古代中国呪術大全 宮本神酒男訳
第1章
22 銅鏡の霊異と照妖鏡信仰
(1)
古代中国の小説には「照妖鏡」が珍しくない。それを使って妖怪のあとを追跡していけば逃げ隠れできないという宝鏡である。古代の巫師(シャーマン)は明鏡の呪術的力をよく理解していた。狭義の照妖鏡よりもはるかに多くの力を持っていた。「晋、唐代の俗説にいう、およそ鏡はみな照妖しうる、と」「唐代から明代まで鏡はひとしく悪鬼のたぐいを駆除することができた」と言われた。古鏡や宝鏡はさらに霊異を増すばかりである。
中国は世界でもっとも早くから銅鏡を鋳造してきた国である。甘粛、青海省の斉家文化遺跡からは紀元前二千年頃の二枚の銅鏡が出土している。これらの年代を照らし合わせ、古書を読むと、「黄帝大鏡十二面を鋳造し、月ごとにこれを用いる」「黄帝十五鏡を鋳造する……月が満ちるまでの数にならう」などの伝説も滑稽な話とは言えなくなる。
斉家文化時代から西周時代にかけて、銅鏡製作技術はかなり高くなったが、まだまだ小さく、粗削りで、数量も限られていた。春秋戦国以降、銅鏡製作工芸はますますさかんになり、のちには鉄鏡が出現した。このようではあったが、先秦(秦代以前)、秦漢代には、銅鏡はまだ十分に広がっていなかった。銅鏡を持つことができず、水を鏡代わりにせざるを得なかった一般民からすれば、銅鏡は耳にすることがあるだけの極めて少ない奢侈品であり、神秘的なものだった。少人数が使えるだけの技術を要する器物だった。
その効用と効力は誇大にみなされるようになり、しだいに神聖化されていった。人々は想像した。帝王や貴族が使用する銅鏡は人の外形を映し出すだけでなく、人の内臓をも映し出すことができると。人を映し出すだけでなく、妖怪を映し出すと。妖怪を映し出すだけでなく、妖怪を駆除することができると。この種の想像は累積し、発展し、ついには一切の明鏡が妖怪を駆除できるという観念ができあがった。
(2)
銅鏡が霊的なものになったのには、具体的に二つの原因がある。第一にそれはものを焦がし、火をつけられること。周礼の規定で、祭礼中にたいまつに火をつける必要があるとき、「夫遂」を用いて日光から明火を得た。「夫遂」は漢代以降「陽遂」「陽燧」などと称したが、いわば火を獲得するための凹鏡である。「夫遂」は太陽から火を得たので、その火は明火と呼ばれた。
頻繁に陽燧を用いて火を取ったことにより、人はあることに気がついた。銅鏡の焦点をある人物、ある物にあてれば、対象を焼いて、傷つけられるのではないかと。巫師は鏡で邪を駆逐し、このことを教え導いた。
第二に、鏡の表面に凹凸があり、映し出したものが怪異なるものに見えたこと。「徐鉉は鏡を得ると、人を照らして一眼で見た。宗寿は古い鉄鏡を持っていた。照らして見ると酒楼の上に青い衣を着た子供が座っていた。杭州の彭城の謝が市で鬻(いく)の上に鏡を見つけた。映る顔はいつも通りだが、背後の人の顔はみなさかさまに見えた。あごが上だった。そのときどれほど震撼しただろうか」。
鏡に映るのは、鏡の中から見る妖魅である。これは怪現象だった。銅鏡は日光から火を得ることができるだけでなく、妖魅を映し出すことができた。人々は銅鏡にいっそう測りがたい神秘性を感じるようになった。
明鏡駆邪法術は秦漢の頃に形成された。『西京雑記』巻三に言うには、秦朝咸陽宮に大型の方鏡があり、人の五臓や病源を映し出した。「女子に邪心があれば、胆(胆臓)が膨張し、心(心臓)が動いた(動悸があった)。秦始皇帝は宮廷人をよく鏡に映し、胆張心動があれば、その者を殺した」。
この書はまた言う、漢武帝は戻太子(れいたいし 劉据)を死刑に処すと決め、戻太子の孫の劉詢を監獄に入れた。まだ幼児だった劉詢の腕に五色のひもと身毒国伝来の「大如八銖銭」の宝鏡をつけていた。「古い言い伝えによれば、この鏡は妖魅を映すという。それを身に帯びた者は天神の祝福を得ることができる」ので、劉詢も危機を脱することができた。そして最後には皇帝になった。
これらの伝説を見ると、秦漢の時期、明鏡は呪術の実践に用いられていた。漢代には、棺の蓋の上に銅鏡を置く習俗があった。鎮墓(死者の魂を守るために辟邪のものを置く)のために銅鏡が使われたのである。後漢の銅鏡には「洞照心胆、屏除妖孼(ようげつ)」という銘文があった。これらは上述の伝説を裏付けている。
(3)
古代の道士は明鏡の威力を重視した。つねに明鏡を用いて駆邪法術をおこなったのである。葛洪『抱朴子』は二か所で鏡の呪術の効用について詳述している。彼は鏡が予測に用いられるだけでなく、除鬼にも用いることができると認識していた。
この書の「雑応篇」に言う、将来の吉凶、安危、去就を知るために、九寸以上の明鏡を自照し(鏡に自らの姿を見て)、凝神静思し(神経を集中して沈思黙考して)、七日七晩ののち神仙が見えるようになる。神仙は男にしろ、女にしろ、老いていようと、若かろうと、一旦出現すると、鏡を見る者に啓示を与える。それは「千里の外から来たことである」。[私(訳者)は四川・雲南省境の山中のモソ人(ナシ族支系)の家々を訪ね歩いたことがあるが、ダバ(宗教祭司)の家にはかならず銅鏡があった。銅鏡はぼんやりとしか映らないが、明鏡もこの程度だったのではなかろうか。現代の鏡のような鏡は古代にはなかった]
照鏡のとき、一枚の明鏡を用いてもいいが、同時に二枚、あるいは四枚用いることもある。二枚の鏡を用いながら「日月鏡」と叫び、四枚の鏡を用いながら「四規鏡」と叫ぶ。「四規とは、これを照らすとき、前後左右を照らすことができるからである」。その東西南北を照らすことができるので、さらに多くの神仙を見ることができる。
葛氏はまた言う。照鏡がもっともうまくいくのは幽静なる山中で修練するときである。目はわきを見ることがなく、耳は余計な音を聞かず、精神を集中することができれば、かならず道を成し遂げられると。
三童九女、九頭蛇などが出現するだけでなく、誰かが意見を聞きに来たり、叱責しに来たりするかもしれないが、相手にする必要はない。修練者は一心に太上老君の真の姿だけを思い描けばいい。いったん鏡の中に老君を見たなら、「寿命は延び、心は日月のようになり、知るべきことは何もなかった」。
『抱朴子』「登渉」に言う。世の中のすべてのものは、老いて精となる。どれも人の姿に変成して人を惑わし、たぶらかす。ただ彼らにも弱点がある。鏡には自分の本当の姿を隠すことができないのだ。これにより、「入山する道士はみな直径九寸以上の明鏡を背中に掛けた。老魅はあえて人に近づこうとはしなかった」。[老魅は、長い時間を経てゆっくりと変成した妖怪]
もし前方に呼ぶ人があったら、まず振り返って鏡を見る。(鏡に映っているのが)仙人か山中のいい神なら、鏡の中の姿は変わらない。もし鳥獣邪魅なら、かならず原形があばかれるはずである。老魅はまた後ろ向きに歩く習慣があった。彼らが歩いていくのを待って鏡に映してみるといい。彼らにかかとがないことに気づくだろう。
葛氏は例をあげて言う。蜀郡雲台山の石室で静座し修練を積むふたりの道士がいた。突然黄色い衣を着て、葛巾を頭に載せた人が慰問にやってきた。
「道士のみなさんはたいへんだなあ! このような人里から離れた寂しい山中でがんばっておられるとは」
ふたりが鏡に映してみると、そこにいるのは一匹の鹿だった。彼らは鹿をしかりつけた。
「おまえは山中の鹿のくせに人の姿を取るとは!」話が終わる前に鹿はあわてて逃走しようとしていた。
林慮山の麓の公亭につねづね騒鬼[原文は鬧鬼。騒々しい幽霊]が出た。公亭に泊まっている人は死なないが病気だった。患者が言うには、夜数十人がやってきて大騒ぎをしたという。男女が入り混じり、衣の色は一つではなかった。
のちに道士郅伯夷(しはくい)がこの公亭で一夜過ごしたとき、ロウソクを明るく灯したまま、坐って読経した。夜半に、はたして数十人がやってきて大騒ぎした。郅伯夷も賭博に興じた。彼がひそかに小鏡を取り出して映してみると、そこには野犬の群れがいた。
柏夷はロウソクを持ったまま立ち上がり、ロウソクを落としたふりをして彼らの衣に火を着けた。すると犬の毛が焦げたようなにおいが漂ってきた。
ここで彼は小刀を取り出し、ひとりに突き刺した。その人は死に、もとの姿を現した。ほかの犬はみなばらばらに逃げ出した。このとき以来、公亭に騒鬼(鬧鬼)が現れることはなくなった。
葛洪は結論づける。郅伯夷が敵に克ち、勝利をおさめたのは、「鏡の力である」と。
(4)
後世の道教経典は、明鏡の巫術の効能や使用法について詳しく述べている。太上老君に仮託した経典『老君明照法叙事』が言うには、明鏡を使用することで「分身によって姿を増やし、一を万とし、六軍を作ることができる。千億里の外で呼吸をして、雲に乗り、水を履き、好きに出入りすることができる。天神地祇、邪鬼老魅、隠蔽の類、みな見ることができる」と。なかんずく、一枚の鏡で神を見ることができるが、人が長く生きられるようになるわけではない。日月鏡によって寿命を延ばすことはできるが、分身の飛行術を修めることはできない。
「分身散形(分身は本体がいくつにも分かれること。散形は尸解、すなわち一度死んだあと蘇ること)、坐在立亡(坐在は跪き、臀部をかかとで支える座り方。立亡は立ったまま遷化すること。坐脱立亡と同じ意味なら、坐在は跪いたまま遷化する意味になる)、上昇黄庭(道教の瞑想法存思における呼吸法を指す。黄庭は五臓のうちの脾臓)、長生不死、役使百霊、入水入火、入金入石、入木入土。注意を払って飛行し、我は四規の道を用いる」。
四規鏡を使用し、鏡の面を人から一尺五離し、地面から三尺離さなければならない。修行者は四面鏡の中から神仙を見るが、これは同一ではない。
東規には小耳の高い顔の、全身に黒毛の生えたふたりの仙人が見える。西規には西王母が見える。南規には一身十一頭の中和無極元君が見える。北規には一身十三頭の天皇君が見える。
太上老君は三十種の神仙の形象で描かれる。諸神として平穏を保ち、鎮定するのである。これらは一切驚くことも恐れることもないと強調する。
道教経典は二種類の直接的な明鏡駆邪秘術を紹介している。
一つは、治病のために大山に入る際に使用する秘術である。まず鏡を門の上に掛ける。門の下に井華水(夜明けに最初に井戸で汲んだ水)を置き、刀あるいは剣を横にして盆の上に置く。刃を外側に向けるので、どんな鬼魅であろうと、門から入ろうとすると、「水を過ぎると即死する。血は水中に流れる」ということになる。この方法はきわめて有効で、秘術を俗人に教えてはいけない。
もう一つは、百邪を辟邪する刀兵(武器)を用いる法術である。直径三寸の鏡を準備する。また「円天府」と書かれた符を鏡の背面に貼る。この鏡を懐に押し込む。甲丙などの陽日には懐の左に、乙丁などの陰日に懐の右に押し込む。ここに入ってきた人々は「みなこれを畏れた」という。この法も同様に秘しておくことが要求される。
四規の威力はきわめて大きいので、それの秘訣を伝授するにおいて、道士はしばしば相手に誓いをたてさせる。つまり誠心誠意、法にのっとり、外部にもらすようなことはしないと。明鏡の使用には禁忌が多い。葬送や分娩の家には入らない、ニンニクのような辛みのある野菜は食べない、婦人やなまぐさいものには近づかない、明鏡の前では目を閉じてうつらうつらしない、などがそうだ。
道士の間では特殊な「摩照の法」が流伝されてきた。すなわち薬物を鏡面に塗って「日月のように明るく」したのである。なかには唾沫を鏡にこすりつける方法があった。つばを噴きかける古い噀唾(そんだ)術にも言及しているが、これは明鏡に神力を注いでいるということである。
仏教が民衆への影響力を拡大していくとき、しばしば道教の明鏡照妖術を借用した。『摩訶止観』は天台宗の祖隋僧智顗(ちぎ)が口述した仏書である。この書のなかで言う、「隠士頭陀多蓄の方鏡は座の後ろに掛けてあった。媚(魅)は鏡の中の色像を変えることができず、鏡を見てこれを認識したので、自ら派遣した」。これは道士の見方と一致する。
紀昀『閲微草堂筆記』巻十三にも、僧が小鏡を用いて狐精を照らす故事が載っている。これから見るに、明鏡照妖術は古代の仏道両家に通じる方法であったようだ。
(5)
明鏡の迷信と明鏡運用の巫術活動は隋唐の時代に隆盛をきわめた。照妖鏡という言葉もこの頃生まれた。李商隠『李肱所遺画松詩』に「我照妖鏡および神剣鋒のことを聞く。照妖鏡の名称をはじめて見る」と記す。
隋唐時代の伝統を残す巫術用の鏡、その装飾、銘文はどれも神秘的な濃厚な雰囲気があった。『宣和博古図』巻三十に収録された鉄鏡を見れば、この雰囲気を理解するのはむつかしくないだろう(図A)。
清嘉慶年間に「銭唐(地名・会稽郡)の趙晋斎(書家 1746―1825)が呉門にやってきたとき、鉄鏡を携帯していた。その直径は6寸ばかりで、背面に2匹の金の飛竜が嵌められていた。そこに「武徳壬午年造辟邪華鑌鉄鏡」の十二文字が銘記されていた。武徳は唐高祖の年号であり、壬午年は622年だった。この鏡はあきらかに唐代はじめの遺物である。鉄鏡には呪文のような詩が書かれている。
「乾卦の鑌鉄(ひんてつ よく精錬された鉄)から成る鏡は大旱を寄せ付けない。清泉のような祈りで甘霖(ひでりのあとの雨)を求める。魔物(魅孽)たちはひどく驚く。双竜は、あごを垂らし、嚄略(大いに気勢がある)である。回禄(火の妖怪)は睢盱(上を見上げるさま。早々に鉾を収める)」
この銘文から考えるに、唐鏡のおもな目的は旱災を除去することだった。そして同時に駆魅除疫(魔物を駆逐し、疫病をなくすこと)することだった。
(6)
唐代の有名な辟邪(魔除け)の宝鏡は楊州鏡である。この種の宝鏡は毎年五月五日に江心舟のなかで鋳造した。ゆえに水心鏡、あるいは江心鑑と称した。[揚子江の真ん中で鏡が鋳造された]
唐人李政の小説『異聞録』に述べる。唐天宝三載(744年)五月十五日、楊州は皇宮に水心鏡を貢物として献上した。この鏡は太陽のように清らかに輝いた。背面には蟠竜が鋳られた。唐玄宗は一目見ただけで奇異なるものとして感動した。
進鏡官揚州参軍李守泰によると、この鏡を鋳造するとき、ひげや髪が真っ白で、白い衣を着て、自ら竜護と名乗る老人が、黒衣を着た、玄冥と名乗る童(わらわ)を連れて、突然鏡の鋳造現場に現れ、一臂の力(わずかの力。謙遜した言い方)をもって助けたいと申し出た。煉炉のそばにへばりつき、門をぴったり閉めて、他人が入ってくるのを許さなかった。
三日三晩ののち、門が開かれた。工匠呂暉(ろき)らは煉炉に白紙が貼ってあるのに気づいた。それにはこう書いてあった。
「鏡竜長さ三尺四寸五分、三才(天人地のこと)に則り、四気(温、熱、冷、寒のこと)を象り、五行(金、木、水、火、土)を賦与する。縦横九寸、九州に分かれる(世界が九つに分かれるように鏡も九つに分かれる)。鏡鼻は明月のごとき珠玉である。開元皇帝[唐玄宗を指す]は神霊に通じているので、われついに地上に降りて祝福する。鏡はこのように辟邪の力があり、万物を鑑みる。秦始皇帝の鏡、ふたたび増えることはなく(今はこの鏡があるので必要ない)……」
呂暉らが仙書を見て、鏡炉を船内に移した。そして五月五日午時に揚子江の中央(江心)で正式に鋳造することになった。作る際に江水(揚子江の水)は突然三十余尺も盛り上がった。そのさまは川から雪山が浮かび上がったかのようだった。また竜の吟ずる声が、それは笙(しょう)の音のようでもあったが、数十里離れたところまで聞こえた。
当地の老人は言う、鏡を鋳造して以来、このような珍奇で壮観な光景は見たことがなかった。唐玄宗はこれについての説明を聞いて、収蔵官によく保存するよう命じた。
天宝七載、関中で大旱が発生し、唐玄宗は自ら祀竜堂に出向き、雨が降るよう祈ったが、霊験はなかった。道士葉法善は奏上した。
「真竜とよく似た竜形(竜神像)が、真竜に感応し、求めに応じて雨を降らすと聞いたことがあります。現在雨を祈っても霊験がないのは、雨乞いの竜が真竜に似ていないからだと思われます」。
そこで唐玄宗は家臣に命じて葉法善を皇宮の宝庫に連れていかせ、竜に似たものを探させた。葉氏は宝庫に入るなり揚州鏡を発見した。彼はふたたび奏上した。
「これは鏡竜です。真竜にほかなりません」
翌日、葉氏はこの鏡を用いて儀礼をおこなった。しばらくすると鏡の背面の蟠竜から二つの白い気体が噴出した。大殿の梁で二つの白い気体はぶつかり、そこから広まってあっという間に宮殿全体を包み込み、さらには都全体に充満した。すると甘霖が降りはじめ、七日してようやく止んだ。
このあと唐玄宗は特別に大画家の呉道子に銅鏡の蟠竜の竜図を画かせた。玄宗はそれを鑑賞したあと葉法善に賜った。
「五月五日に揚州の江心で鏡を鋳造する」のは唐代の習俗だった。白居易の『新楽府』の一篇「百煉鏡」はまさにこのことを詠んだ詩である。楊州鏡と関連した神話伝説の影響はきわめて大きかった。宋代の詩人は端午の帖子詞のなかで揚州鏡の典故(故実)を用いるのが常だった。ある人はこう書いた。「いつまた江心鑑(鏡)を献上するのか。君王が邪悪なるものを撃退するのを助けるのか」と。[帖子は客人を招待するときの知らせのこと]
(7)
揚州鏡伝説以外にも、唐代には大量の照妖鏡に関する神話伝説があった。神話は二種類に分けられる。一つは、神奇なる鏡の物語、もう一つは鏡を用いて妖魅を駆除する物語である。
奇鏡の描写は、神化した鏡の巫術意識をある側面から表現したものである。唐代、あるいはその少しあとの筆記小説は、この種の神奇的な鏡にたびたび触れる。
済南方山山南によく鬼魅を照らす鏡石があった。山神はこれがみだりに照り輝くので、漆を塗った。
長安の任中宣家は飛鏡を持っていた。のちにこの鏡は洞庭湖の湖畔で翼もないのに飛んでいたという。
葉法善は何枚か照病鏡を有していた。それはよく内臓や病源を映し出すことができた。
唐徳宗貞元年間、蘇州太湖の漁師が一枚の照臓古鏡を掬い上げた。鏡に照らされた者は昏倒し、嘔吐した。その後も病は治りがたくおのずと癒えることはなかった。
唐穆(ぼく)宗長慶年間、漁師は秦淮河から一枚の腑臓を照らすことのできる古銅鏡を拾い上げた。鏡を照らした者は恐ろしくなり、またも鏡を川に落としてしまった。李徳裕は人を川に潜らせて探したが、見つからなかった。
唐懿(い)宗咸通年間、金陵秦淮の漁民が古鏡を発見した。心腑を照らして見ることができ、漁民は驚き、不安になった。揺れる舟に乗って河口にまで出て、鏡を大河に向かって投げた。
南唐王は六鼻鏡という鏡を持っていた。千里離れた場所のものを照らして見ることができた。
裴岳(はいがく)は古鏡を持っていた。その友于左揆(うさき)が鏡を照らして見ると、朱色の衣の官吏が呼ばれたあと、人が群がる光景が見えた。それは于氏が後日大臣の位に就くことを予知していた。
宋璟(そうけい)は若い頃鏡の中に「相」の字を見たが、はたしてのちに宰相になった。
(8)
隋唐代の小説のなかでも古鏡が妖怪を駆逐した伝奇故事は少なくない。唐人李隠は『瀟湘録(しょうしょうろく)』のなかで言う。鼠精(ネズミの妖怪)の群れが少年に変成し、長安で道行く人々を襲って殺した。そこである道士が手に古鏡を持ってこれを照らすと、少年の群れは鎧兜(よろいかぶと)を捨て、逃げ出した。この書にはまた、古鏡を用いて碁盤の精怪を映し出すと、碁盤が突然はねあがり、そのあと地面に落ちて砕けるという神奇なさまを描いている。
古鏡の神力を誇張して描いた小説のなかでももっとも有名なのが隋の王度の『古鏡記』だろう。この作品は古鏡の駆邪(邪悪なものを駆逐する)を描いた故事である。人をひきつけて夢中にさせる奇文といえるだろう。小説をまとめるとつぎのようになる。
汾陰(ふんいん)人の侯生は臨終のとき、黄帝が鋳造した十五枚の鏡のうちの八枚目を王度に贈与し、言い聞かせるように語った。「この鏡を持つということは、百邪を人から遠ざけるということだ」。
この鏡の直径は八寸、鏡鈕(取っ手)は麒麟がうずくまった形をしていて、鏡鈕を囲むように亀竜風虎が鋳られている。その外には順次八卦、十二属相、二十四の銘文が配置されている。
大業七年六月、王度は鏡を持って長安にやってきて、程雄の家に寄宿した。程家の鸚鵡(おうむ)という名の下女が遠くを見やると、王度が古鏡をもてあそんでいた。女は走り寄って叩頭して許しを求めた。もともとこの女は華山神廟の前にいた千歳のタヌキが変じたもので、苦難に満ち、困窮して流浪する運命にあった。程家に一時的に住んでいたのだが、不意に天鏡と出会い、姿を隠しておくことができなかったのである。王度は悲惨なその身を憐れに思い、しばらくは古鏡をしまっておくと約束し、また彼女がすきなだけ酒が飲めるように、酒宴を開いた。鸚鵡は酔ったあと、衣を振って塵を落とし、舞いながら「宝鏡、宝鏡、哀しきかなわが命」と悲哀の歌をうたった。タヌキは女の姿のまま死んだ。
大業九年秋、王度は芮(ぜい)城に至り、県令になった。県府庁舎の前に数丈の高さのなつめの樹があり、県令がその職に就いたとき、この樹を祀らなければならないと聞いた。でなければ大きな禍に見舞われるというのである。
王度は樹のなかに精魅がいるにちがいないと考えた。そこでひそかに古鏡を樹の枝に掛けた。夜、二鼓を叩くと、突然雷鳴がとどろき、一陣の狂風と暴雨がやってきた。
翌日、紫の鱗に覆われた赤い尾を持つ、緑の頭に白い角の生えた、額に「王」の字が書かれた長蛇が樹の上で死んでいた。王度は巨蛇を燃やし、蛇洞を埋め、この怪物を完全に滅ぼした。
同じ年の冬、大飢饉が発生し、疫病が流行した。王度の部下の張竜駒は、一族数十人全員が病気で倒れた。王度が鏡を持って張家にやってくると、夜、竜駒に鏡を持たせて照らして見た。その結果、患者はみな鏡に一輪の明月を見たことがわかった。それは「氷のごとく体につき、内臓をひんやりと冷やす」。すると熱はたちまち消え、一晩のうちに全員の病気が治った。
大業十年、王度の弟王績(せき)は古鏡を持って世界中を旅した。三年後、戻って来ると言った、「この鏡は真の宝物である」と。というのも嵩山(すうざん)で、人に化けて活発に論じている亀精と猿精を古鏡に映し出して殺すことができたからである。
太和県では赤い首、白い額、竜形で蛇の角の鮫精を映し出して殺した。
汴梁では、張琦家の大雄鶏精を映し出して殺し、この鶏精に惑わされていた張氏の女(むすめ)を救い出した。
揚子江の南に渡ったとき、鏡をもって乗舟し、烏雲(黒雲)を追い払い、風浪を鎮めた。
攝山の芳嶺では、熊鳥が威嚇するなか、鏡で道を開いた。[熊鳥は、山海経では鴖鳥(みんちょう)とも呼ばれる怪鳥]
浙江を渡るとき、鏡で川を映し出すと、鼋鼍(げんたく)が走り去ったという。[鼋はスッポン、鼍は揚子江ワニのこと]
豊城県では、夜間に女子にまとわりつく黄鼠狼精、老鼠精、蜥蜴精を鏡に映して殺し、李氏の三女の魅病を治した。ある人が王績に言った。この鏡は天から賜ったものである。人間世界に長くとどまるべきものではない。ゆえに返却せねばならない。宝鏡を兄のもとに返さねばならない、と。
はたしてこの年の七月十五日、「箱の中から悲鳴が聞こえてきた。その声ははるか遠くにまで響き渡った。声はしだいに大きくなり、虎か竜の吼え声のようだった。長い間声は轟いていた。ようやくやみ、箱をあけると、鏡はなくなっていた。
『古鏡記』の素材は、当時流行していた明鏡駆邪活動から来ていた。小説冒頭の古鏡の描写を見ると、隋唐時代から伝わる呪術用の鏡と何と似ていることか。つまり古鏡の奇異な物語の出現も隋唐時代だったということである。明鏡駆邪呪術が頻繁に運用され、全面的に普及し、特殊な作品が誕生する可能性があったのはこの時期だったということである。
(9)
宋代から明清代まで、鏡の駆邪は慣用として術士がおこなう法術だった。宋徽宗のとき、大巫王老志は「乾坤鑑法」を献じた。徽宗はこの法を鋳るよう命じた。乾坤鑑の鋳造が終わったあと、王老志は徽宗に奏上した。
「皇帝皇后は危難のもとにあられます。つねに乾坤鑑のもとで沈思黙考し、警戒心を保持し、もって災いを消していただきたい」
明代蘇州城に無業遊民の張皮雀という者がいた。かつて術士胡風子に学んだことがあり、墨を鏡に塗る方法で雲を興し、雨を降らせることができた。
清代の北方少数民族の薩満(シャーマン)もまた小鏡を常備の法器とした。
「その法のもっとも異なるのは、室内で馬の舞を舞い、鏡を飛ばして祟邪を駆逐し、鏡によって疾病を治すことだった。全身にこれをこすりつけ、患部があれば肉に食い込んで抜けなくなり、これが激しく震え、関節がみな鳴り出すと、病が去っていく」
民間の伝説では「妖人」が小鏡を用いて他人の財物を映し出すという。「光緒八年、妖人が多数を率いて詐称を働き逃げ出した。(……)男女の頭目はそれぞれ卜財鏡という名の小鏡を持ち、人の家に至ると傘や笠で人の耳目をふさぎ、鏡に映しだし、財物がどこにあるかを知った。隠形法によって財物を手に入れたのである。
明鏡駆邪術は古代医学、古代文学創作、古代人の生活法式に多大な影響を与えてきた。『医心方』巻二十五に引用する『竜門方』に言う、鏡を床下の柱に掛けるだけで子供の夜泣きを治すことができると。
『本草綱目』巻八に引用する陳蔵器によれば、「水に古鏡(銅鏡)を投げ入れて煮沸する。出てきた銅の成分と諸薬をいっしょに煮る。その汁を飲めば、てんかんやその他邪気が入って起こす子供の病気などは治る」。もし古鏡に銘文があり、字体が古ければ古いほど効果がある。
また『大明会典』に言う、古鏡は一切の邪崇を避けることができると。なかでも女人鬼交、飛尸蠱毒、難産、突発性心臓痛を治療することができる。
もし虫が耳や鼻に入ってきたなら、耳や鼻の周辺を古鏡で叩くだけでいい。虫は自ら出ていくだろう。
李時珍は結論づける。「鏡の金水の精は、内に明るく外に暗い。古鏡は剣のごとく、もし神明があれば、邪魅を避け、悪にさからうことができる」。
彼はまた先人の古鏡の医方を補充し、古鏡の煮汁を服用すれば小児ヘルニアおよびその膨隆を治すことができる。
(10)
照妖鏡の習俗および伝説は詩人や小説家にインスピレーションを与えてきた。彼らは大量の『古鏡記』のような作品を創り出して来た。今もなお読みつかれているようなまばゆいばかりの作品群である。『西遊記』は托塔李天王が持つ照妖鏡が捉えた孫悟空の故事であり、『紅楼夢』は足を引きずった道人(道士)が賈瑞(こずい)に贈った風月宝鑑(鏡)に見える筋立てである。これらの書き方は作家が呪術的な素材を加工して作品に取り入れた典型的な事例である。
古代民間の婚礼のような習俗、部屋の配置、葬送、占い、どれをとっても明鏡駆邪術がおこなわれた形跡があった。宋代の一般の婚礼でも、新婦が下車したあと、ひとりの女郎が鏡で新婦の顔を照らしたり、後ろに下がったりしながら、新郎の家に引き入れていった。
明清代になると、術士は新婦に自ら鏡を持つよううながした。「新婦は紫の服を着て、明鏡を抱き、不吉なものを遠ざけ、吉祥を招き寄せた」。
清代においても、生活について書かれた書のなかで、古訓はこのようにするよう強調している。居室の配置についても、明清代の人は認識していた。「家の中に大鏡を掛け、邪悪な者を避けるべし」「部屋の中に大鏡を置き、夕暮れや明け方にこれを映し、健康を増し、邪悪なものを遠ざけねばならない」。こうした生活の秘訣は、道士の日月鏡法術や四規鏡法術から来ているのは明らかである。
漢代にはすでに副葬品として鏡がいっしょに葬られる習俗があった。前漢時代、霍光が死んだあと、漢宣帝は彼に「東園温明」を賜った。東園は少府に属する機構である。温明は一種の器物だった。「四角い形の漆の桶で、表を開けると漆画があり、そこに鏡を置くと、遺体の上に掛けることになった。そして鏡を収め、蓋をした」。
漢代の温明は特別で、鏡には鎮墓の役割があった。おもに死者のために地下の悪鬼を駆逐した。
宋代と清代に類似した葬俗があった。当時の学者は、棺材の上に鏡を吊るすのは、光明を取り暗闇を破壊するという意味にとらえた。唐代の段成式は『酉陽雑俎』「尸穸(しせき)」で完全に相反する習俗に言及する。[穸は墓穴という意味]
「死者を送るのに葦(あし)の革はよくない(柔らかすぎる)。鉄の器物や銅の鏡を匣の蓋に使うことはできない。死者に明かりを見せることができないからだ」
確実に言えるのは、銅鏡を副葬品として入れないのは、鬼を制圧する武器があらたな鬼を招くのではないかいう不安を覚えたことである。副葬品として銅鏡を入れることと副葬品として銅鏡を入れさせないこと。どちらも死者を保護するのが目的である。ただ問題を考慮する角度がおなじでないので、ふたつが異なるものになってしまったのだ。
(11)響聴
唐代以降民間では、「鏡聴」、または「響卜」と呼ばれる特殊な占い術が流行した。これは懐に鏡を入れて表通りに行き、人の話を聞き、その最初のことばから未来を予測するというもの。唐代詩人王建の『鏡聴詞』はこのことを書いている。
宋人陳元靚(ちんげんせい)『歳時広記』巻七には「鬼谷子響卜法」がくわしく紹介されている。
鏡聴術は照妖鏡法術の変種である。五代に至ると、孫光憲『北夢瑣言』が、南方人は鏡で亀尿を取るという珍聞を述べている。荒唐無稽な話だが、上述のことが伝えられるうちに変化したものだろう。