家口に石堤を作るということだったが、多くの予算を投じたのにもかかわらず、未完成だった。

 ちょうどこのあたりを通りかかった雲遊の道士、呂道人が王朝恩に言った。「石堤が完成しなかったのは、川の下にひそむ毒竜の祟りのせいなのです」。

またこうも言った。「この竜は二千年も修行しているので、胆力はすさまじいものがあります。梁の武帝が建てた浮山の堰(せき)も崩壊し、数万の命が損なわれてしまいました。これもこの竜が引き起こしたのです。石堤を築くなら、貧道[道家の自称の謙遜語]自ら川に降り、竜と戦うといたしましょう」。

 呂道人が提出した要求は、皇帝が授与する「王命牌」を油紙でくるみ、それを彼の背中に縛りつける。そして油紙の上に「河道総督印」の官印を押して封じるというもの。王朝恩自らの手で自分の姓名を書いた。

 呂道士は王命牌、河道総督印、総督手書の神威を借りて、水中で毒竜と一日戦い、ついには毒竜を東海(東シナ海)に追い出すことができた。

 『続子不語』巻十に、「人がネズミに化けて盗みをおこなう」が、最後は官印によって調伏される故事が載っている。

小役人の王某は長沙公館で休息していると、「三更に至り、突然梁の上に塵の塊が現れ、何かが木を齧る音が聞こえてきた。その音がかなりやかましくなった。帳(とばり)をあけてよく見ると、羽目板にお椀のような穴があいていた。そこに何かが落ちたのである。それはネズミだった。二尺ばかりの大きさがあり、人のように立って歩いた。王は驚いて、床と枕の間にあった縄で攻撃したが、それに打撃を与えることはできなかった。枕の傍らに印章を入れた箱があったので、今度はそれをぶつけた。すると箱から印章が飛び出してネズミに当たった。ネズミはひっくり返り、はずみで衣が脱げると、中から裸の人間が出てきた」。

 

 戦国時代から魏晋時代まで官吏は一般的に殷賞を肱の上に着けたり、懐の中に押し込んだりした。まるで片時も離さないかのように。

隋唐以降は、官印はいつも箱の中に入れていた。簡単に取り出されて施術に使われないようにしていた。それゆえ用いられる官印は前の時代のものだった。

 『安化県志』に言う。巫師寧均は「飛霜崖にネズミがうがった道を見つける」。あとを追ってついにネズミの穴の底から一枚の銅印を見つける。その銅印の上には篆文で「扶蛮王印」と刻まれている。

 寧氏は捺印や符籙を用いて風雨を呼ぶことができた。のちに印章の柄が壊れてしまい、霊験がなくなってしまった。

 またある古書に言う。福建侯官[福州市内]の農夫は、田を耕しているとき鉄を鋳た「文信国印」を見つけた。ある学究(ありきたりの学者)がその鉄印を用いて邪祟を鎮伏するのに使うと、思いもよらない効力を発揮した。

「家に疫病や祟り、瘧(おこり)のある者がいても、これ(鉄印)を用いれば癒すことができた」

 遠くて鉄印を借りることができないとき、印章が押された白紙を門に貼るか、瘧の患者の額に貼るだけで、病鬼を駆除することができると信じられていた。

*私(訳者)が四川南部大涼山のイ族の民家に滞在していたとき、主人に代々伝わる鉄印らしきものを見せられ、これは何かとたずねられたことがあった。残念ながらよくわからなかった。今考えるに、それはこの鉄印と同じようなもので、治病などに用いられたのだろう。「文信国印」か「扶蛮王印」のようなものだったろうが、それが何であるか正確には思い出せない。

 清の人王士禎(おうしてい)は『隴蜀余聞』に言う。成都府衙内に亀蛇碑が立っている。碑に亀蛇が描かれているが、これは唐代画家呉道子の真筆である。毎年端午節になると、石碑のもとに亀や蛇が集まってきた。そしてついには「屋根の瓦や庭の樹木も(亀蛇で)いっぱいになった」。

 麻城の人、梅氏は郡守に任命されると、人を派遣して、石碑の図像をえぐりとって持ってこさせ、石刷りとし、印章として用いた。それによって「邪祟を鎮め、瘧(おこり)の治療に効果があった」という。

 

(8)

 邪祟の駆除のために作られた神印や法印は、あらゆる印章のなかでも巫術性が高いという面では際立っている。秦代以前にはすでに竜、風、兕(じ)などの図案が刻まれた肖形印と「宜官内財」「出入大吉」「利出入」などの字祥が刻まれた吉語印といった印章の大部分は護身符として使用された。それらは神印の先達であった。

 伝統的な吉語印の基礎の上に作られ、さらに威力を増したのが辟邪印章である。これは漢代の術士によって完成した。漢代の伝説には、印章を用いて法術を実施した神仙の故事がある。

 劉向は『列仙伝』の中で述べる。唐堯の時代の隠士方回は、夏朝初年、脅されて茅小屋に幽閉され、道術を教えるよう脅迫された。方回は策を講じて、うまく脱出し、家の門の上に「方回」の印章で蓋をした。その結果誰も茅小屋の中に入ることができなくなった。

 フィクションぽい方回の話は史実を反映している。すなわち漢代の巫師は印章を用いた法術をすでに実施していたのである。

 宋代に収蔵された大量の古い印章のなかにも、漢代の巫師の遺物があった。宋代の王俅『嘯堂集古霊』巻下には印章の「夏禹」という印文が載っている(画像参照)。

 元の吾丘衍『学古編』はこの印について、「漢代の巫(ふ)の厭水災法印である。世俗に伝わる渡水佩禹字法であり、この印章の漢篆(の印文)によってそれと知る」と鑑定している。この鑑定は信頼に足りるだろう。

 後漢時代は道教の形成期である。さまざまな要素を取り入れる道士が、民間の巫師が使用する印章の駆邪法を取り入れ、発展させた。これによって神印を作り、使用するのがしだいに道士の専売特許となっていった。

後漢から魏晋南北朝にかけて、道士がもっとも常用した神印は「黄神越章」だ。黄神は伝説中の鬼魅虎狼を駆除する大神。馬王堆帛書『五十二病方』には悪瘡(ひどいできもの)を治す呪文が記されている。

 

「浸〇浸〇虫、黄神在竈中、□□遠、黄神興」[〇は火ヘンに畜。「火畜」(二文字)で羊や馬を表す。□は欠落](家畜の虫よ、黄神はかまどの中にいる。□□を遠ざけよ。黄神よ、興これ)

 

 この呪文から前漢の時代に黄神崇拝が広く流行していたことがわかる。「黄神越章」の「越章」は黄神の名前だろう。

 197211月、考古学チームは陝西省戸県朱家堡漢墓から赤い呪文が入った陶罐を発見した。呪文の後半部はつぎのとおり。

 

「従今以長保孫子、寿如金石、終無凶。何以為信? 神葬厭填(鎮)、封黄神越章之印。如律令!」(これよりのち子孫代々途絶えませぬように。寿命は金石のごとく長く、凶事がありませぬように。神として葬り、邪を鎮める。黄神越章の印をここに封じる)

 

 これが発見される前に出土したのが前述の漢代の遺物である「黄神越章」である。全篇呪文で、自称「天帝使者」の巫師が後漢順帝二年(133年)八月六日(干支の甲戌、建除は除日)、死者曹伯魯の遺族のために、災いや凶事の除去を目的として書いた呪文である。呪文を分析すると、曹伯魯とその他親族数名は、疫病によって死亡したと思われる。「従今以長保孫子、寿如金石、終無凶」(これよりのち子孫代々途絶えませぬように。寿命は金石のごとく長く、凶事がありませぬように)という文は、曹氏の後代が二度と疫病に遭わないことを願って書かれたものである。

 最後に巫師は自問自答する。「このような願いの実現を保証するには、何を用いればいいだろうか。神葬厭鎮の法術を施すがいい。そのために黄神越章の印を用いよ」と。

 巫師から見ると、「封黄神越章之印」は邪祟を鎮圧し、災いや凶事を除去するには十分な方法である。この朱書陶罐は、死者を保護する鎮墓を目的とするものではない。その用途は、死者の邪気を鎮圧し、曹家の生者がふたたび死者の凶事の巻き添えになって、疫気に汚染されないことである。

 

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 晋代に至ると黄神越章のパワーは道士によって誇張され、さらなる進歩はなくなってしまった。葛洪『抱朴子』「登渉」に言う。「古(いにしえ)の人が山林に入るとき、みな黄神越章を身につけた。その広さは四寸、文字は百二十。各百歩四方を泥で封じると、虎狼はその中に入ろうとはしない。道を進んでいるとき、新しい虎の脚迹を発見したなら、脚迹の向きに印を押していけば虎は去っていく。逆向きに押していけば、虎は戻ってくる。この印章を持っていれば、山林の道を行くときでも、虎狼を畏れることはない。虎狼を避けるだけでなく、もし山川社廟で血を食う悪神が福禍を為すなら、印章を使って泥で封じ、道路を切断し、力を発揮できないようにする」。

 葛洪はまた実例を挙げる。呉国石頭城(南京)の中に深い池があり、池の中に大きなスッポンがいた。人はこの池をスッポン池と呼んだ。この大鼈が鬼魅に変化(へんげ)し、民衆に害を与えるようになった。多くの人がこれにより原因不明の病気を患うようになったのである。

 道士戴(たいへい)はたまたまここを通りかかり、池の中に鬼を見つけると、池に泥を投げ入れ、数百の黄神越章の印で封じた。しばらくすると直径一丈[3.3m]の大スッポンが浮かび上がってきて、ピクリとも動かなかった。戴昞は大スッポンを殺し、それによってすべての患者を治した。これは印を紙に押す前の話で、泥の上に印を押して封じていたのである。竹簡の公文書を渡すとき、竹簡全体を縛るとき、縄は泥で湿らさねばばらなかった。そのさい湿った泥の上に印章を押し、印文を打ち込んだ。

 葛洪が言う封泥とは、泥の塊に黄神越章の印を押すことだった。後代に至ると黄神越章の印は少なくなかった。近代の劉体智『善齋吉金録』「璽印録」には数枚の黄神越章印が収録されている。ただし韻文は簡略化している。それらは葛洪の百余字の銘の印章とは大いに異なるものだった。葛氏が紹介した黄神越章印は比較的特殊なものだったのである。

 

 道士はつねに黄神越章を治病に用いた。北周甑鸞(そうらん)著『笑道論』は道教を風刺する書である。それの「戒木枯死」の一節に言う。道士は「黄神越章を作り、鬼を殺す朱章を作ることもできる。(法印は)人を殺すことも、炭を塗ることも(それによって虎狼を排除することも)できる」。

 黄神越章はどうやって人を殺すというのだろうか。思うに、道士は法印を用いて病人を治すことができる。つまり病気を治さず死に至らしめることができる。甑鸞はそれを誇張して「人を殺す」と言っているのではなかろうか。

 唐末五代の道士杜光庭編纂の『道教霊験記』に記す道士の法術の霊験の一つに「張譲、黄神印によって疾病から救われる霊験」がある。黄神越章印の効能を神奇なるものとして誇張して描いている。

 張譲が患っているのは「素っ裸で馬に乗って走り回り、はばかることを知らない。水も火もものともせず、刃をも恐れない」精神病である。「道士袁帰真があらたに黄神越章印を作り、祭神儀式を終え、焚香儀式をおこない、胸や背中に印を押す。(張)譲は狂ったように走り回り、印を手に取って押す。すると意識を失って倒れ、そのまま眠る。(袁)帰真は印の効果を知ることとなった。また煉丹術によって線香を焚き、胸に印を押す。するとたちまち病は癒えた。そしてカササギのようなものが口から飛び出し、数丈先の地面に落ちた。衆人の前でそれは大コウモリとなった。譲はもとの状態に戻った。帰真はこの印章を持ち、病む者がいればこれで治し、おおいに霊験のあることを示した」。

 この伝説で信じられるのは、印章でもって治病するところである。印章を作った後、祭儀を挙行する。治病のさいにはまず香を焚く。そして印章を使い、病人の胸や背中に印文を押す。病気が重いときはさらに一度、あるいは数度繰り返す。

 

 黄神越章のほか、道士はさまざまな法印を使用していた。たとえば葛洪は「制百邪之章」「朱官印包元十二印」など、甑鸞は「殺鬼朱章」「太極章」などに言及している。

 『道教霊験記』は「天蓬印」を用いて雨をもたらした事例を記している。唐僖宗広明年間の旱魃のとき、成都の人范希越は天蓬印を作り、池に印を投じた。すると短い時間にざっと暴雨が降り、「イナゴの類はみな溺れ死んだ」。

 清の宋犖(そうらく)著『筠廊偶筆(いんろうぐうひつ)』もこの種の故事を記す。

康煕七年、京師正陽門の河を浚渫したとき、玉印が発見された。しかしその篆文を誰も読むことができなかった。礼部[行政機構]は広く意見を求めた。もとの印も公表した。数十日たっても誰も現れなかったが、少宰[官名]孫北海先生が家にいると、こういう声が聞こえた。

「これは元順帝の時代、雨乞いの儀式を行ったときに作った竜神印である。各門にこの印がある。雨が降ったあと、これらは(雨に流されないよう)土に埋められた」。

 孫は印章の文字と詳しい注釈を付けた書を礼部に送った。なんと物知りであることかと讃嘆された。

 元順帝は竜神印を用いて雨乞いをした、というのが道士の考えである。しかしそうでないなら、この神印が大雨を招いたあと、城門の下に埋められたということかもしれない。

 

 黄神越章および各種法印の素材は棗(なつめ)の木か玉石である。『抱朴子』「登渉」に言う。「老君は神印によって百鬼および蛇、蝮、虎狼を除去」し、「棗心木を二寸四方に刻み、ふたたび拝んでこれを佩帯する。神効はなはだある」。

 『印典』巻五に引用する「黄君、虎豹を制使する法」に言う。「道士、棗心から四寸四方の印章を作る。ここで言う法印は、用途と大きさから、葛洪が述べる黄神越章とほぼ同じであることがわかる。つまり黄神越章印である。棗木から印章を作るのは、それが堅固で耐性があるからだ。

 宋代の編纂『車志』は言う。「鬼は白玉を畏れるので、白玉印をつけるのがよい。雄の精嚢を盛んにする」。徐津市から見ると、辟邪(魔除け)霊物である玉石は、棗木印と比べてもさらなる威力を持っているようだ。